6月28日/年間第13主日

 [説教]


「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」使徒パウロの、この信仰宣言は、洗礼の秘跡の意味を明らかにしています。私たちは今日、使徒パウロとともに、この信仰を宣言して、福音宣教の歩みを続けるいく決意を新たにしたいと思います。

今日の福音で、主イエスははっきりと、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言っておられます。私たちはそれぞれ、自分が担わなければならない十字架が与えられています。十字架とは、避けたい苦しみです。自分の思い通りにならないことです。理不尽に思えることです。そして、自分の十字架は、他の人の十字架よりも、重く、大きく感じしまうことがよくあります。この十字架を担うことが、キリストと共に死ぬことなのです。この十字架を担って、生きていくことが、キリストと共に生きることなのです。洗礼を受けた人は、この十字架を担って、毎日を生きていくことができるのです。十字架を担って生きていくことに、意味を見いだすことができるのです。私たちは、洗礼によって、十字架を担って生きていくことこそが、本当に生きることであると思えるようになったのです。

私たちの苦しみで、一番大きな苦しみとは、「愛する」ことです。愛とは苦しみです。自分が好きな人だけを愛すれば良いならば、愛は苦しみではないでしょう。しかし、主イエスは今日、私たちに、自分が嫌いな人を愛することを求めておられます。嫌いな人を好きになる必要はありません。大嫌いでしかたがなく、いなくなってほしいと思っても良いから、愛するのです。喧嘩をしても、あいさつをしないほど仲が悪くても良いから、愛するのです。自分が嫌いな人は、その人を愛そうとする時、重い十字架となります。主は、ご自分を嫌い、憎む人を愛されました。だから、十字架につけられました。そして、主は、今も、十字架上におられます。すべてのいのちを愛し続けておられるからです。この十字架を担う力が、洗礼の恵みによって与えられているのです。私たちは、日々出会う人を愛するために、洗礼を受けました。キリストと共に、愛という十字架を担って生きていくために、洗礼を受けました。

ここで、注意しなければならないことは、誰かの言いなりになることが、愛ではないということです。暴力に耐え忍ぶことが、愛ではないのです。誰かを自分の思い通りにするということは、どのような形であれ、暴力です。暴力を振るう人に対しては、暴力をやめさせることが愛です。もしやめさせることができなければ、暴力から逃げることが、最大の愛です。愛とは、相手の幸せを願うことです。暴力を振るわずに生きていけることが、一番の幸せです。嫌われてたくないという理由で暴力を許すことは、愛などではありません。嫌われても、暴力を止めることが愛なのです。私たちは、暴力に耐え忍ぶために洗礼を受けたのではありません。暴力を振るうこと、暴力を振るわれることから解放されるために、洗礼を受けたのです。

主イエスは、「自分の命を得ようとする者は。それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っておられます。主のためにいのちを失うということは、自分の思い通りに生きようとするのではなく、まわりの人の思いを大切にしながら生きていくことではないでしょうか。お互いの思いを大切にしながら、ともに生きていくということではないでしょうか。主イエスは、すべてのいのちを愛しておられます。だから、私たちも、主とともに、すべてのいのちを愛することで、互いに愛し合うことで、すべてのいのちが、いのちを得ることができるということではないでしょうか。洗礼を受ける人は、いのちを得ます。それは、愛し合って生きるためのいのちです。愛し合おうとする時、必ずと言っていいほど、苦しみがともないます。この苦しみこそが、キリストとともに死ぬことであり、キリストとともに生きることなのです。生きているからこそ、苦しみがあるのです。

そして、洗礼の秘跡は、私たちをいつも、感謝の心で満たす秘跡です。主イエスは今日、洗礼を受けた私たち一人一人に、自分が「小さな者」であるという気づきを与えてくださいます。洗礼を受けた私たちは、まわりの人に支えられて生きている、「小さな者」となったのです。神とまわりの人の愛を信じて、安心して、「小さな者」のままで生きていける者となったのです。「冷たい水一杯」という言葉が表す、まわりの人の愛に気づいて、感謝できる者となったのです。洗礼の水は、神の愛です。「冷たい水一杯」は、まわりの人の愛です。「小さな者」とは、たくさんの愛に気づくことができる者です。たくさんの愛に生かされている、「小さな者」であることに感謝しながら、愛という十字架を担って、ともに生きていきましょう。

