8月16日/年間第20主日

 [説教] 

昨日で、今年の平和旬間は終わりました。しかし、私たちの真の平和をめざす歩みは、今日からも続いていきます。平和旬間で新たにされた平和への熱い思いをもって、新たな歩みが始まっています。今日の集会祈願で、私たち教会は、神を「深く愛する心をお与えください」と祈りました。神を深く愛する心とは、平和を大切にする心です。平和を大切にすることで、すべてのいのちを大切にする心です。 

今日の福音は、「カナンの女」の、主イエスを深く愛する心を示しています。この女性は、自分の娘がいやされることを願っています。主の弟子たちは、自分たちの共同体のメンバーではないということから、彼女を「追い払」おうとします。彼女の心からの、救いを求める必死の祈りは、弟子たちには、うるさい雑音でしかありません。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」という祈りは、心からささげられるならば、尊い、美しい祈りです。この祈りを、世界中のすべての人がささげたら、この世界は平和になります。自分を超える方の憐れみがなければ、弱く、貧しい自分は生きていけない。そういう謙虚な思いをもって、すべての人が、「憐れんでください」と心から祈る時こそが、世界の平和が実現している時なのです。この女性は、この平和を求める祈りを、何度も繰り返しているのです。大きな声でささげているのです。平和旬間を過ごすことで平和への思いを深めた私たちは、この女性の祈りに加わりたいと思います。言語や文化の違い、宗教や国籍の違い、所属する共同体の違いがあっても、ともに祈りたいと思います。そして、こうした違いを恵みとして感謝し、違いを学ぶことによって、私たちの祈りを豊かにし、深めたいと思います。違いを学び合い、ともに豊かになっていくことが、真の平和なのです。「憐れんでください」という祈りを大切にすることで、神を深く愛したいと思います。 

福音書は、カナンの女性の祈りを、弟子たちばかりでなく、主イエスも拒否されたかのように伝えています。私たちも皆、同じ経験をします。特に、世界平和のために祈る時、どうして聞いていただけないのだろうと思ってしまいます。そんな時、私たちは問いかけたいと思います。私たちは、私たちの祈りを聞いてくださるから、神を愛するのだろうか。それとも、神を愛しているから、何があっても、まったく聞いていただけないと思えても、祈り続けるのだろうか。カナンの女性は、あきらめずに祈り続けます。「主よ、ごもっともです」と言いながら、祈りを止めません。「しかし」と言って、新たな祈りの言葉を口にします。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」この祈りは、神の愛を信じる、信仰宣言です。神の愛は、すべてのいのちにおよびますという、賛美の祈りです。そして、すべてのいのちが大切にされているということを、世界中の人が信じることができる時、真の平和が実現するのです。私たちの賛美は、神の愛への賛美、真の平和への賛美です。心から、この賛美をささげることが、神の深く愛することなのです。カナンの女性のように、何があっても、神を愛し続けましょう、神の愛を信じ続けることで、世界の平和が実現することを信じ続けることで、神を深く愛しましょう。愛とは、愛を信じることなのです。平和とは、平和を信じることなのです。 

レオ十四世教皇は、今年の「世界平和の日」のメッセージで、次のように述べています。「平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」私たちは今日、この言葉を真剣に受け止めたいと思います。私たちは、世界の平和など実現不可能な理想だと考える時、身近なところの平和も実現できなくなります。イエスの弟子たちがカナンの女性を追い払ったように、自分のすぐ近くにいる人の、平和への願いを聞くことができなくなるからです。しかし、世界の平和を本当に願う時、身近な人の平和を大切にするようになります。自分と考え方の違う人、自分が嫌いな人を大切にします。世界平和を実現したければ、まず、自分が平和になることです。まわりが平和でないから、平和が実現しないのではないのです。自分が平和でないから、世界が平和でないのです。だれかを追い払うことで、真の平和は実現しないのです。愛されている者として、皆が、ともに生きることでしか、世界の平和は実現しないのです。もちろん、世界平和の実現は、やさしいことではありませんが、始めることができます。身近なところから始めることができるのです。 

