[説教]
ことばの祭儀と神父様のお話
4月12日/復活節第2主日・神のいつくしみの主日
4月5日/復活の主日・日中のミサ
[説教]
復活祭が始まりました。私たちは、5月24日の聖霊降臨の主日までの五十日間、主イエスの復活を喜び、ともに祝います。
私たちはまず、主イエスの復活について、次のことを確認したいと思います。すべての福音が伝えているように、主イエスの復活を最初に体験したのは、女性たちだったということです。彼女たちは、主を深く愛していました。主の十字架上の死は、彼女たちに絶望をもたらしたのではなく、主への確固とした愛をもたらしました。だから、彼女たちは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」、主の墓を訪れたのです。彼女たちにとって、権力を持つ男性たちに無残に殺された主は、敗者ではなく、愛する主なのです。私たちは今日、彼女たちの深い愛から学びたいと思います。そして、この女性たちが、他の弟子たちに、復活の出来事を伝えたのです。女性たちの主への深い愛が、主の復活の福音を広げていきます。
今日の福音で、マグダラのマリアは、二人の男性の弟子に伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」このメッセージは、主が墓におられないから、いっしょに探しましょうという招きのメッセージです。しかし、二人の男性は、主が墓の中におられないことを確認しただけです。彼らは、墓まで走りますが、その後は走らなくなり、家に帰ってしまいます。私たちも今日、主が墓の中におられないことを知りました。私たちは、どうすればよいでしょうか。どこに行けばよいでしょうか。何をすればよいでしょうか。主が復活されたということ、墓におられないということは、私たちへの問いかけとなるのです。私たちは、これからどう生きていくかという問いかけとなるのです。この問いかけへの答えを探して歩み続けることが、私たちの復活なのではないでしょうか。復活とは、生き返ることではありません。生きていることの意味を問いかけながら、毎日を生きていくことなのです。
そして、主の復活は、時間がかかる出来事でした。福音記者ヨハネは伝えています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてあった。」主は、目覚めて、すぐに墓の外に出ていかれたわけではありません。起き上がり、一歩を踏み出すために、体を包み、顔を覆っていた布を解かなければなりませんでした。ですから、歩き始めるまでに、時間がかかったことでしょう。さらに、墓の出口は、石でふさがれていました。この世界への入口が、ふさがれていたのです。この石を取りのけるためにも、時間がかかったはずです。私たちの復活も、同じように時間がかかります。私たちも、さまざまな布で包まれて、動けなくなっています。顔を覆われて、見えなくなっています。行きたいところがあっても、大きな石が立ちふさがって、歩みを進めることができません。しかし、私たちは、こうした布や石をここちよいものとして感じていないでしょうか。動けないこと、まわりが見えないこと、進むことができないことに、安住していないでしょうか。私たちの復活とは、たとえ時間がかかっても、墓から出ることなのではないでしょうか。墓は、じっとしていればよいところです。だれかに傷つけられることもありません。だれかを愛そうとして傷つくこともありません。しかし、墓の中では、まわりの人とともに生きることはできません。だから、私たちは、墓から出たいのです。墓から出て、主イエスと出会い、まわりの人とともに生きたいのです。そして、生きている喜び、復活の喜びを、皆で分かち合いたいのです。
時間がかかっても、墓から出ましょう。そして、復活された主を探す旅を始めましょう。ともに旅をしながら、生きている喜びを、復活の喜びを分かち合いましょう。私たちが復活の喜びを分かち合う時、その分かち合いに、復活された主が加わってくださるのです。主イエスは、復活して、今、生きておられるのです。
4月4日/復活の主日・復活の聖なる徹夜祭
[説教]
「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」最初二人の女性に委ねられた福音、復活の福音は、復活の聖なる徹夜祭を祝っている私たちにも、告げ知らされました。
私たちは今、ガリラヤに行くよう招かれています。ガリラヤに行き、復活された主イエスとともに、福音を宣べ伝えるよう励まされています。
使徒パウロは、ローマの教会への手紙の中で、次のように述べています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」今夜、ともに復活を祝っている私たちも、「復活させられた」のです。「新しい命に生きる」ようになったのです。
私たちが、新しい命に生きる時、福音を宣べ伝えることになります。ガリラヤとは、私たちが、新しい命に生きるところなのです。私たちが新しい命に生きる時、そこに、ガリラヤがあるのです。
新しい命とは、使徒パウロがはっきりと言っているように、「罪から解放されている」命です。私たちは、罪から解放される時、本当の意味で生きるようになります。本当の意味で生きるとは、だれにも頼らず生きるということではありません。だれかと競争して、生き残ることではありません。私たちは、だれかに支えられているから生きることができると悟る時、本当に生きていることになります。自分もだれかを支えているのだと思える時、まわりの人とともに生きていきたいと望む時、新しい命に生きることになります。いのちとは、交わりなのです。神との交わり、まわりの人との交わりこそが、いのちそのものなのです。いのちは、交わりの中で、新たになり続けるのです。交わりは、開かれていることで、新たになり続けることができます。開かれ、新たになり続ける交わりこそが、復活のいのちなのです。
