[説教]
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
主イエスは、このいのちの福音を、受難の前に語られました。
この福音は、すでに実現しています。主は、十字架上で、私たちのために、ご自分のいのちをささげ尽くされました。そして、復活によって、私たちに、豊かにいのちを分かち合ってくださいました。今も、分かち合っておられます。
主は、私たちにいのちを与え続いてくださる、「良い牧者」なのです。
私たちは、復活されたキリストからいただいたいのちによって、今、生きています。
豊かにいのちをいただいているから、生き続けることができます。私たちは、羊のように、弱い存在です。一人で生きていくことはできません。羊が良い牧者にケアされて生きることができるように、私たちも、主にケアされることで、毎日を生きることができます。
私たちのいのちは、主によってケアされているだけではありません。まわり人によってケアされています。私たちは、互いにケアし合うことによって、生き続けることができるのです。
皆が幸せに生きるためにどうすれば良いかを、ともに悩みながら、ともに生きていくことが、ケアし合うということです。誰も傷つくことなく、ともに生きていける社会を実現するために、ケアをし合うことが必要なのです。
主は、私たちを、いつもケアしてくださる、「良い牧者」なのです。
今日は、「世界召命祈願の日」です。
今日の第二朗読で、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」と述べられています。
召命とは、主イエスから受けたいのちを生きることだと言えます。主が、私たちのために生きてくださったように、今も生きておられるように、生きることだと言えます。
主は、善を行っておられる、「良い牧者」なのです。
私たちの生き方には、さまざまな生き方があります。どの生き方も、善を行おうとしている限り、すばらしい生き方です。善の行い方もさまざまですから、生き方もさまざまになって当然です。私たちは、さまざま生き方とさまざまな善によって、互いにケアし合うことができます。
しかし、善を行うことは、難しく、苦しいことです。善を行おうとしても、できない状況に置かれている人もいます。善を行って、傷ついた人もいます。私たちは、だれもが安心して善を行おうことができるよう、支え合いたいと思います。
私たちが主からいのちをいただいたのは、私たちが召されたのは、そのためです。皆が喜んで善を行うことができるために、ケアし合うことが、私たちの召命なのです。
私たちも、ケアし合う、「良い牧者」となるよう召されているのです。
そして、私たちは、祈るために召されています。私たちの、第一の召命は、祈ることだと言えます。祈りながら生きることこそ、私たちの、共通の召命ではないでしょうか。
今日の福音で、羊は、羊飼いの「声を知っているので、ついて行く」と言われています。
祈りとは、「良い牧者」である主の声を「聞き分ける」ことではないでしょうか。主の声を聞き分けながら、毎日を生きることが、祈りの生活ではないでしょうか。主の声を聞き分けるために、忙しい毎日の生活の中で、ゆっくりとした、静かな時間を過ごすようにしたいと思います。この世界に溢れている、さまざまな情報を遮断して、主の声に心を傾けたいと思います。
今年の世界召命祈願の日の教皇メッセージで、アウグスティヌスの言葉が引用されています。
アウグスティヌスは、主が「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にまします」と告白し、さらに、「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」と説いています。
私たちの中の最も深いところに主が生きていて、私たちに語りかけておられます。
ですから、主の声に心の耳を傾けたいと思います。そして、この世界で、主に「ついて行」きたいと思います。
今、この世界では、声による傷つけ合いが起こっています。深く傷ついて、声を出せない人もいます。
主の声を聞き分けている私たちは、まわりの人の声も聞き分けたいと思います。私たちの召命は、主イエスの声を聞き分け、同じ心で、まわりの人の声を聞き分けることではでないでしょうか。特に、声にならない声を聞き取ることではないでしょうか。
まわりの人の声を聞き分け、まわりの人と、主から受けたいのちを分かち合うことで、 召命の恵みを生きていきましょう。
耳を傾け合うことで、復活のいのちを分かち合うことで、ケアし合うという召命を生きていきましょう。