主イエスは、カナンの女性に言われます。「あなたの願いどおりになるように。」世界の平和という願いの実現には、時間がかかります。しかし、いつか願いどおりになります。というより、少しずつ願い通りになることが、その道のりが、私たちの日々の歩みこそが、平和なのかもしれません。平和とは、到達点ではなく、歩み全体なのかもしれません。カナンの女性の娘はいやされて、女性の新たな歩みが始まります。私たちも、カナンの女性の新たな歩みを、ともに歩みたいと思います。

「主よ、憐れんでください」と叫び、神を深く愛しながら、真の平和の道を歩んでいきたいと思います。 


8月15日/聖母マリアの被昇天

 [説教] 

「1945 年8月9日、米軍機が投下した一発の原子爆弾は一瞬にして長崎のまちを破壊し、その年の終わりまでに人口の3分の2にあたる15万もの人々が死傷しました。13歳で被爆した故・𠮷田勝二さんは、地獄のような惨状をこう語っています。 

爆心地の方に向かうと黒焦げで炭化した人、目が飛び出ている人、内臓が飛び出した人、手足がない人たちが右往左往していた。浦上川にたどり着くと、ここも焼けただれた多くの人が、油と血と汚れた水、その水を飲みながら次々に亡くなっていった。私は、全身血だらけ、皮膚は剥がれ体の下の方にだらりとぶら下がっていた。顔も皮膚は付いていたものの、どす黒く焼け焦げていた。 

 吉 田さんの顔には生涯消えることのない大きな火傷の痕が残り、周囲からの視線に苦しみ続けました。辛うじて死を免れた人々も、心身に深い傷を負い、放射線の影響でがんなどが発症することへの不安と恐怖を一生抱え続けています。… 

一つの地球に暮らす『地球市民』の皆さん。平和な世界をつくるために、私たちにはできることがあります。『平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと。』これは𠮷田さんが被爆体験を語るとき、いつも伝えていた言葉です。相手の立場や苦しみに心を寄せ、分かり合おうと努力することは、対立や衝突を避けるための大事な一歩となります。それが人と人、国と国、それぞれの場面で信頼を育み友好関係を築く礎になるのです。𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。… 

被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきます。…」 

これは、今年の長崎平和宣言の一部です。 

今日は、聖母マリアの被昇天の祭日であり、平和旬間の最終日です。私たちも今日、天の栄光に上げられた聖母マリアとともに、心を一つにして、平和を宣言します。そして、キリストの平和を、日々出会う人と分かち合っていきます。口先だけでなく、毎日の行いを通して分かち合っていきます。 

今日の福音は、聖母の平和宣言です。平和宣言はまず、この世界が平和ではないと宣言します。自分こそ正しいと「思い上が」り、だれかを悪と決めつけ、攻撃している者がいます。攻撃することで平和が実現すると「思い上がる者」がいます。「権力ある者」は、人々のいのち、生活を守るため、人々の幸福に奉仕するという使命を忘れています。そして、権力が、人々を苦しめる手段、暴力となっています。多くの人が、権力者の「座」の下で苦しんでいます。多くの人が、人間として幸福に生きる権利を奪われています。この世界では、「飢えた人」で満ちています。「富める者」のお金は、さらなる金儲けのための投資や、自分の地位を守るための武器購入に向けられ、飢えた人を満たすことには向けられません。力のない人は、自分が幸せに生きる権利を要求することを許されず、沈黙を強いられています。聖母は、この世界が平和ではないと宣言しているのです。 

そして、天の平和が宣言されます。天では、神のみが、「力ある方」です。だれも、自分が正しいなどと主張せず、神の「憐れみ」によって生かされいること忘れず、「神を喜びたたえます。」自分を守るために、武装する必要はなく、弱く、貧しいままで良いのです。自分の弱さや貧しさを認める人こそが、「良い物で満た」されます。自分の力を誇ろうとする者は、いつまでも満たされることはありません。神のみが、すべてのいのちを生かす力を持っておられ、私たちは、力や富を持つ必要がなく、ただ、祈り続ければ良いのです。聖母マリアのように、すべての人が、神の憐れみによって、「代々に限りなく」、生きますようにと、ひたすら祈り続ければ良いのです。すべてのいのちの幸せを、願い続ければ良いのです。天の平和とは、祈り続けることができるという平和なのです。 

