2025/04/27 復活節第2主日 お説教

 


〔4月27日/復活節第2主日〕

[説教]

今日は、神のいつくしみの主日です。今日の答唱詩篇で、「神のいつくしみは絶えることがない」という賛美の言葉があります。この言葉通り、「神のいつくしみ」とは、何があっても絶えることがない愛のことです。私たちが信じている神は、永遠の神です。そして、すべてのいのちを永遠に愛してくださる神なのです。復活祭は、愛が永遠に続くことを祝う時なのです。

今日、私たちは、復活の主イエスに出会います。復活の主の姿を見ます。復活された主の体には、十字架上で負った深い傷が、そのまま残っています。傷跡ではなく、傷そのものが残っています。福音記者ヨハネが伝える、この傷ついた体は何を意味するでしょうか。主の傷ついた体は、十字上の愛が、復活後も続いていることを意味しているのです。主の復活とは、十字架上で示された愛が、永遠に続くということなのです。ただ、神の愛は永遠だということではありません。十字架上で示された愛が、永遠だということなのです。

そして、今日の福音は、弟子たちが、「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と伝えています。弟子たちが、恐れていたことは、愛することです。誰かを愛して、自分が傷つくことです。だから、愛さなくてもよいように、誰とも関わらなくてもよいように鍵をかけていました。私たちも、愛することを恐れて、心に鍵をかけていないでしょうか。

復活された主は、鍵をかけている弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」ます。復活の主は、弟子たちを恐れから解放し、愛することの喜びをお与えになります。「平和」とは、愛されていること、愛することを喜べることです。安心して、まわりの人と愛し合えるになることが、平和になるということなのです。平和を与える主は、キリストの弟子である私たちに、「手と脇腹とをお見せに」なります。復活の主は、すべてのいのちへの愛、決して絶えることがない愛を、私たちに、お見せになるのです。主の手と脇腹の大きな傷は、主の大きな愛なのです。私たちは今、この大きな傷を、主の大きな愛を見つめるよう招かれています。この愛を見つめ、愛されている喜びを味わうことが、私たちの復活体験なのです。

さらに、復活の主は、弟子たちに、「聖霊」を与えられます。この霊こそ、愛の霊です。この愛の霊を与えられて、私たちは、神とすべてのいのちを愛せるようになります。喜んで、愛せるようになります。愛さなければならないという義務感ではなく、愛したいという願いになります。今は愛せなくても、いつか愛せるようになるという希望になります。こうした愛の体験こそが、私たちの復活体験なのです。

愛の霊を与えられる私たちは、まわりの人の罪をゆるすことができるようになります。罪のゆるしとは、罪を容認することではありません。忘れたり、なかったことにすることではありません。見て見ぬふりをすることではありません。ともに、罪に向き合うことです。罪を犯さずに生きる道を、ともに模索することです。神に愛されている者として、ともに生きていくことです。罪を犯した人のために祈ることです。罪を犯した人を愛することです。顔を見たくなくても、愛することです。復活された主の手と脇腹とを思い起こして、愛することです。自分も罪人であることを思い起こし、愛し合うことです。ゆるしは、愛なのです。ゆるす者とゆるされる者が分かち合う愛なのです。ゆるしこそ、十字架上で示された愛で、絶えることのない、神のいつくしみなのです。

いつくしみという愛を実行することは、極めて困難なことです。しかし、まったく不可能だということではありません。そして、この愛を実行できれば、私たちは、本当に幸せになれます。皆がいつくしみの愛を実行できれば、この世界に平和が、真の平和が、実現します。困難なことであるが、不可能ではなく、皆が心から望んでこと。それは、希望と呼ばれています。私たちは今年、希望の巡礼者として、毎日を生きています。復活という希望、いつくしみという希望、罪のゆるしという希望を持って、これからもともに歩んでいきましょう。十字架上の大きな愛を分かち合いながら、復活の主に従って、希望の巡礼の道を歩んでいきましょう。


 

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