2月15日/年間第6主日

[説教] 

私たちは今、天の国の福音を分かち合っています。そして、この福音を、それぞれが生きているところで、宣べ伝えます。すべての人が、天の国に招かれています。天の国で、生きるよう招かれています。 


主イエスは今日、私たちに仰せになります。 


「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」 


律法学者やファリサイ派の義とは、どのような義でしょうか。それは、神の掟を守る者だけが救われるという義です。掟を守れない者を、救いから排除することで成り立つ義です。 


では、私たちが信じている福音の義とは、何でしょうか。福音の義とは、すべての人が救われることで成り立つ義です。皆が、ともに救われるという義です。ですから、もし自分だけの救いを望む者は、義とされることはないのです。皆の救いを求める者だけが、天の国に入ることができるのです。 


今日の福音で、厳しい掟が与えられています。姉妹兄弟を傷つけなくても、「腹を立てる」だけで、神の掟を守っていないと判断されるのです。性欲を持つだけで罪人とされることがあるのです。私たちはだれでも、人間である限り、感情と基本的な欲求を持っています。そう考える時、私たちはだれも、こうした掟を守ることができません。 


だから、主から与えらた掟など守らなくても良いということではありません。私たちは、守りたいという望みを持ち続けたいと思います。自分が掟を守れるかどうかだけに関心を持つことは、自分のことだけを考えるということです。私たちが考えなければならないことは、どうしたら、皆がともに、掟を守れるようになるかということです。天の国では、皆が支え合って、掟を守るのです。天の国は、少数の者だけでは成り立ちません。皆が入らなければ、決して完成しないのです。 


腹を立てないようになるために、私たちは、なぜ腹を立てることがあるのかを振り返ることが必要だと思います。暴力や不正に腹を立てることは、正しいことです。この場合、暴力や不正をなくすことで、だれも腹を立てなくてもよいようにすることが、掟を守ることになります。時として、腹を立てることよりも、腹を立てさせることの方が、はるかに罪深いのです。今、この世界では、あまりにも多くの、腹立たしいことが起こっています。世界で起こっていることに関心を持たなければ、腹が立つこともなくなるでしょう。しかし、無関心であることは、腹を立てること以上に罪深いのです。振り返りたいと思います。何に、だれに、なぜ腹を立てたのか。自分が腹を立てることで、だれが傷ついたのか。腹を立てることで、だれが励まされたのか。 


そして、私たちは今日、「姦淫するな」という掟を与えられています。私たちは、性別に関係なく、だれかを、自分の欲望の対象とする時、姦淫の罪を犯していることになります。だれかを自分のモノとしたいという思い、自分の思い通りにしようとする思いが、「みだらな思い」なのです。自分の目の前にいる人を、心から大切にしたいと思う時、その人の本当の幸せを願う時、みだらな思いが起こることはありません。私たちは、姦淫やみだらな思いが悪いということを知っています。そして、互いに、人間として、尊重し合い、大切にし合いたいと願っています。しかし、この世界は、私たちの欲望を大きくするモノ、情報にあふれています。だれかをモノのように扱わなければ、生き残ることはできないという状況に置かれている人が多くいます。こうした世界にあって、私たちキリスト信者は、互いに大切し合い、尊重し合うことの喜びを証しするよう励まされています。みだらな思いから解放されて、互いに大切にし合う心を持てる時が、天の国が実現している時なのです。それが、一瞬としか言えないほどの短い時間であっても、そこにはたしかに、天の国が来ているのです。 


最後に、主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」と言っておられます。私たちは今、自分の思いで誓いを立てることよりも、神のみ旨を尋ね求めたいと思います。神のみ旨を知ったならば、「然り」と、あなたのみ旨通りになりますようにと祈りたいと思います。そして、み旨に反することに、「否」と言える勇気と知恵を祈り求めたいと思います。この世の知恵ではなく、使徒パウロががはっきりと述べている「神の知恵」を願い求めたいと思います。愛そのものである十字架によって示される、神の知恵に導かれて、今日、神のみ旨に従って生きることができなくても、明日は、み旨に従うことができますようにと、謙虚に祈り続けたいと思います。謙虚に祈り続けることこそが、天の国の義なのです。 