天の平和に上げられるということは、地上の苦しみと関係がなくなるということではありません。天に上げられた聖母マリアこそ、地上で苦しむ人の声、被爆者の声に、いつも耳を傾けています。天にいるということは、地上のすべての苦しみがわかるということです。「からだも」、天に上げられた聖母は、その栄光のからだをもって、地上のあらゆる苦しみを感じているのです。聖母のみ心とは、「平和の原点」である、「人間(ひと)の痛みがわかる心」なのです。そして、聖母の「魂」には、吉田さんの被爆体験が、すべての人の苦しみの体験が刻まれているのです。私たちも、聖母のように、魂にしっかりと刻みつけましょう。そして、「被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきま」しょう。「𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。」神からいただいた、からだと魂をもって、天の平和を地上に実現していきましょう。 


8月9日/年間第19主日

 [説教] 

平和旬間を過ごしている私たちは今日、洛東ブロック共同体として、平和祈願ミサをささげています。今日の集会祈願で、私たちは皆、聖霊によって神の子どもとされていることを確かめました。そして、約束された永遠のいのちに導かれることを、共同体として、心を一つにして願っています。平和とは、すべての人が、神の子どもとして、大切にされていることです。大切にされていることを忘れないことです。すべての人が、互いに大切にし合うことで、いつまでも、ともに生きることです。すでにこの世を去った人々のことは、私たちの記憶や祈りの中で思い起こされ、大切にされます。そうすることで、この人々は、今も、私たちとともに生きていることになります。そして、私たちは、これから生まれてくるいのちのことを考えて、今を生きることになります。今の私たちさえ生きることができれば良いという思いを捨て、未来の人々も生きることができるように、私たち以上に幸せに生きることができるように、ともに祈り、ともに努力します。こうして、過去のいのち、今のいのち、これから生まれてくるいのちが、ともに生きるようになります。ともに生き続けることで、永遠のいのちに導かれます。永遠のいのちとは、自分だけが永遠に生きることではありません。すべてのいのちが、ともに、永遠に生きることなのです。そして、この、ともに生きることこそが、真の平和なのです。 

今日の福音は、主イエスが、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」と伝えています。主は、群衆を大切にしました。群衆が生きるようになるために、ともに、平和に生きるようになるために、群衆に、ご自分のすべてを与え尽くされました。すべてを与え尽くす愛を与えられました。群衆を愛した愛だけでなく、群衆が互いに愛し合う愛です。私たちは、この愛を与えられる時、本当に平和に生きることができます。主は、祈ることによって、御父と愛を分かち合われました。私たちが祈りをささげる時、神は、この愛を分かち合ってくださいます。私たちは、この世界に平和をお与えくださいと祈るだけではありません。私たちが、この世界で日々出会う、いのちを愛することができますようにと祈るのです。愛によって、世界平和を実現できますようにと祈るのです。祈っているだけでは平和は実現しないと、よく言われます。確かにそうです。しかし、祈りがなければ、真の平和は訪れないのです。そして、宗教の違いを超えて、だれもが、安心して祈れることこそが平和なのです。 

今日の第一朗読は、神と出会うエリヤについて伝えています。エリヤは、「激しい風…地震…火」の中に、神を見いだすことはできないのです。「静かにささやく声を聞」いて神がおられることを知るのです。神は、大きな出来事の中ではなく、日々の小さな出来事の中におられるのです。そして、小さな出来事の中で働いておられる神に気づき、礼拝をささげることが、真の礼拝となるのです。この神から、真の平和が与えられます。ですから、平和とは、小さな出来事を大切にすることだと言えます。日々の小さな愛の行いに気づき、感謝できることが、平和なのです。ささやくような声であっても、平和を祈り求めていれば、平和は訪れるのです。小さな暴力だと思えても、暴力を見過ごさないことが平和なのです。平和を求める声に、声にならない声を聞き逃さないことが、平和を築いていくことなのです。声の小さい人が犠牲になり、声の大きい人の思い通りになっている限り、絶対に、平和は実現しないのです。「静かにささやく声」こそが、真の平和なのです。この声がだれにでも聞こえるようになる時、真の平和が実現しているのです。 