6月21日/年間第12主日

 [説教]


私たちは今日、主イエスに呼ばれて、ここに集まっています。こうして集まるということが、時間と場所をともにし、心を一つにして祈ることが、福音そのものなのです。福音を宣教していることになるのです。だから、今日も、力強く福音を宣べ伝えたいと思います。

主イエスは今日、私たち一人一人に、言われます。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」私たちは、この世界の中で、こうして集まり、ともに祈ることで、すでに、力強く、主の「仲間であると言い表」しているのです。「言い広め」ているのです。私たちは、教会の中にばかりいないで、社会の中で福音を宣べ伝えるよう励まされています。教会の中で祈っているだけでは、福音宣教にならないと言われることもあります。しかし、忘れてはならないことは、私たち教会は、社会の中で生きているということです。私たち教会が社会の中で生きていて、いつも、人々を温かく迎える時、私たち教会が福音となっているのです。私たちは、こうして集まり続けることで、だれでも歓迎し続けることで、この世界の中で福音となっているのです。私たちが、福音となっているのです。

今の社会は、安心して生きることが難しいところとなっています。「人々を恐れ」ながら生きなければならないところとなっています。教会は、社会の中で生きていますが、だれもが、恐れずに、安心していることができるところです。洗礼を受けているかどうかに関係なく、教会に来る人はだれでも、主イエスの温かい愛に包まれます。主は今日、「あなたがたの髪の毛までも一本数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、私たちに、語りかけてくださいます。このみことばを信じて、互いに大切にし合う時、私たち教会は、福音となっているのです。

私たちは今日、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という福音を、主イエスから、「耳打ちされ」ています。私たちは、この福音を、「屋根の上で言い広め」るよう求められています。「すべてのいのちは大切である」と言い広めるように求められています。特に、弱い立場に置かれたいのちを大切にすることは、私たち教会の義務です。女性が神からいただいたいのちを感謝して、その小さないのちを安心して、喜んで、この世界に迎えることができるようにすることは、私たち教会の最も大切な使命です。そのために、この世界に、いかなる暴力もあってはならないのです。いのちを傷つけることは、もちろん暴力です。しかし、それだけではありません。それ以上に、いのちを傷つけなければ生きていけないように、だれかを追い詰めることも暴力です。自分は正しいと主張し、だれかを悪と決めつけ、まわりといっしょになって責めることも、時として大きな暴力になるのです。戦争や貧困だけでなく、過度の、不要な競争、あらゆる形の虐待やハラスメントなども、決して許されない暴力なのです。暴力はいかなるものであれ、決して許されないのです。もし私たちの中に暴力があるとしたら、私たちは、主から、はっきりと宣告されることになるでしょう。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天に父の前で、その人を知らないと言う。」暴力は、福音の否定です。主を知らないと言って、主の愛を拒否することです。私たちが取り組まなければならないことは、暴力のない社会です。暴力を振るわなくても生きていける社会です。暴力を振るっている人を責めるのではなく、どうしたら暴力に頼らずに生きていける社会にしていくかを、皆で、真剣に考え、祈ることです。暴力を振るってしまう人の苦しみを理解し、暴力のない社会を、ともに築いていくことです。一人一人が抱えている傷がいやされ、すべての人が、恐れることなく、安心して生きていける社会に、共同体になっていくことです。