2月8日/年間第5主日

 [説教] 

私たち洛東ブロック共同体は今日、「洛東ブロック病者の日」として、こうして集まり、心を込めて、ともにミサをささげています。

 

今日の第二朗読で、使徒パウロは、自分自身の体験を分かち合っています。 

「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と、はっきりと述べています。 

パウロの言葉は、病気になった者の苦しみを表しています。しかし、パウロの、この苦しみの時は、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」時でもあったのです。 

「十字架につけられたキリスト」という言葉は、あの十字架刑の時のキリストだけを意味しているのではありません。キリストが、今も、十字架につけられているということを表しています。私たちとともにおられるキリストは、今、十字架につけられているのです。 

パウロは、自分の弱さに押しつぶされようとしていた時に、この「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えていたのです。 

「優れた言葉や知恵を用い」ず、「生きること」によって宣べ伝えたのです。 

「”霊“と力」という言葉の意味は、「キリストによって与えられる生きる力」という意味であると言えます。

パウロは、キリストとともに、十字架につけられていたのです。コリントの教会の人々は、パウロの苦しみながら生きる姿に、「十字架につけられたキリスト」を見い出していたのです。 


私たちも、今日、病気の苦しみの中にある人々の一人一人が、「十字架につけられたキリスト」であることを思い起こしましょう。 

私たち教会は、病者のケアをしています。今日の共同祈願で、病者のために祈っていますが、 だれかのために祈ることは、私たちができるケアの一つです。そして、病気で苦しんでいる人々も、祈りをささげてくれているということを思い出しましょう。 

病気の苦しみの中でささげられる祈りは、十字架の上でささげられる祈りです。私たち教会を支える祈りです。私たちは、病者のために祈っているだけでなく、病者とともに祈っているのです。病気の苦しみの中でささげられる祈りに、心から感謝しながら、ともに祈っているのです。祈ってあげるのではなく、ともに祈るのです。 


病気で苦しんでいる人々は、かわいそうな、あわれみの対象ではありません。ともに福音を宣べ伝える、今、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えている姉妹兄弟なのです。 

 

私たち教会は、病気で苦しんでいる人々のところに訪れます。訪れて、福音を分かち合ってもらいます。言葉だけによる福音ではなく、生きることによって、苦しむことによって証しされる福音です。

私たちは、他の人々に、この福音を宣べ伝えるのです。 


今日の福音で、主イエスは、私たちが、「地の塩」であり、「世の光」であると宣言しておられます。

私たちは、日々祈る時、この世界の中で塩となります。 

塩は、目立ちませんが、私たちのいのちを支えています。塩がなければ、私たちは生きることができません。祈りも同じです。今の世界で、祈りは目立ちません。熱心な、深い祈りほど、人目につくことはないのです。しかし、多くの人が祈っています。 

ある女性は、次のように言いました。「他の人は、初詣の時しか神社に行かないけど、祈りというのは、時々することだと思うから、私は、月に二、三度、近くの神社に行って祈っています。」 

私は、この言葉に、祈りの大きな力を感じました。教派や宗教の違いを超えて、たくさんの人が祈っているのです。特に、病気で苦しんでいる人々が、病者をケアしている人々が、心からの祈りをささげているのです。だから、さまざまな問題があっても、私たちは、ともに生きることができるのです。

さらに、塩は、食べ物の腐敗を防ぎます。祈りも同じです。世界が間違った方向に進んで行くことを防ぎます。人々を回心させ、心を清めます。死を間近にしている人の祈りは、「生きる」ということが、当たり前のことではなく、聖なる出来事であることを、私たちに悟らせます。 

祈りは、この世界の塩です。この世界のいのちです。私たちが祈り続け限り、この世界は滅びないのです。 


今年の「世界病者の日」の教皇メッセージは、「よいサマリア人」を取り上げています。 

このメッセージでは、サマリア人が、傷ついた人のケアを、自分の力だけでやり抜こうとせず、宿屋の主人の協力を求めていることが注目されています。私たちは、一人一人ばらばらにではなく、共同体全体で、よいサマリア人になるように招かれています。 