そう感じる時、ガリラヤとは、いのちの交わりであると言えます。いのちが交わりながら、新たになっていくところ、そこが、ガリラヤなのです。復活の喜びのうちに、いのちの交わりを生きていきたいと思います。私たちのガリラヤで、まことのいのちであり、愛の交わりである、復活された主イエスに出会いたいと思います。あの方は、閉ざされた墓にはおられません。開かれた交わり、復活のいのちであるガリラヤにおられるのです。
4月3日/聖金曜日・主の受難
[説教]
私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。
私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。
主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは、主がすべての人を愛されることを拒否しました。あの人ではなく、私を、私だけを愛してほしい。すべての人ではなく、私だけを愛してほしい。そんな思いが、「十字架につけろ」という叫びとなったのです。
主イエスは、十字架にとどまり、すべての人への愛を貫かれました。十字架上で亡くなることで、すべてのいのちへの愛を完成されました。今、私たちに残された愛は、すべての人、すべてのいのちを愛する愛だけです。それ以外の愛は、愛と呼ぶことができなくなったのです。
主の受難の出来事は、今も続いています。十字架につけられている人がいます。主イエスのように愛そうとする人は、主イエスのように、苦しみます。すべての人を愛そうとする人は、すべての人から拒否されます。特定の人、特定の集団、特定の国を愛する人が、多くの人に好まれます。私たちは、自分が好まない人を十字架につけてくれる人を好んでいるのです。この世界は、私たちの好き嫌いが、人のいのちを左右するところとなっています。すべてのいのちは大切にされなければならないことは、だれでもわかっています。しかし、好き嫌いという理由だけで、多くのいのちが否定されているのです。
主は、すべてのいのちが復活して、生きるようになるために、十字架につけられ、亡くなられました。そして、すべてのいのちは、無条件で愛され、生きるようになりました。先月29日の受難の朗読で、福音記者マタイが伝えているように、主が亡くなられた時、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「聖なる者たちの体」とは、愛を生きる体のことです。ですから、主が十字架上で亡くなられた時は、愛の復活の時でもあったのです。そして、今日の受難の朗読で、福音記者ヨハネが伝えているように、愛は、「成し遂げられた」のです。主によって成し遂げられた愛を生きる時、生きようとする時、私たちが救われていることになるのです。すべてのいのちが、愛という救いを得ているのです。
私たちは、今日で、「十字架につけろ」という思いを捨てたいと思います。だれかを十字架につけることで、好き嫌いという偽りの愛を求めることをやめて、皆で、主イエスが十字架上で完成された愛を分かち合いたいと思います。今、愛を感じ、皆で分かち合うことができなくても、愛の復活を信じたいと思います。そして、受難の主日で読まれたマタイによる受難の朗読に登場する百人隊長たちのように、「本当に、この人は神の子だった」と、信仰を宣言したいと思います。今日読まれたヨハネ福音書に登場する「愛する弟子」のように、聖母マリアの祈りに支えられて、愛の共同体となっていきたいと思います。
4月2日/主の晩餐の夕べのミサ
[説教]
私たちは今晩、主イエスが、ご自分のすべてを与え尽くされたことを思い起こします。聖体が、私たちを「愛して、この上なく愛し」ておられる主であるということを、共同体として、ともに体験します。
私たちをこの上なく愛しておられる主は、私たちの「足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふ」いてくださる主です。私たちの前にひざまずき、私たちの疲れた足をていねいに洗い、優しくふいてくださる主です。想像してみましょう。私たちの下におられる主を想像してみましょう。
ペトロは、彼の足を洗おうとされる主に、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。主は、答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」主は、ペトロに、そして、ここに集まっている私たちに、足を洗うことに込められた愛を、そのまま受け取りなさいと言っておられるのです。私たちは、自分が幼い時、だれかに洗ってもらったはずです。そして、最後は、きれいに洗ってもらい、ていねいにふいてもらうことを望んでいます。私たちは、だれかに洗ってもらえたから、この世界で生きることができるようになったのです。だれかに洗ってもらえるから、安心して、この世界を去ることができるのです。私たちは、生きるにしても死ぬにしても、私たちの足を洗ってくれる愛、だれかの愛を必要としているのです。キリストのからだである聖体は、私たちだれもが必要としている愛です。聖体は、私たちの足を洗ってくださるキリストです。今晩、聖体という愛を信じて、そのままいただきたいと思います。