そして、主イエスは今日、「恐れることはない」と言ってくださいます。平和とは、恐れがなくなることです。恐れがなくなり、武器がいらなくなることです。他人に、恐れを抱かないことです。恐れを抱かせないことです。6日の広島平和記念式典の、こども代表による「平和への誓い」で次のように述べられていました。「私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。 平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。 」今日、平和祈願ミサをささげている私たちも、恐れずに行動する責任があります。相手を恐れる前に、相手の気持ちを想像し、意見の違いがあれば、理解し、学び合いたいと思います。平和への思いを語り合い、聴き合いたいと思います。相手を恐れるのではなく、ともに平和をめざしていく仲間として大切にしたいと思います。主は今日、私たち一人一人に、「安心しなさい」という言葉をかけてくださっています。私たちも、互いに、「安心しなさい」という言葉をかけ合いましょう。私たちが、「安心しなさい」という言葉をかけ合う時、そこに、私たちの平和キリストがおられるのです。


6月28日/年間第13主日

 [説教]


「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」使徒パウロの、この信仰宣言は、洗礼の秘跡の意味を明らかにしています。私たちは今日、使徒パウロとともに、この信仰を宣言して、福音宣教の歩みを続けるいく決意を新たにしたいと思います。

今日の福音で、主イエスははっきりと、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言っておられます。私たちはそれぞれ、自分が担わなければならない十字架が与えられています。十字架とは、避けたい苦しみです。自分の思い通りにならないことです。理不尽に思えることです。そして、自分の十字架は、他の人の十字架よりも、重く、大きく感じしまうことがよくあります。この十字架を担うことが、キリストと共に死ぬことなのです。この十字架を担って、生きていくことが、キリストと共に生きることなのです。洗礼を受けた人は、この十字架を担って、毎日を生きていくことができるのです。十字架を担って生きていくことに、意味を見いだすことができるのです。私たちは、洗礼によって、十字架を担って生きていくことこそが、本当に生きることであると思えるようになったのです。

私たちの苦しみで、一番大きな苦しみとは、「愛する」ことです。愛とは苦しみです。自分が好きな人だけを愛すれば良いならば、愛は苦しみではないでしょう。しかし、主イエスは今日、私たちに、自分が嫌いな人を愛することを求めておられます。嫌いな人を好きになる必要はありません。大嫌いでしかたがなく、いなくなってほしいと思っても良いから、愛するのです。喧嘩をしても、あいさつをしないほど仲が悪くても良いから、愛するのです。自分が嫌いな人は、その人を愛そうとする時、重い十字架となります。主は、ご自分を嫌い、憎む人を愛されました。だから、十字架につけられました。そして、主は、今も、十字架上におられます。すべてのいのちを愛し続けておられるからです。この十字架を担う力が、洗礼の恵みによって与えられているのです。私たちは、日々出会う人を愛するために、洗礼を受けました。キリストと共に、愛という十字架を担って生きていくために、洗礼を受けました。

ここで、注意しなければならないことは、誰かの言いなりになることが、愛ではないということです。暴力に耐え忍ぶことが、愛ではないのです。誰かを自分の思い通りにするということは、どのような形であれ、暴力です。暴力を振るう人に対しては、暴力をやめさせることが愛です。もしやめさせることができなければ、暴力から逃げることが、最大の愛です。愛とは、相手の幸せを願うことです。暴力を振るわずに生きていけることが、一番の幸せです。嫌われてたくないという理由で暴力を許すことは、愛などではありません。嫌われても、暴力を止めることが愛なのです。私たちは、暴力に耐え忍ぶために洗礼を受けたのではありません。暴力を振るうこと、暴力を振るわれることから解放されるために、洗礼を受けたのです。

主イエスは、「自分の命を得ようとする者は。それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っておられます。主のためにいのちを失うということは、自分の思い通りに生きようとするのではなく、まわりの人の思いを大切にしながら生きていくことではないでしょうか。お互いの思いを大切にしながら、ともに生きていくということではないでしょうか。主イエスは、すべてのいのちを愛しておられます。だから、私たちも、主とともに、すべてのいのちを愛することで、互いに愛し合うことで、すべてのいのちが、いのちを得ることができるということではないでしょうか。洗礼を受ける人は、いのちを得ます。それは、愛し合って生きるためのいのちです。愛し合おうとする時、必ずと言っていいほど、苦しみがともないます。この苦しみこそが、キリストとともに死ぬことであり、キリストとともに生きることなのです。生きているからこそ、苦しみがあるのです。