洛東ブロックの共同体として、一つになって、よいサマリア人的な共同体になっていきましょう。 

その時、私たちは、この世界の中で光となるのです。私たち洛東ブロック共同体の「立派な行い」を見て、人々は、この世界に神がおられることに気づくのです。私たちの光に照らされて、よいサマリア人のように歩み始め、傷ついた人に気づき、協力して、動けない人のケアに取り組むようになるのです。 


「飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中で輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」 


2月1日/年間第4主日

 [説教] 

私たちは皆、幸せになりたいと願っています。だから、主イエスの招きに応えて、こうして集まっています。 

今日の福音は、主からの、本当の幸いへの招きです。 

私たちは今日、この福音を、皆で分かち合い、それぞれの生活の場で出会う人々に、幸いの福音を伝えていきたいと思います。 


「心の貧しい人は、幸いである」。幸いの福音は、この言葉で始まります。 

「心の貧しい人」とは、どのような人でしょうか。それは、自分が貧しい者であることを忘れず、謙虚に生きている人のことです。私たちは誰一人として、自分の力だけで生きている者はいません。まわりのいのちに支えられて生きているはずです。 

本当に自分の力で生きようとしたら、食べ物や着る物を自分で作らなければなりません。自分の住む家も自分で建てなければなりません。公共交通機関を利用することもできません。病気になっても病院に行くこともできません。さらに、生活に必要な物を全部自力で手に入れたとしても、それは、この地球といのちから、さまざまなものを与えられているから、この地球というところで生きているからできることなのです。 

そして、信仰を持っている私たちは、神がともにいてくださらなければ、一瞬でも生きることはできないということを信じています。 


心が貧しいということは、いのちの与え主である方に愛され、まわりのいのちに支えられて生きていることに、いつも感謝をしているということです。 

毎日生きていけることを、決して当たり前だと思わないということです。 

お金を払ったのだから当然だという思いを持たないということです。 

朝まだくらい時でも、深夜でも開いている店があります。そこで、何かを買うと、スタッフの人は、「ありがとうございました」と言ってくれます。心が貧しいということは、この時感謝の気持ちをあらわすということです。こんな早くから、こんな遅くまで、働いてくれていることへの感謝です。買い物や食事に来た時に、待っていてくれたことへの感謝です。この仕事をしてくれていることへの、心からの感謝です。仕事だから当たり前だと思うのではなく、自分の代わりに、この仕事をしてくれていることへの感謝です。 

まわりの人がしてくれてことの価値を、金額などの数字ではなく、してくれていることの内容、ありがたみで見ることができる時、心の貧しい人となり、幸いな人となるのです。

そして、まわりの人に対して、優しくなることができるのです。 

 

私たちは皆、心の貧しい者です。皆で支え合って生きていかなければ生きていけないということを知っています。そして、私たちが本当に支え合って生きていれば、互いに感謝し合っていれば、この世界から、戦争、さまざまな暴力、不正、貧困、環境破壊などは起こらないはずです。 

だから、心の貧しい人は、飢餓で目がうつろになっている子どもの姿や、戦争で愛する人を失った人の涙を目にする時、深い悲しみを覚えるはずです。自分の苦しみとして受け止めるはずです。何とかしたいと思い、悩むはずです。多くの人を苦しめている悪に、強い怒りを感じるはずです。人間として生きることを困難にする貧しさは、絶対に正当化されたり、美化されたりしてはならないと確信するはずです。 

神が示される正義が、一日も早く実現してほしいと、心から願うはずです。「義に飢え渇く人」となるはずです。 


心の貧しさは、貧しさの押しつけ合いではありません。貧しさの分かち合いです。 

私たちは皆、貧しいのです。だれかとくらべて、より多くの物を持ったとしても、競争に勝ったとしても、貧しいのです。貧しさは、皆で分かち合うしかないのです。貧しさを避けることは、貧しさをなくすことはできないのです。そして、自分から貧しさをなくし、豊かになろうとする時、まわりの誰かを貧しくし、苦しめ、悲しませるのです。そこに、平和などないのです。 

