4月19日/復活節第3主日

 [説教] 

主イエスは、復活し、私たちとともに歩んでおられます。復活とは、ともに歩むことなのです。ただ生きているということではなく、ともに生きていくことなのです。私たちは今、「シノドス」の歩みを続けていますが、シノドスとは、「ともに歩む」ことであり、復活の歩みなのです。 


今日の福音は、私たちとともに歩んでくださる、復活のキリストを伝えています。

福音にはまず、二人の弟子が登場します。二人の弟子が主イエスに期待していたことは、自分たちの毎日の生活が、さまざまな苦しみや心配などから解放されて、すべてのことが、自分たちの思い通りになり、悩みがなくなることであったということです。自分たちの望みをすべてかなえてくださる救い主を期待していたということです。しかし、「十字架につけ」られたイエスによって、二人の期待と望みは打ち砕かれました。だから、二人は、「イエスは生きておられる」という福音を聞いても、喜びを感じることができませんでした。二人にとって、主が生きておられることよりも、すべてが自分たちの望み通りになることの方が大切だったのです。こうした二人の姿は、私たちの現実を表していると言えます。私たちも、主の復活を信じますと宣言していても、自分の毎日が思い通りにいかなければ、「暗い顔をして立ち止ま」ることが多いです。 


そんな二人に、そんな私たちにこそ、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。主のことを忘れず、思い続ける限り、主について語り合う限り、主が来て、ともに歩んでくださいます。ともに生きてくださいます。

主を信じられないとこぼしたとしても、主に失望したとしても、主に怒りをぶつけたとしても、主は必ず、ともにいてくださいます。ともにいて、私たちに語りかけてくださいます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、励ましてくださいます。 

私たちも、主とともに歩む時、苦しみを受けて、復活のいのちを受けるのです。

私たちが、毎日が思うようにいかない時、さまざまな苦しみを経験する時、主がともに苦しんでくださり、私たちは、主とともに復活するのです。 

復活とは、いのちが新たにされることです。日々の生き方が変わることです。

今までの、慣れた生き方ができなくなることです。 

 

変化には、苦しみがともないます。自分は変わろうとせず、まわりに変わることを求めることは、単なる暴力です。復活とは、変化の苦しみを分かち合いながら、ともに新たになり、ともに生きていくことなのです。 


主イエスと聖書のみことばを分かち合った二人は、主と食事をともにしました。

主は、二人のために、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました。パンを与えられた二人は、ともにおられる方が、復活のキリストだと「分か」ります。主の姿は見えなくなりますが、主が生きておられることが分かります。そして、主が分かち合ってくださった、あのみことばが分かります。主と分かち合っていた時に、心が燃えていたことを思い起こします。

そして、復活の主と出会ったこと、主が分かち合ってくださったことを、仲間と分かち合うために、「エルサレムに戻」ります。同じ道を通ることになります。

しかし、希望を失い、重い足取りで歩んできた道は、喜びと希望に満ちた旅路、復活のいのちに駆り立てられて歩む道となります。私たちも、復活の主から、パンをいただきます。復活のいのちそのものである聖体です。主が裂いてくださることで、皆で分かち合うパンです。聖体は、復活のいのちの分かち合いです。

教会の中だけでの分かち合いではありません。私たちは、教会から出て、日々出会う人々と、復活のいのちを分かち合うために、聖体といういのちをいただきます。

 

私たちは、いのちのみことばといのちのパンをいただいています。みことばと聖体に生かされて、ともに生きていく力をいただいています。苦しみを分かち合いながら、すべてのいのちが復活することを信じて、ともに歩む力をいただいています。 

この力に支えられて、「シノドス」という復活の道、ともに歩む道を進んでいきましょう。 


4月12日/復活節第2主日・神のいつくしみの主日

 [説教]

主イエスは、復活し、今生きておられます。生きておられる主のからだは、深く傷ついています。私たちは今、主の復活を祝っていますが、主を深く傷つけた受難の出来事も続いているのです。

深い傷を負っている主イエスは、弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われます。この言葉は、今日、ここに集まっている私たちにも、向けられています。深く傷ついた主が、今も、平和を与え続けておられるのです。主から与えられる平和とは、どのような平和でしょうか。主が与えてくださる平和、それは、「罪のゆるし」です。