使徒パウロは今日、宣言しています。「恵みの賜物は罪とは比較になりません。」神の愛は、人間の罪と比較にならないほど、大きく、深いということです。私たちは今日、この福音に、喜んで、そして、謙虚に耳を傾けたいと思います。私たちは、罪人の集まりであることを謙虚に認めたいと思います。その上で、私たちは皆、神に愛されていることを喜びたいと思います。そして、神の愛によって、この世界から、あらゆる暴力がなくなることを信じて、祈りたいと思います。主イエスの仲間であることを、ともに祈り続けることで、言い広めていきたいと思います。さらに、忘れてはならないことは、ともに祈っている限り、どこにいても、離れ離れになっていても、私たちは、主の仲間です。神の愛に生かされている共同体です。教会という福音です。この世界の中で、福音となって、ともに歩んでいきましょう。さまざまな理由で教会に来ることができない人ととも、祈りでつながり合い、ともに福音を宣べ伝えましょう。

6月14日/年間第11主日

[説教]


私たちは今、「年間」という時を過ごしています。この期間は、私たち、主イエスから派遣されて、毎日の生活の中で福音を宣べ伝える時です。

私たちが宣べ伝える福音は、「天の国は近づいた」というよい知らせです。「天の国」とは、場所ではありません。生きている喜びです。神に生かされている喜びです。まわりのいのちと共にに生きている喜びです。神とまわりのいのちに支えられて生かされていることに感謝できる喜びです。ここに集まっている私たちは今日、この喜びが、「近づい」ていることを宣べ伝えるよう励まされているのです。「近づい」ているとは、天の国が始まっているということです。そして、まだ完成していないということです。私たちの喜びは、まだ本物ではないということです。多くの人が、喜びを感じていないということです。喜びでないことを喜びと思い込んで、その場限りの満足を得ているということです。

今日の福音は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と伝えています。飼い主のいない羊は、どこに向かえばよいかわからなくなります。危険や危機が来ても気づきません。そして、動けなくなります。私たちも、飼い主のいない羊になっていないでしょうか。生きている意味を見い出しているでしょうか。将来のことなど考えたくない。今さえよければいい。自分の幸せを考えるのが精一杯で、まわりの人のことなど考える余裕などない。今のままでいいから、変わりたくない。こうした思いが起こるのが悪いということではありません。こうした思いが起こる時、私たちは、「弱り果て、打ちひしがれている」自分に気づきたいと思います。そして、強がらず、弱音を吐きたいと思います。祈りとは、賛美と感謝だけではなく、神に、安心して弱音を吐くことです。弱音を吐き終わった後の賛美と感謝こそ、本当の祈りなのです。神に弱音を吐くだけでなく、互いに弱音を吐き合いたいと思います。教会は、安心して、弱いままでいることができるところです。強くなければいられないとしたら、そこは教会ではありません。

人間は強くないのです。弱い自分を認めて、神に祈るしかないのです。弱り果て、打ちひしがれている私たちが祈る時、主イエスは、「深く憐れ」んでくださるのです。そして、弱く、貧しい私たちが、共に祈る時、互いを深く憐れむことができるのです。互いの幸せを、心から願うことができるのです。共に祈る仲間に感謝することができ、共に生きるようになるのです。弱い自分のままで、安心して、神に祈り、まわりの仲間と共に祈ることができる。祈りながら、共に生きることができる。これこそが、生きる喜びであり、生きる意味ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。

主イエスは、弱く、さまざまな限界を抱えている私たちを、「呼び寄せ」、福音宣教のために、派遣されます。私たちは、派遣される時、「汚れた霊に対する権能」を授けられます。この権能は、祈りの力です。祈りこそ、悪に対する力です。悪霊が望んでいることは、私たちが祈らなくなることです。私たちが祈っている限り、誰も、私たちを神から引き離すことはできません。福音宣教とは、この祈りの力を、日々出会う人と分かち合うことです。祈りの力を分かち合って、共に祈るようになることです。共に祈る喜びを分かち合うことです。そして、主は、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます。こうした業をを行われるのは主ご自身です。私たちはこうした苦しんでいる人のために祈ります。他にできることがあっても、まず祈ります。苦しんでいる人とともに祈ります。この祈りの力を「ただで受けたのだから」、喜んで分かち合います。ここに、天の国が実現しています。