だから、貧しさを分かち合うしかないのです。神の前での貧しさを皆で分かち合う時、私たちは、いかに多くの恵みをいただいているかに気づき、まわりのいのちのありがたみが身に染みてきます。これこそが、「天の国」の幸いなのではないでしょうか。 


しかし、今日の世界では、多くの人が、心の貧しさを認めようとしていません。心さえも失われつつあります。そうした世界にあって、私たち教会は、貧しさの中で生まれ、生き、十字架という、最も過酷な貧しさを背負って、自分のすべてをささげてくださった、今もささげて続けてくださっているキリストを宣べ伝えています。心の貧しさを忘れず、貧しいキリストが分かち合ってくださる、幸いの福音、心の貧しさの福音を、これからも、勇気を持って宣べ伝えていきましょう。 


「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 


1月25日/年間第3主日・神のことばの主日

 [説教] 

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 

年間という時を歩んでいる私たちは、今日、この福音を宣べ伝えるように招かれています。 

「天の国」は、死んだ後に行くところではありません。今を、喜びのうちに生きることです。一人で喜ぶのではなく、皆で、ともに喜ぶことです。この喜びは、神に愛されていると感じることの喜びです。まわりの人を愛する時に感じる喜びです。天の国とは、神の国のことであり、その意味は、神の支配であると言われています。そして、神は愛ですから、天の国とは、愛の支配ということになります。しかし、愛は、強制によって実現しません。愛という名のもとに何かを押しつけるならば、それは、迷惑行為や暴力になる可能性があります。愛は、私たちを外側から押さえつけるものではないのです。私たちの内側から湧き出て、私たちを駆り立てるものなのです。愛とは、内側が満たされて、それが外側へと湧き出し、まわりに伝わっていくものであると言えます。 

愛には、さまざまな形があります。愛の掟はありますが、何をすることが愛となるかは示されていません。時間や場所も定められていません。「愛しなさい」という言葉は、「生きなさい」という言葉と同じくらい、漠然とした言葉です。「生きる」とは、「愛する」ということだと言うこともできます。ですから、私たちは、「どう愛すればよいのか」と悩むことがあります。自分が愛だと思うことが、相手にとって愛ではないということもあります。自分に向けられた愛に、気づかないこともあります。後になって、かなり時間がたってから、気づくことがあります。神は神秘ですが、愛も神秘です。 

神に、まわりの人に愛されるために、特別な資格は必要とされません。神は、無条件で、すべてのいのちを愛してくださいます。そして、神を、まわりの人を愛することは、誰にでもできることです。それでは、愛されていると感じるために、愛することができるために、必要とされていることは何でしょうか。「悔い改め」です。悔い改めとは、自分自身を見つめることです。愛されている自分に気づくことです。気づいて、喜び、感謝することです。愛そうと努力している自分を、素直に認めることです。自分の愛し方が間違っていると気づいたならば、すぐに改めることです。 

まわりの人の愛し方を、謙虚に学ぶことです。愛することとは、悔い改めることであると言うこともできます。私たちの愛は、不完全です。間違いだらけです。しかし、この現実から目をそらし、自分の愛に応えてくれないと、神やまわりの人に不満を抱くならば、愛から遠ざかることになります。愛しているのに、祈っているのにと思えば思うほど、愛を失っていくことになります。悔い改めることで、愛から離れないようにしたいと思います。悔い改めることで、愛に背を向けている自分に気づき、愛の方に向き直りたいと思います。 

愛の国である「天の国」は、私たちのところに、もう来ています。後は、私たちが、安心して、近づくだけです。「悔い改め」ながら、近づいていくだけです。「天の国」とは、私たちにとって、「悔い改め」の毎日であると言えないでしょうか。 