罪のゆるしとは、罪を見過ごすということではありません。罪をなかったことにするということでもありません。むしろ、罪をしっかり見つめることから始まります。主イエスが負っている傷は、私たちの罪の大きさ、深さを表しています。主を傷つけたのは、あの時のユダヤ人だけではありません。主の弟子たちも、ここに集まっている私たちも、主を傷つけています。福音記者ヨハネは、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と伝えています。弟子たちは、自分たちの罪を見つめたくなかったのではないでしょうか。主を傷つけたのはユダヤ人であって、自分たちではないと思い込みたかったのではないでしょうか。罪人のユダヤ人を恐れていたのではなく、罪人である自分を認めたくなかったのではないでしょうか。主は、そんな弟子たちの中に、今ここにいる私たちの中に入り込み、弟子たちの、私たちの恐れを取り除き、弟子たちに、私たちに平和を与えてくださいます。
平和とは、罪のゆるしとは、罪を忘れることではありません。罪をなかったことにして、前向きになることではありません。罪をしっかりと受け止めて、だれもが罪を犯さなくても生きていけるにようにすることです。罪を犯さなくても、だれかを傷つけなくても生きていけるようになることが、主の平和であり、罪のゆるしであり、復活なのです。

今の世界は、平和ではありません。罪の負わせ合いが起こっているからです。自分の正しさを主張し、まわりのだれかを罪人にしていることが、あまりにも多いからです。だれかを悪者にして、自分は正しいと思い込むことでしか生き残れない世界となっているからです。私たち教会は、この世界の中で生きています。この世界の中で、私たちは、罪のゆるしを祈っています。ミサや寝る前の祈りなどで、次のように祈っています。「聖母マリアすべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。」こうした祈りを、皆で心から祈る時、この世界に、罪のゆるしがもたらされ、平和が実現しています。罪深い私が、まわりの人とともに祈ることで、罪深い私たちとなり、罪のゆるしを分かち合うことができるのです。この分かち合いこそが、聖霊の働きであり、復活なのです。

主イエスが弟子たちに、私たちに、見せ、触れさせてくださる傷は、私たちに罪を見つめる勇気を与えます。私たちに、傷の痛みを感じさせます。傷つけ合わなくても生きていける、ともに生きていける世界を求めて祈るよう駆り立てます。今日の第一朗読の使徒言行録は、最初の共同体が、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と伝えています。使徒の教えとは、主の傷によって与えられた罪のゆるしへの招きです。相互の交わりがもたれ、パンが裂かれていることは、罪がゆるされ、ともに生きているということです。そして、聖霊に導かれた祈りは、罪人である私たち皆がゆるされることを願う祈りです。私たちも今日、熱心に、罪のゆるしを分かち合っています。罪のゆるしのみことば、罪のゆるしのパンを分かち合っています。そして、主は、私たちを、この世界で、まわりの人々と罪のゆるしを分かち合うために、「遣わ」されます。私たちは、復活のいのちをいただいています。罪に傷ついた世界に、罪のゆるしという平和をもたらすことができます。使徒ペトロが言っているように、私たちは、「新たに生まれ…死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」ています。罪に頼らなくても、皆が、ともに生きていける世界が、必ず実現するという希望に満たされています。この生き生きとした希望に支えられて、復活された主とともに、罪のゆるしの福音を宣べ伝えましょう。

4月5日/復活の主日・日中のミサ

 [説教]

復活祭が始まりました。私たちは、5月24日の聖霊降臨の主日までの五十日間、主イエスの復活を喜び、ともに祝います。


私たちはまず、主イエスの復活について、次のことを確認したいと思います。すべての福音が伝えているように、主イエスの復活を最初に体験したのは、女性たちだったということです。彼女たちは、主を深く愛していました。主の十字架上の死は、彼女たちに絶望をもたらしたのではなく、主への確固とした愛をもたらしました。だから、彼女たちは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」、主の墓を訪れたのです。彼女たちにとって、権力を持つ男性たちに無残に殺された主は、敗者ではなく、愛する主なのです。私たちは今日、彼女たちの深い愛から学びたいと思います。そして、この女性たちが、他の弟子たちに、復活の出来事を伝えたのです。女性たちの主への深い愛が、主の復活の福音を広げていきます。


今日の福音で、マグダラのマリアは、二人の男性の弟子に伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」このメッセージは、主が墓におられないから、いっしょに探しましょうという招きのメッセージです。しかし、二人の男性は、主が墓の中におられないことを確認しただけです。彼らは、墓まで走りますが、その後は走らなくなり、家に帰ってしまいます。私たちも今日、主が墓の中におられないことを知りました。私たちは、どうすればよいでしょうか。どこに行けばよいでしょうか。何をすればよいでしょうか。主が復活されたということ、墓におられないということは、私たちへの問いかけとなるのです。私たちは、これからどう生きていくかという問いかけとなるのです。この問いかけへの答えを探して歩み続けることが、私たちの復活なのではないでしょうか。復活とは、生き返ることではありません。生きていることの意味を問いかけながら、毎日を生きていくことなのです。