主イエスは使徒たちに、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。福音宣教のために、遠くに行く必要はありません。まず、近くにいる人と、「天の国は近づいた」という福音を分かち合いましょう。近くにいる「弱り果て、打ちひしがれている」人と分かち合いましょう。この分かち合いは、その人のために祈ることから始まります。祈りとは、主の「深く憐れ」む心をもって、苦しむ人と共に苦しむことです。共に苦しむということは、共に生きているということです。そんな共に生きることの広がりが、少しずつ大きくなっていくことが、主が言われる「収穫」ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。主は、「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫の主に願いなさい」と言っておられます。収穫の主に願いながら、「天の国は近づいた」と宣べ伝えていきましょう。

6月7日/キリストの聖体

 [説教]


5月31日に、三位一体の愛をともに祝った私たちは、今日、まことの神であり、まことの人間であるイエスの愛を祝っています。「キリストの聖体」とは、主イエスのすべてであり、主の愛そのものなのです。復活し、今、私たちとともに、私たちとともにおられる主ご自身なのです。

主イエスは今日の福音で、ご自分のことを、「天から降って来た生きたパン」であると宣言しておられます。「生きたパン」とは、この世界に来て、私たちとともに生きておられる主ご自身なのです。そして、私たちを、すべてのいのちを愛し続け、生かし続けるために、ご自身のすべてを与え続けておられるのです。「キリストの聖体」とは、与え続けられる、与え尽くされるキリストのことです。

主イエスは、私たちに、ご自分の「肉と血」を与え続けておられます。主の肉とは、私たちの肉体と同じ肉体です。この肉体をもって、主は、人々のもとに出向き、人々とともに歩かれました。この肉体をもって、人々に触れ、人々の痛みを感じ、人々を癒されました。この肉体をもって、一人一人の声を、ていねいに聞き、この肉体が出る声で、愛の福音を分かち合われました。この肉体をもって、人々ととともに食べ、すべてのいのちが救われている喜びを分かち合われました。この肉体をもって、十字架の上で苦しまれたのです。主の「血」とは、この苦しみそのものなのです。すべてのいのちが救われるために流され続けている血なのです。そして、この肉体が復活したことで、主は今も、苦しんでいるいのちとともに苦しんでおられるのです。苦しみをともにしながら、すべてのいのちの復活という希望を分かち合いながら、私たちとともに歩んでおられるのです。「キリストの聖体」とは、私たちの悲しみや喜びを感じておられる、笑い、泣いておられるキリストのことです。

使徒パウロは今日、はっきりと言っています。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」私たちが聖体をいただく時、皆、同じ愛をいただいています。私たちは、聖体をいただいた後、それぞれの生活をします。この世界に中で、散り散りになって生きます。私たちは散り散りになって生きていますが、キリストの愛という、同じ愛を生きているのです。散り散りになるからこそ、愛は広がっていくのです。さまざまな生き方をするからこそ、愛は豊かになっていくのです。「キリストの聖体」とは、キリストの愛を分かち合っている私たちのことです。私たちは、散り散りになって、さまざまな愛を生きる時、「キリストの聖体」となるのです。

今日の第一朗読は、荒れ野の旅の終わりに、モーセが民に告げた言葉を伝えています。その中に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。確かに、私たちは、みことばがなければ生きていけません。しかし、みことばを聞くだけで、口にするだけでは、みことばを生きていることにはなりません。みことばは、私たち一人一人の肉体を突き動かす時、愛の福音となります。心地よい言葉、綺麗な言葉が、みことばなのではありません。肉体をもって行われる愛こそが、本当のみことばなのです。肉体を動かすことができなくても、動かすことができないからこそ、必死になって愛している姿、全身全霊を込めた愛こそが、生きたみことばなのです。「キリストの聖体」は、肉体をもって生きるみことばなのです。すぐに答える人工知能ではないのです。間違いながらも、必死になって。愛を生きようとする、私たち一人一人なのです。皆が愛し合って生きていける世界を目指して、答えを探し求めて生きている私たちが、迷いながら、ともに歩んでいる私たちが、「キリストの聖体」なのです。これからも、「キリストの聖体」として、ともに歩んでいきましょう。