今日は、「神のことばの主日」です。2019年9月30日、教皇フランシスコによって、定められました。私たちは、この日は、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ます。もちろん、この日だけが、神のことばの主日ではありません。私たちの毎日が、神のことばの主日です。私たちは、この日に、私たちがいつも、神のことばに生されていることを思い起こすのです。私たちは、神に愛されていることに感謝して、互いに愛し合うことができる時、神のことばが、この世界で現実となっています。私たちは救われています。この救いを、ともに、喜び、祝うよう招かれています。私たちが、神のことばを大切にして生きようとする時、聖霊が力強く働かれます。私たちは、神のことばによって生かされています。この生き方、生かされ方を、互いに、謙虚に学ぶよう招かれています。そして、私たちは、神のことばが示す愛を広めるように励まされています。愛そのものである「天の国」が実現していることを、喜び、祝いながら、互いに、聖霊に生かされた生き方を学び合い、自分の生き方を見つめ、「悔い改め」ことで、神のことばによって大きくなっていく愛を広めていきたいと思います。 


1月11日/主の洗礼

 [説教]


今日は、降誕節の最終日です。私たちは、この日、「主の洗礼」の祝日を祝います。神の御子は、人間となって、私たちを救うために、「洗礼」を受けられたということを記念します。主イエスが、私たちのために洗礼を受けられたことに感謝します。

福音記者マタイが伝えているように、神の御子イエスは、洗礼を受けられた時、聖霊が「ご自分の上に降ってくるのを」体験されました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の言葉を受けられました。主イエスは、私たちと同じ人間です。ですから、主は、洗礼を受けられることで、私たちに人間に、聖霊といういのちが与えていること、私たちが皆、神から愛されている者であることを明らかにされました。福音書が記している、「ご覧になった」、「聞こえた」という言葉は、洗礼を受けることで明らかになったということを表しています。洗礼を受けたから、神のいのちが与えられ、神から愛される子とされたということではありません。洗礼によって、こうした恵みが明らかになったということです。

私たちは、人間である限り、洗礼を受けているか否かに関係なく、神のいのちである聖霊を与えられています。すべての人は、神に深く愛されています。洗礼によって、私たちは、神からいただいている恵みに感謝できるようになるのです。神から愛されるいることに、神に生かされていることに喜びを感じることができるようになるのです。神から大きな恵みをいただいていても、それに気づかなければ、救われているとは言えません。愛されていることを知り、感謝できる時、本当の意味で愛されていると言うことができます。人間とは、神に生かされ、愛されている存在なのです。この真理を信じることが信仰であり、この真理を喜ぶことができる時、本当に救われていることになるのです。主イエスは、ご自分が洗礼を受けられることで、人間であることの真理を明らかにされたのです。

洗礼を受けている私たちは、自分が救われていることに喜んでいれば良いのでしょうか。もし、自分が救われていることだけで満足しているならば、洗礼の恵みを十分に体験していないことになると思います。洗礼の恵みは、私たちに、この恵みをまわりの人と分かち合うように促す、励ます恵みです。神の「心に適う」生き方とは、神からの恵みに感謝し、神の恵みを分かち合いながら生きていくということなのです。そのために、まず、私たちは、祈りをささげます。すべての人が、自分が愛されていることに気づくように、祈り求めます。長い祈りでなくてもかまいません。毎日でなくてもかまいません。思うように祈れなくても、祈りたいと思い続けます。こうした思いこそが、最も尊い祈りなのです。

さらに、洗礼を受けている私たちは、日々出会う人に、一人一人が大切な存在であることを伝えるように招かれています。「あなたは神から愛されている大切な人です」と、直接、言葉で伝えることだけが、神の愛を伝えることではありません。沈黙を保つことが、愛を伝えることになることもあります。自分に語りかけてくる人に、じっと耳を傾けることは、神の愛を伝える行いです。必死になって生きている人を、静かに見守ることは、その人が気づかなくても、愛を伝えています。気づかれない愛こそ、大きな愛なのではないでしょうか。実際、私たちも、神の愛に気づかない時が多いと思います。神や隣人の愛に気づかず、自分の愛を、神は、まわりの人はわかってくれない。そのように思いこんでしまう自分のことを振り返れば、よくわかると思います。