そして、洗礼の秘跡は、私たちをいつも、感謝の心で満たす秘跡です。主イエスは今日、洗礼を受けた私たち一人一人に、自分が「小さな者」であるという気づきを与えてくださいます。洗礼を受けた私たちは、まわりの人に支えられて生きている、「小さな者」となったのです。神とまわりの人の愛を信じて、安心して、「小さな者」のままで生きていける者となったのです。「冷たい水一杯」という言葉が表す、まわりの人の愛に気づいて、感謝できる者となったのです。洗礼の水は、神の愛です。「冷たい水一杯」は、まわりの人の愛です。「小さな者」とは、たくさんの愛に気づくことができる者です。たくさんの愛に生かされている、「小さな者」であることに感謝しながら、愛という十字架を担って、ともに生きていきましょう。

6月21日/年間第12主日

 [説教]


私たちは今日、主イエスに呼ばれて、ここに集まっています。こうして集まるということが、時間と場所をともにし、心を一つにして祈ることが、福音そのものなのです。福音を宣教していることになるのです。だから、今日も、力強く福音を宣べ伝えたいと思います。

主イエスは今日、私たち一人一人に、言われます。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」私たちは、この世界の中で、こうして集まり、ともに祈ることで、すでに、力強く、主の「仲間であると言い表」しているのです。「言い広め」ているのです。私たちは、教会の中にばかりいないで、社会の中で福音を宣べ伝えるよう励まされています。教会の中で祈っているだけでは、福音宣教にならないと言われることもあります。しかし、忘れてはならないことは、私たち教会は、社会の中で生きているということです。私たち教会が社会の中で生きていて、いつも、人々を温かく迎える時、私たち教会が福音となっているのです。私たちは、こうして集まり続けることで、だれでも歓迎し続けることで、この世界の中で福音となっているのです。私たちが、福音となっているのです。

今の社会は、安心して生きることが難しいところとなっています。「人々を恐れ」ながら生きなければならないところとなっています。教会は、社会の中で生きていますが、だれもが、恐れずに、安心していることができるところです。洗礼を受けているかどうかに関係なく、教会に来る人はだれでも、主イエスの温かい愛に包まれます。主は今日、「あなたがたの髪の毛までも一本数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、私たちに、語りかけてくださいます。このみことばを信じて、互いに大切にし合う時、私たち教会は、福音となっているのです。

私たちは今日、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という福音を、主イエスから、「耳打ちされ」ています。私たちは、この福音を、「屋根の上で言い広め」るよう求められています。「すべてのいのちは大切である」と言い広めるように求められています。特に、弱い立場に置かれたいのちを大切にすることは、私たち教会の義務です。女性が神からいただいたいのちを感謝して、その小さないのちを安心して、喜んで、この世界に迎えることができるようにすることは、私たち教会の最も大切な使命です。そのために、この世界に、いかなる暴力もあってはならないのです。いのちを傷つけることは、もちろん暴力です。しかし、それだけではありません。それ以上に、いのちを傷つけなければ生きていけないように、だれかを追い詰めることも暴力です。自分は正しいと主張し、だれかを悪と決めつけ、まわりといっしょになって責めることも、時として大きな暴力になるのです。戦争や貧困だけでなく、過度の、不要な競争、あらゆる形の虐待やハラスメントなども、決して許されない暴力なのです。暴力はいかなるものであれ、決して許されないのです。もし私たちの中に暴力があるとしたら、私たちは、主から、はっきりと宣告されることになるでしょう。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天に父の前で、その人を知らないと言う。」暴力は、福音の否定です。主を知らないと言って、主の愛を拒否することです。私たちが取り組まなければならないことは、暴力のない社会です。暴力を振るわなくても生きていける社会です。暴力を振るっている人を責めるのではなく、どうしたら暴力に頼らずに生きていける社会にしていくかを、皆で、真剣に考え、祈ることです。暴力を振るってしまう人の苦しみを理解し、暴力のない社会を、ともに築いていくことです。一人一人が抱えている傷がいやされ、すべての人が、恐れることなく、安心して生きていける社会に、共同体になっていくことです。