5月31日/三位一体の主日

 [説教]


今日は、神のいのちを祝う日です。そして、こうして集まっている私たちが、このいのちをいただいていることを喜ぶ日です。いただいている、この尊いいのちをあたりまえだと思わず、感謝する日です。

今日の福音は、神のいのちについて、次のように宣言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神のいのちとは、神が世を愛しておられるということです。世とは、神の愛を受け入れることができない、神の愛をわかろうとしない、この世界です。今の世界の現実です。だからこそ、神は、世を愛されるのです。神は、この世界を愛することしかできないのです。世が神を拒否すればするほど、神の愛は大きくなっていくのです。そして、神の愛は、独り子を与える愛です。独り子とは、神のいのちそのものです。神の独り子イエスは、そのいのちを、愛の拒絶そのものである十字架の上で、与え尽くされます。与えられるから、与えるのではないのです。与えられないからこそ、限りなく与えるのです。それが、神の愛であり、神のいのちなのです。こうした愛といのちは、私たちの理解や能力を超えています。ですから、神秘なのです。

神の愛といのちを信じる時、私たちは、「永遠の命を得る」ことになります。いのちを信じるとは、生きたいと願うことです。愛を信じるとは、愛したいと願うことです。神の「独り子を信じる」とは、主イエスのように、生きたい、愛したいと願うことです。願いながら、毎日を生きることです。「永遠の命」とは、地上の生活を終わった後のいのちではなく、今から、毎日、ずっと生きていくいのちなのです。神のように、独り子イエスのように、愛したいと思いながら、生きていくいのちなのです。神の愛は永遠ですから、私たちも、神の愛を生きたいと願う限り、永遠に生きることになるのです。私たちは天国に行きたいと思っています。それは、神に愛されたいからではありません。私たちは、地上にいる間に、神に完全に愛されています。私たちは、天国に行き、ずっと愛し続けたいのです。この地上で経験している、さまざまな限界を超えて、天国で思い切り愛したいのです。神と隣人を愛したいのです。

今日私たちが礼拝している、三位一体の神は、私たちを愛しておられる神です。私たちが信じる神は、私たちを愛しておられるから、三位一体なのです。今日の第二朗読で、使徒パウロは、彼が愛している姉妹兄弟たちに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と挨拶しています。この挨拶は、ここに集まっている私たちにも向けられています。この挨拶は、三位一体の愛が、すべての人とともにあるように願う祈りです。「聖霊の交わり」という言葉が示しているように、私たちは、愛されるだけでなく、三位一体の愛に加わるように招かれています。父と子と聖霊が愛し合っておられるように、私たちも、互いに愛し合うように励まされています。私たちが教会が、この世界の中にあって、三位一体の愛をまわりの人と分かち合いながら、生きていくように励まされています。

今日の福音で警告されているように、私たちは、神の愛を信じなければ、必ず滅びます。私たちは、愛を失えば、滅びます。愛し合えなければ、滅びることになります。私たちは、愛がなくても、お金や権力を持っていれば、生きることができると思ってしまうことがあります。しかし、そう思えるのは、今生きているからです。そして、神とまわりのいのちに愛されているから、今生きているのです。生きているから、愛を否定することができるのです。三位一体の神は、私たちを、いつでも、どこでも、今までも、これからも、ずっと愛するために、私たちとともにおられます。この三位一体の愛を信じて、この愛が生きていることを、ともに歩んでいきたいと思います。私たちがこの愛を信じている限り、この愛を宣べ伝える限り、この世界は、決して滅びることはないのです。「主の御名」、「神の独り子の名」、「愛」という御名が大切にされるかぎり、神の愛は、私たちの愛は、ずっと生き続けるのです。

5月24日/聖霊降臨の主日

[説教] 

聖霊降臨の主日である今日、私たち教会は、教会の誕生日を祝うために、こうして集まっています。そして、教会にいのちを与え続けている聖霊が、これからも、教会を超えて、あらゆるいのちを生かし続けてくださるように、心を一つにして願い求めています。