そして、洗礼の恵みは、私たちが、洗礼を受けているか否かに関係なく、いのちのつながりの中で、支え合い、助け合いながら生きていることを、生かされていることを、私たちに思い起こさせます。洗礼を受けることは、共同体の一員になるということなのです。洗礼は、教会という共同体の中で、人類という共同体の中で、地球という共同体の中で、生きていることを思い起こさせます。洗礼の恵みとは、いのちのつながりの中で生きている喜びなのです。今、この世界では、この喜びを奪うような出来事が起こっています。だからこそ、洗礼を受けている私たちは、神の愛、いのちのつながりという愛を伝えていきたいのです。洗礼を受けた者は、自分だけが救われても幸せになれません。皆で救われことにしか、本当の幸いを見い出すことができないのです。

私たちの救い主は、洗礼を受けられることで、いのちのつながりという共同体の一員になられ、今も、今こそ、私たちとともに生きておられます。私たちも、明日から、主イエスとともに、神の愛を宣べ伝えていきたいと思います。洗礼の恵みを喜びを分かち合いながら、ともに歩んでいきたいと思います。

1月4日/主の公現

[説教]


私たちは今、降誕祭を祝っています。そして、「主の公現」の祭日である今日、さまざまな違いを越えて、すべての人が、主の降誕の喜びに満たされることを祈っています。すべての人が、私たちの喜びの分かち合いに加わることを願っています。

今日の福音に登場する「占星術の学者たち」は、救い主に会いたいという、大きな望みを抱いて旅をしている人たちです。この人たちを歩みを、「あの方の星」が導きます。この星は、学者たちの救い主に会いたいという願いと、その願いに応えられる神の導きを表しています。救い主を求めている人たちを救い主のもとに導くしるしです。この星は、決して大きな、すぐに見える星ではなかったと思います。
むしろ、細心の注意を払わないと見えない、ごく小さな星だったと思います。救い主を求めている学者たちは、この星を発見して、どのような苦労も厭わず、旅を続けているのです。そして、救い主に会うことができ、「喜びにあふれ」ます。学者たちが献げたた三つに贈り物は、この大きな喜びを表しています。自分たちの願いがかなえられたことへの感謝を表しています。

この星は、誰にでも見えるわけではありません。実際、福音記者マタイが伝えているように、救い主を求めていないヘロデ王たちには、この星が見えません。救い主に会うことを心から願って、空を見上げさえすれば、すぐに見えるはずなのに、そうしないのです。祭司長たちや律法学者たちも、ただ書かれたものを調べているだけで、外に出て、空を見上げようとしません。ベツレヘムに行けば良いとわかっても、そこに出かけようとしません。すぐ近くなのに、動こうとしません。ここに救いはないのです。

占星術の学者たちは、救い主に会うという願いがかなえられた後も、「別の道を通って」、旅を続けます。新たな旅を始めます。学者たちの旅は、決して終わることはないのです。この新たな旅は、旅の中で出会う人々に、救い主がお生まれになったという福音を宣べ伝える旅です。人々と喜びを分かち合う旅です。そして、人々とともに、救い主との新たな出会いを求めるたびです。

今日、主の公現を祝っている私たちは、占星術の学者たちの旅に加わるように招かれています。福音書は、学者たちが三人であったとは伝えていません。学者たちが何人であってもかまわないのです。救い主を求めて、日々旅をしている者は、救い主と会えた喜びを分かち合っている者は、すべて、「占星術の学者たち」なのです。今日、使徒パウロは、私たち教会が、「福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを…受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者」であると宣言しています。私たち教会は、ともに、旅を続けている「占星術の学者たち」なのです。

そして、占星術の学者たちは、小さなものに、注意深く目を向けている者たちです。天を見上げ、闇に中でも、小さな星を見出し、しっかりと見つめる者たちです。小さな星は、実際は、巨大な星で、私たちから遠く離れているところにあるから、小さく見えるのです。小さな星は、すべてのいのちを包み込む神の大きな愛のような、大きな星なのです。占星術の学者たちは、私たちは、この大きな星に近づこうとしているのです。そして、神は、私たちのところに、光よりも速いスピードで、来られたのです。今日の福音は、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と伝えています。光よりも速いスピードで、私たちのところに来られた救い主の姿を伝えています。