使徒パウロは今日、宣言しています。「恵みの賜物は罪とは比較になりません。」神の愛は、人間の罪と比較にならないほど、大きく、深いということです。私たちは今日、この福音に、喜んで、そして、謙虚に耳を傾けたいと思います。私たちは、罪人の集まりであることを謙虚に認めたいと思います。その上で、私たちは皆、神に愛されていることを喜びたいと思います。そして、神の愛によって、この世界から、あらゆる暴力がなくなることを信じて、祈りたいと思います。主イエスの仲間であることを、ともに祈り続けることで、言い広めていきたいと思います。さらに、忘れてはならないことは、ともに祈っている限り、どこにいても、離れ離れになっていても、私たちは、主の仲間です。神の愛に生かされている共同体です。教会という福音です。この世界の中で、福音となって、ともに歩んでいきましょう。さまざまな理由で教会に来ることができない人ととも、祈りでつながり合い、ともに福音を宣べ伝えましょう。

6月14日/年間第11主日

[説教]


私たちは今、「年間」という時を過ごしています。この期間は、私たち、主イエスから派遣されて、毎日の生活の中で福音を宣べ伝える時です。

私たちが宣べ伝える福音は、「天の国は近づいた」というよい知らせです。「天の国」とは、場所ではありません。生きている喜びです。神に生かされている喜びです。まわりのいのちと共にに生きている喜びです。神とまわりのいのちに支えられて生かされていることに感謝できる喜びです。ここに集まっている私たちは今日、この喜びが、「近づい」ていることを宣べ伝えるよう励まされているのです。「近づい」ているとは、天の国が始まっているということです。そして、まだ完成していないということです。私たちの喜びは、まだ本物ではないということです。多くの人が、喜びを感じていないということです。喜びでないことを喜びと思い込んで、その場限りの満足を得ているということです。

今日の福音は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と伝えています。飼い主のいない羊は、どこに向かえばよいかわからなくなります。危険や危機が来ても気づきません。そして、動けなくなります。私たちも、飼い主のいない羊になっていないでしょうか。生きている意味を見い出しているでしょうか。将来のことなど考えたくない。今さえよければいい。自分の幸せを考えるのが精一杯で、まわりの人のことなど考える余裕などない。今のままでいいから、変わりたくない。こうした思いが起こるのが悪いということではありません。こうした思いが起こる時、私たちは、「弱り果て、打ちひしがれている」自分に気づきたいと思います。そして、強がらず、弱音を吐きたいと思います。祈りとは、賛美と感謝だけではなく、神に、安心して弱音を吐くことです。弱音を吐き終わった後の賛美と感謝こそ、本当の祈りなのです。神に弱音を吐くだけでなく、互いに弱音を吐き合いたいと思います。教会は、安心して、弱いままでいることができるところです。強くなければいられないとしたら、そこは教会ではありません。

人間は強くないのです。弱い自分を認めて、神に祈るしかないのです。弱り果て、打ちひしがれている私たちが祈る時、主イエスは、「深く憐れ」んでくださるのです。そして、弱く、貧しい私たちが、共に祈る時、互いを深く憐れむことができるのです。互いの幸せを、心から願うことができるのです。共に祈る仲間に感謝することができ、共に生きるようになるのです。弱い自分のままで、安心して、神に祈り、まわりの仲間と共に祈ることができる。祈りながら、共に生きることができる。これこそが、生きる喜びであり、生きる意味ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。

主イエスは、弱く、さまざまな限界を抱えている私たちを、「呼び寄せ」、福音宣教のために、派遣されます。私たちは、派遣される時、「汚れた霊に対する権能」を授けられます。この権能は、祈りの力です。祈りこそ、悪に対する力です。悪霊が望んでいることは、私たちが祈らなくなることです。私たちが祈っている限り、誰も、私たちを神から引き離すことはできません。福音宣教とは、この祈りの力を、日々出会う人と分かち合うことです。祈りの力を分かち合って、共に祈るようになることです。共に祈る喜びを分かち合うことです。そして、主は、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます。こうした業をを行われるのは主ご自身です。私たちはこうした苦しんでいる人のために祈ります。他にできることがあっても、まず祈ります。苦しんでいる人とともに祈ります。この祈りの力を「ただで受けたのだから」、喜んで分かち合います。ここに、天の国が実現しています。