「聖霊を世界にあまねく注いでください」と祈っています。 


今日の第一朗読である、「使徒たちの宣教」は、聖霊降臨の出来事を伝えていますが、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ということばで始まっています。聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが「ほかの国々の言葉で語りだす」ことだけではありません。「一同が一つになって集まる」ことこそが、聖霊の、最も大切な働きなのです。私たちが、さまざまな違いを超えて、こうして集まる時、聖霊が力強く働いているのです。 


そして、私たちは今日、ただ集まっているのではありません。 

「イエスは主である」と宣言するために集まっています。 

使徒パウロがはっきりと言っているように、「聖霊によらなければ」、この信仰宣言はできないのです。 

私たちは、毎日の生活の中で、何度も、「アーメン」と言います。この言葉は、イエスが主であることへの、心からの同意の言葉なのです。この言葉が言えることこそ、聖霊の働きなのです。「アーメン」という言葉が出る時、聖霊降臨という救いの出来事が起こっているのです。 

聖霊降臨の主日である今日、私たちは、「アーメン」と言えることに感謝しましょう。 

さまざまな理由で、この言葉を声に出せないこともあります。私たちは、たとえ声に出せなくても、心の中で、喜んで叫ぶことができます。心の中だからこそ、まわりを気にせず、喜んで、叫ぶことができます。この叫びこそ、聖霊降臨なのです。 

聖霊降臨は、特別な出来事ではないのです。主イエスを信じている、だれもが、いつでも、どこでも、体験している出来事なのです。 

「アーメン」と言えることこそが、奇跡なのです。 


今日の第一朗読は、聖霊降臨の出来事に居あわせた人々の、次の言葉で終わって

います。 

「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 

聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが、神の救いの業を語り始めることです。 

私たち、キリストの弟子たちが福音を宣べ伝える時、聖霊が働いているのです。 

 

そして、この福音を聞く人がいるのです。福音を、救いのことばとして、喜んで受け入れる人がいるのです。人が福音を聞く時も、聖霊が働いています。 

使徒たちの宣教は、「わたしたちの言葉で聞こうとは」と伝えています。聖霊は、人々が受け入れやすい方法で、福音を語ります。主の弟子たちに、福音を語らせます。 

主の弟子である私たちは、聖霊が語らせるままに、福音を宣べ伝えたいと思います。そのために、聖霊の助けを願いたいと思います。 

福音宣教のために聖霊の助けを祈り求めている時、私たちは、聖霊降臨を体験して

いるのです。祈れることこそが、聖霊の働きなのです。願いがかなえられることではありません。願いがかなえられなくても、祈り続けられることが、聖霊の、最も力強い働きなのです。 


福音宣教は、個人で行うことではありません。共同体が行うことです。 

使徒パウロは今日、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」

と述べています。私たち一人一人が、聖霊の助けを求めて、福音宣教を続ける時、一人一人の行いは違っていても、対立しているように見えても、私たちは、共同体として、福音を宣べ伝えていることになります。 

だから、聖霊の働きを信じて、互いに感謝し合いましょう。感謝し合えることは、聖霊の働きなのです。私たちを聖なるものとする、愛の霊の働きです。 


今日の福音で、弟子たちは、復活された主イエスから、聖霊を与えられます。 

私たちは、主から、「聖霊を受ける」時、この世界の罪を「赦す」ことができます。 

私たちは、聖霊の働きを受けて、この世界が、いのちを傷つける悪から解放されるように祈ります。いのちを傷つける悪こそが、罪です。すべてのいのちが罪から解放され、ともに生きることができるよう、祈り続けます。あきらめずに祈り続けます。 

祈るだけでなく、すべてのいのちがともに生きる道を探し求めます。聖霊にうながされて、精一杯努力します。 

「あなたがたに平和があるように」という福音を分かち合いながら、すべてのいのちが生きることができる平和の実現をめざして、ともに歩んでいきます。 

キリストの平和を、この世界で分かち合いながら、ともに歩む時、私たち教会は、生きています。教会は、誕生し続けます。 

復活された主の愛を信じて、日々、聖霊降臨の恵みによって、ともに歩んでいきましょう。 


5月17日/主の昇天

 [説教] 