そして、主の復活は、時間がかかる出来事でした。福音記者ヨハネは伝えています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてあった。」主は、目覚めて、すぐに墓の外に出ていかれたわけではありません。起き上がり、一歩を踏み出すために、体を包み、顔を覆っていた布を解かなければなりませんでした。ですから、歩き始めるまでに、時間がかかったことでしょう。さらに、墓の出口は、石でふさがれていました。この世界への入口が、ふさがれていたのです。この石を取りのけるためにも、時間がかかったはずです。私たちの復活も、同じように時間がかかります。私たちも、さまざまな布で包まれて、動けなくなっています。顔を覆われて、見えなくなっています。行きたいところがあっても、大きな石が立ちふさがって、歩みを進めることができません。しかし、私たちは、こうした布や石をここちよいものとして感じていないでしょうか。動けないこと、まわりが見えないこと、進むことができないことに、安住していないでしょうか。私たちの復活とは、たとえ時間がかかっても、墓から出ることなのではないでしょうか。墓は、じっとしていればよいところです。だれかに傷つけられることもありません。だれかを愛そうとして傷つくこともありません。しかし、墓の中では、まわりの人とともに生きることはできません。だから、私たちは、墓から出たいのです。墓から出て、主イエスと出会い、まわりの人とともに生きたいのです。そして、生きている喜び、復活の喜びを、皆で分かち合いたいのです。


時間がかかっても、墓から出ましょう。そして、復活された主を探す旅を始めましょう。ともに旅をしながら、生きている喜びを、復活の喜びを分かち合いましょう。私たちが復活の喜びを分かち合う時、その分かち合いに、復活された主が加わってくださるのです。主イエスは、復活して、今、生きておられるのです。


4月4日/復活の主日・復活の聖なる徹夜祭

 [説教]

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」最初二人の女性に委ねられた福音、復活の福音は、復活の聖なる徹夜祭を祝っている私たちにも、告げ知らされました。


私たちは今、ガリラヤに行くよう招かれています。ガリラヤに行き、復活された主イエスとともに、福音を宣べ伝えるよう励まされています。


使徒パウロは、ローマの教会への手紙の中で、次のように述べています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」今夜、ともに復活を祝っている私たちも、「復活させられた」のです。「新しい命に生きる」ようになったのです。


私たちが、新しい命に生きる時、福音を宣べ伝えることになります。ガリラヤとは、私たちが、新しい命に生きるところなのです。私たちが新しい命に生きる時、そこに、ガリラヤがあるのです。


新しい命とは、使徒パウロがはっきりと言っているように、「罪から解放されている」命です。私たちは、罪から解放される時、本当の意味で生きるようになります。本当の意味で生きるとは、だれにも頼らず生きるということではありません。だれかと競争して、生き残ることではありません。私たちは、だれかに支えられているから生きることができると悟る時、本当に生きていることになります。自分もだれかを支えているのだと思える時、まわりの人とともに生きていきたいと望む時、新しい命に生きることになります。いのちとは、交わりなのです。神との交わり、まわりの人との交わりこそが、いのちそのものなのです。いのちは、交わりの中で、新たになり続けるのです。交わりは、開かれていることで、新たになり続けることができます。開かれ、新たになり続ける交わりこそが、復活のいのちなのです。


そう感じる時、ガリラヤとは、いのちの交わりであると言えます。いのちが交わりながら、新たになっていくところ、そこが、ガリラヤなのです。復活の喜びのうちに、いのちの交わりを生きていきたいと思います。私たちのガリラヤで、まことのいのちであり、愛の交わりである、復活された主イエスに出会いたいと思います。あの方は、閉ざされた墓にはおられません。開かれた交わり、復活のいのちであるガリラヤにおられるのです。


4月3日/聖金曜日・主の受難

[説教]

私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。


私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。


主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは、主がすべての人を愛されることを拒否しました。あの人ではなく、私を、私だけを愛してほしい。すべての人ではなく、私だけを愛してほしい。そんな思いが、「十字架につけろ」という叫びとなったのです。


主イエスは、十字架にとどまり、すべての人への愛を貫かれました。十字架上で亡くなることで、すべてのいのちへの愛を完成されました。今、私たちに残された愛は、すべての人、すべてのいのちを愛する愛だけです。それ以外の愛は、愛と呼ぶことができなくなったのです。


