[主の昇天 お説教]
「主の昇天」の祭日は、希望の巡礼者である私たちにとって、とても大切な日です。今日は、私たちが、すべてのいのちが、希望に満たされる日です。
福音記者ルカは、主の昇天について、次のように伝えています。「イエスは…手を上げて祝福された。そして、祝福しながら〔弟子たち〕を離れ、天に上げられた。」主の昇天とは、神の祝福なのです。祝福が、今も、続いていることなのです。私たちはよく、「神様の祝福がありますように」と祈ります。自分のためだけでなく、まわりの人のために祈ります。洗礼を受けているかどうかに関係なく、むしろ、洗礼を受けていない人のためにこそ、熱心に、祝福を願い求めます。この祈りに応えて、主イエスは、今も、天から、すべてのいのちを祝福し続けておられるのです。どのような時も、天からの祝福は絶えることがない。これこそ、地上で生きている私たちの希望なのです。私たちが、「天を見上げ」る時、そこには、希望があるのです。
神の祝福をいただくと、私たちは、神の恵みに満たされます。神の恵みに満たされると、喜びを感じます。今日の福音で、祝福をいただいた弟子たちが、「大喜び」であったことが伝えられています。そして、弟子たちは、この大きな喜びを、「絶えず…神をほめたたえ」ることで表します。天に上げられた、主イエスは、私たちを祝福し続けておられ、私たちは、大喜びで、祈り続ける。これこそ、主の昇天という、私たちの救いなのです。私たちは、祈るから救われるのではありません。もう救われているからこそ、祈ることができるのです。救われているからこそ、祈りたいと思い、祈れないことに悲しみを感じることができるのです。この祈りたいのに祈れないという思い、それは、大きな希望のしるしなのです。
大きな喜びのうちに祈ることができるならば、それに越したことはありません。しかし、私たちの毎日は、下を向いて、スマホの画面を見ながら、急いで歩いているというのが現実です。SNSのメッセージに応えることに時間をとられ、天からの祝福によって生かされいることを忘れがちになっています。スマホに表示されるメッセージに生かされているかのように、行動しています。そんな私たちに、天に上げられたイエスは、今日、語りかけておられます。「足を止めて、天を見上げなさい」と。天を見上げて、私たちの毎日を支えている祝福、私たちを生かしている希望を思い起こしましょう。
足を止めて、ゆっくりと空を見上げる時、私たちは、使徒言行録が伝える、天使の言葉も思い起こします。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」主イエスは、私たちを祝福しながら、私たちのところに、またおいでになるのです。主の昇天とは、主が再び来られることの始まりなのです。主は、再び来られる時も、私たちを祝福しながら来られるのです。主が再び来られる時も、祝福の時、すべてのいのちが恵みに満たされる時なのです。私たちにとって、世の終わりとは、恵みの時なのです。今、下を向いて、急いで歩いている人が、足を止め、上を見上げて、恵みを、大喜びでいただき、神に感謝する時なのです。私たちが今抱いている希望が、完全に実現する時なのです。
私たちは、主イエスが再び来られることを待ち望んでいます。主が、一日も早く、来られ、すべてのいのちを祝福してくださることを、心から待ち望んでいます。祝福とは、自分だけがいただいて満足するものではありません。祝福とは、分かち合うものです。神の祝福を分かち合って、神の恵みに生かされて、ともに生きるようになる。その時、私たちの救いが、本当に完成するのです。この大きな希望を分かち合いながら、ともに、希望の巡礼を歩み続けましょう。時々、足を止めて、希望の源である天を見上げて、祝福をいただき、また歩み始めましょう。希望の巡礼者として、この地上を歩みながら、天という希望を宣べ伝えていきましょう。