「主の昇天」の祭日である今日、私たちは、復活された主イエスが、神の右の座に着かれ、すべてのいのちを治めていることを祝っています。 

私たちは今日、まことの神である主イエスを、心を込めて、ともに礼拝しています。 


使徒言行録が伝えている通り、主イエスは、「天に上げられ」ました。 

弟子たちは、ただ、「天を見つめてい」ました。私たちも今日、天を見つめたいと思います。

私たちは、地上のことに心を奪われて、天を見つめることができなくなっています。 天を見つめるためには、足を止めなければなりません。スマホやコンピュータの画面から目を離さなければなりません。だれかの悪口を言うのをやめなければなりません。忙しい日常から、一時でも離れなければなりません。そして、外に出なければなりません。天を見つめて、神の右の座におられる主を探し求める時、私たちは祈っていることになり、心にキリストの平和が訪れるのです。 


そして、主イエスが、神の右の座に着いて治めておられるということは、御父と御子が一つになって、すべてのいのちを愛しておられるということです。 

神は、地上から離れたところで、私たちを愛しておられるのです。私たちが、この地上でどのように生きているかに関係なく、私たちを愛しておられるのです。 

天からの愛は、無条件の愛なのです。私たちは、この無条件の愛を信じているでしょうか。こんな私を、神が愛されるはずがない。私たちはよく、神の愛を信じられなくなります。そんな時は、外に出て、天を見つめたいと思います。天を見つめながら、すべてのいのちを、無条件で愛しておられる神に感謝をささげたいと思います。神の愛への信仰を深めたいと思います。地上の私たちの愛が不完全であることを、謙虚に認め、天の神の愛に、すべてをゆだねたいと思います。 


今日の福音は、弟子たちが、「ガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」と伝えています。 

山は、神と人とが出会うところです。山は、キリストの弟子となった私たちが、まことの神であるキリストと出会うところです。そこで、私たちは、主のみことばと主のいのちを分かち合います。今、こうして祝っているミサが、私たちが登る山です。 

 

ミサは、主イエスが招いてくださる礼拝です。私たちがこうして集まっていることは、 あたりまえのことではありません。共同体が集まれることは、大きな恵みです。共同体が集まって、主を礼拝することは、私たちにとって、主の昇天の体験です。日常生活から離れたところで主に出会うことこそが、主の昇天です。 

そして、弟子たちの中には、「疑う者もいた」と伝えられています。 

私たちは、神を信じることができなくなる時があります。自分の信仰に自信を失い、教会に行けなくなる時があります。今日の福音は、そんな時も、主に会いに来るように、そんな時こそ、共同体の集まりに加わるように励ましています。 

地上で生きている私たちは、完全な信仰を持つことなどできません。だから、主のもとに来て、信仰を深めていただくのです。不完全な信仰しか持てないからこそ、主のもとに集まること、これこそが、主の昇天という恵みではないでしょうか。 


そして、主の昇天とは、主イエスの福音宣教の歩みを、主の弟子である私たちが続けていくことであると言えます。主の昇天とは、福音宣教が続いていくことなのです。 

主は今日、こうして集まっている私たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。私たちは、毎日の生活の中で、神の愛で、まわりの人を愛したいと願っています。すべての人が、神の愛の中で生きることができるように努力しています。 

主の弟子である私たちは、すべてのいのちが、神の愛の中に浸され、幸せになるようにと祈りながら、毎日を生きています。 

こうした私たちの生き方が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音の実現となりますように、ともに祈りましょう。 

今月は、聖母月です。聖母マリアが、私たちとともに祈ってくださいますよう、心から願いましょう。 

「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」


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6月28日/年間第13主日

 [説教] 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」使徒パウロの、この信仰宣言は、洗礼の秘跡の意味を明らかにしています。私たちは今日、使徒パウロとともに、この信仰を宣言して、福音宣教の歩みを続けるいく決意を新たにしたいと思います。 ...

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