主の受難の出来事は、今も続いています。十字架につけられている人がいます。主イエスのように愛そうとする人は、主イエスのように、苦しみます。すべての人を愛そうとする人は、すべての人から拒否されます。特定の人、特定の集団、特定の国を愛する人が、多くの人に好まれます。私たちは、自分が好まない人を十字架につけてくれる人を好んでいるのです。この世界は、私たちの好き嫌いが、人のいのちを左右するところとなっています。すべてのいのちは大切にされなければならないことは、だれでもわかっています。しかし、好き嫌いという理由だけで、多くのいのちが否定されているのです。


主は、すべてのいのちが復活して、生きるようになるために、十字架につけられ、亡くなられました。そして、すべてのいのちは、無条件で愛され、生きるようになりました。先月29日の受難の朗読で、福音記者マタイが伝えているように、主が亡くなられた時、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「聖なる者たちの体」とは、愛を生きる体のことです。ですから、主が十字架上で亡くなられた時は、愛の復活の時でもあったのです。そして、今日の受難の朗読で、福音記者ヨハネが伝えているように、愛は、「成し遂げられた」のです。主によって成し遂げられた愛を生きる時、生きようとする時、私たちが救われていることになるのです。すべてのいのちが、愛という救いを得ているのです。


私たちは、今日で、「十字架につけろ」という思いを捨てたいと思います。だれかを十字架につけることで、好き嫌いという偽りの愛を求めることをやめて、皆で、主イエスが十字架上で完成された愛を分かち合いたいと思います。今、愛を感じ、皆で分かち合うことができなくても、愛の復活を信じたいと思います。そして、受難の主日で読まれたマタイによる受難の朗読に登場する百人隊長たちのように、「本当に、この人は神の子だった」と、信仰を宣言したいと思います。今日読まれたヨハネ福音書に登場する「愛する弟子」のように、聖母マリアの祈りに支えられて、愛の共同体となっていきたいと思います。

4月2日/主の晩餐の夕べのミサ

 [説教]

私たちは今晩、主イエスが、ご自分のすべてを与え尽くされたことを思い起こします。聖体が、私たちを「愛して、この上なく愛し」ておられる主であるということを、共同体として、ともに体験します。


私たちをこの上なく愛しておられる主は、私たちの「足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふ」いてくださる主です。私たちの前にひざまずき、私たちの疲れた足をていねいに洗い、優しくふいてくださる主です。想像してみましょう。私たちの下におられる主を想像してみましょう。


ペトロは、彼の足を洗おうとされる主に、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。主は、答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」主は、ペトロに、そして、ここに集まっている私たちに、足を洗うことに込められた愛を、そのまま受け取りなさいと言っておられるのです。私たちは、自分が幼い時、だれかに洗ってもらったはずです。そして、最後は、きれいに洗ってもらい、ていねいにふいてもらうことを望んでいます。私たちは、だれかに洗ってもらえたから、この世界で生きることができるようになったのです。だれかに洗ってもらえるから、安心して、この世界を去ることができるのです。私たちは、生きるにしても死ぬにしても、私たちの足を洗ってくれる愛、だれかの愛を必要としているのです。キリストのからだである聖体は、私たちだれもが必要としている愛です。聖体は、私たちの足を洗ってくださるキリストです。今晩、聖体という愛を信じて、そのままいただきたいと思います。


そして、主イエスは、私たちに、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言われます。私たちも今晩、足を洗い合う聖体となるよう招かれています。お互いの愛を必要としていることを素直に認めて、キリストの愛を分かち合う共同体となるように招かれています。私たち教会は、愛であるキリストのからだです。互いに足を洗い合いたいと思います。この世界の中で、人々の足を洗い続けたいと思います。主から受けた愛という水は、たらいに満ちています。人々の前にひざまずき、この水で、人々の疲れた心を洗わせてもらうましょう。足を洗い続けるキリストのからだとして、ともに歩んでいきましょう。


3月22日/四旬節第5主日

[説教]

私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。 

洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。 

一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。 


今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。 

この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。 

ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。 

ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。 


この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。

この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。 

そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。

私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。 


主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。 

「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 

このみことばは、マルタの願いに応えたものです。 


マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。 

死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。 

洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。 

復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。 

復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。 


今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。 

洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。 


洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。

私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。

キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。


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4月19日/復活節第3主日

 [説教]  主イエスは、復活し、私たちとともに歩んでおられます。復活とは、ともに歩むことなのです。ただ生きているということではなく、ともに生きていくことなのです。私たちは今、「シノドス」の歩みを続けていますが、シノドスとは、「ともに歩む」ことであり、復活の歩みなのです。  今日...

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