主イエスは使徒たちに、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。福音宣教のために、遠くに行く必要はありません。まず、近くにいる人と、「天の国は近づいた」という福音を分かち合いましょう。近くにいる「弱り果て、打ちひしがれている」人と分かち合いましょう。この分かち合いは、その人のために祈ることから始まります。祈りとは、主の「深く憐れ」む心をもって、苦しむ人と共に苦しむことです。共に苦しむということは、共に生きているということです。そんな共に生きることの広がりが、少しずつ大きくなっていくことが、主が言われる「収穫」ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。主は、「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫の主に願いなさい」と言っておられます。収穫の主に願いながら、「天の国は近づいた」と宣べ伝えていきましょう。

6月7日/キリストの聖体

 [説教]


5月31日に、三位一体の愛をともに祝った私たちは、今日、まことの神であり、まことの人間であるイエスの愛を祝っています。「キリストの聖体」とは、主イエスのすべてであり、主の愛そのものなのです。復活し、今、私たちとともに、私たちとともにおられる主ご自身なのです。

主イエスは今日の福音で、ご自分のことを、「天から降って来た生きたパン」であると宣言しておられます。「生きたパン」とは、この世界に来て、私たちとともに生きておられる主ご自身なのです。そして、私たちを、すべてのいのちを愛し続け、生かし続けるために、ご自身のすべてを与え続けておられるのです。「キリストの聖体」とは、与え続けられる、与え尽くされるキリストのことです。

主イエスは、私たちに、ご自分の「肉と血」を与え続けておられます。主の肉とは、私たちの肉体と同じ肉体です。この肉体をもって、主は、人々のもとに出向き、人々とともに歩かれました。この肉体をもって、人々に触れ、人々の痛みを感じ、人々を癒されました。この肉体をもって、一人一人の声を、ていねいに聞き、この肉体が出る声で、愛の福音を分かち合われました。この肉体をもって、人々ととともに食べ、すべてのいのちが救われている喜びを分かち合われました。この肉体をもって、十字架の上で苦しまれたのです。主の「血」とは、この苦しみそのものなのです。すべてのいのちが救われるために流され続けている血なのです。そして、この肉体が復活したことで、主は今も、苦しんでいるいのちとともに苦しんでおられるのです。苦しみをともにしながら、すべてのいのちの復活という希望を分かち合いながら、私たちとともに歩んでおられるのです。「キリストの聖体」とは、私たちの悲しみや喜びを感じておられる、笑い、泣いておられるキリストのことです。

使徒パウロは今日、はっきりと言っています。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」私たちが聖体をいただく時、皆、同じ愛をいただいています。私たちは、聖体をいただいた後、それぞれの生活をします。この世界に中で、散り散りになって生きます。私たちは散り散りになって生きていますが、キリストの愛という、同じ愛を生きているのです。散り散りになるからこそ、愛は広がっていくのです。さまざまな生き方をするからこそ、愛は豊かになっていくのです。「キリストの聖体」とは、キリストの愛を分かち合っている私たちのことです。私たちは、散り散りになって、さまざまな愛を生きる時、「キリストの聖体」となるのです。

今日の第一朗読は、荒れ野の旅の終わりに、モーセが民に告げた言葉を伝えています。その中に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。確かに、私たちは、みことばがなければ生きていけません。しかし、みことばを聞くだけで、口にするだけでは、みことばを生きていることにはなりません。みことばは、私たち一人一人の肉体を突き動かす時、愛の福音となります。心地よい言葉、綺麗な言葉が、みことばなのではありません。肉体をもって行われる愛こそが、本当のみことばなのです。肉体を動かすことができなくても、動かすことができないからこそ、必死になって愛している姿、全身全霊を込めた愛こそが、生きたみことばなのです。「キリストの聖体」は、肉体をもって生きるみことばなのです。すぐに答える人工知能ではないのです。間違いながらも、必死になって。愛を生きようとする、私たち一人一人なのです。皆が愛し合って生きていける世界を目指して、答えを探し求めて生きている私たちが、迷いながら、ともに歩んでいる私たちが、「キリストの聖体」なのです。これからも、「キリストの聖体」として、ともに歩んでいきましょう。

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8月16日/年間第20主日

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