目立たない、小さな家の中におられる、幼子。母マリアがそばにいなければ生きていけない、救い主イエス・キリスト。この小さないのちこそ、すべてのいのちを包み込む、大きな愛です。今は、この愛が小さく、頼りないと思えるかもしれません。そう思うのは、私たちが、まだ、この愛から遠く離れているからなのです。だから、今、占星術の学者たちのように、この愛を求めて、新たな旅を始めたいと思います。日々、「別の道」が用意されている旅を、新たな気持ちで始めたいと思います。今は、小さな愛しか思えないけど、旅を続けていけば、大きな愛であることがわかる。これが、私たちの希望です。この希望を抱いて、希望の巡礼者として歩んでいきたいと思います。今の世界は、闇の中にあると言いたいほどの、酷い状況です。しかし、だからこそ、小さな星の光、希望の光が、はっきりと見えるのではないでしょうか。この希望の星に導かれて、これからも、ともに歩んでいきましょう。

1月1日/神の母聖マリア(降誕の八日目)

 [説教]

私たちは今、降誕祭を祝っています。「降誕の八日目」である今日、羊飼いたちは、「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。天使は、羊飼いたちに福音を告げました。それは、すべてのいのちのために、「今日…救い主がお生まれになった」という喜びの福音であり、「地には平和、御心に適う人にあれ」という平和の福音です。「世界平和の日」である今日、私たちは、羊飼いたちが分かち合う福音に耳を傾けるよう招かれています。私たちは今日、聖家族とともに、聖家族として、主のご降誕がもたらした平和を分かち合うのです。


「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」が、私たちの平和です。目の前で寝ている乳飲み子想像してみましょう。乳飲み子を前にして、私たちは争いを起こそうとするでしょうか。そんなことは、決してしないと思います。できないと思います。私たちは皆、自然と優しくなるはずです。優しいまなざしで、優しい声で、乳飲み子に語りかけるはずです。どう接したら良いかわからなければ、かける言葉が見つからなければ、こわがらせないように、安心して寝ていることができるように、細心の注意を払うはずです。そして、乳飲み子のそばにいる私たちは、語り合うはずです。「かわいいね。あっ、笑った。この子が、ずっと笑顔でいられる世の中であってほしいね。うあっ、泣きそうだ。だいじょうぶだよ、こわくないよ。みんな、あなたのことが大好きなんだだから。」この乳飲み子に、私たちは何をあげようとするでしょうか。欲しいモノをなんでも手に入れることができるようにと、お金をあげるでしょうか。自分の身を守ることができるようにと武器を与えるでしょうか。高収入が得られる職業を得ることができるようにと、勉強を教え始めるでしょうか。そんな愚かなことをする人は、一人もいないはずです。もし、乳飲みの手に、お金や武器を握らせようとしたら、ひどい暴力となり。決して容認できない虐待となります。私たちができること、それは、この子に愛を伝えることだけです。小さな手をそっと握って、「幸せになってね。みんなに愛されてね」と言葉をかけることぐらいしかできないと思います。そう祈ることしかできないと思います。これが、私たちに与えられる、キリストの平和なのです。この平和を、この優しい心を、誰もが持ち続けることができる時、乳飲み子の前での優しい語り合いが、安心してできる時、世界平和は実現するのです。


今日の福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と伝えています。マリアが心に納めて、思い巡らしていたこととは、目に前で実現しているキリストの平和です。私たちも今日、マリアとともに、キリストの平和を心に納めて、思い巡らしたいと思います。私たちの日常生活の中で実現している平和を見い出し、大切にしたいと思います。そして、身近で実現している、小さな平和を大きくしていきたいと思います。聖家族が幼子イエスを、養い育てたように、私たちも、キリストの平和を育てていきたいと思います。


今年の「世界平和の日」の教皇メッセージで、教皇レオ十四世は次のように述べています。


「『平和を所有したいなら、平和はそこにある。われわれの手の届くところにある。われわれは何の労苦もなしにそれを手に入れることができる』。平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」


平和はもう、この世界に与えられています。不可能なことでも、遠い理想でもありません。マリアのように、羊飼いたちのように、キリストの平和を、喜んで受け取れば良いだけです。この世界が、幼子がもたらした平和を、感謝のうちに受け取りますように、今日、心から、ともに祈りましょう。


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2月15日/年間第6主日

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