そして、主イエスは、私たちに、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言われます。私たちも今晩、足を洗い合う聖体となるよう招かれています。お互いの愛を必要としていることを素直に認めて、キリストの愛を分かち合う共同体となるように招かれています。私たち教会は、愛であるキリストのからだです。互いに足を洗い合いたいと思います。この世界の中で、人々の足を洗い続けたいと思います。主から受けた愛という水は、たらいに満ちています。人々の前にひざまずき、この水で、人々の疲れた心を洗わせてもらうましょう。足を洗い続けるキリストのからだとして、ともに歩んでいきましょう。
3月22日/四旬節第5主日
[説教]
私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。
洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。
一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。
今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。
この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。
ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。
ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。
この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。
この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。
そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。
私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。
主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。
「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
このみことばは、マルタの願いに応えたものです。
マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。
死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。
洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。
復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。
復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。
今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。
洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。
洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。
私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。
キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。
3月15日/四旬節第4主日
[説教]
四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、新たにする時です。
洗礼は、一度しか受けられませんが、絶えることなく続く恵みです。
洗礼を受けた者は、どのような生き方をしていても、神に愛されている、神の子であり続けます。神や隣人を愛することができなくなっても、再び愛せるようになります。洗礼の時注がれた愛の霊は、私たちの中で、何があっても、ともに生きておられる聖霊なのです。
今日の福音は、「生まれつき目の見えない人」が、主イエスにいやされ、「目が
見えるようになった」ことを伝えています。
見えない目が見えるようになることは、大きな恵みです。しかし、見えるようになったこと以上に大切なことは、何が見えるようになったかということであり、見えるようになって、生き方がどう変わったかということです。
目が見えるようになった人は、主イエスについて、「あの方は預言者です」と宣言します。
預言者は、神の言葉を伝えることで、人々に神の愛をもたらす者です。
ですから、この人は、神が自分を愛しておられるから、自分の目を見えるようにしてくださったと言っているのです。この人は、「神は私を愛しておられる」と宣言しているのです。この人は、神の愛が見えるようになったのです。
今日の第一朗読で、主である神は、はっきりと宣言されます。
「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
生まれつき目の見えない人は、神が見るように見る目を与えられたのです。
神のみこころ、神の愛が見えるようになったのです。そして、主イエスの前にひざまずいて、「主よ、信じます」と、迷わず、信仰宣言することができたのです。
洗礼を受け、神の子とされる者も、水で洗われ、神の愛を見ることができ、信じることができる目を与えられるのです。
時々、愛を見えなくする、「土」が目に塗られて、見えなくなりますが、その時は、祈りという水、回心という水で、何度でも洗い流せば良いのです。四旬節という恵みの時は、土を塗られた目を洗い流す時なのです。
今日の福音は、主イエスが、「土をこねてその人の目にお塗りになった」と伝えています。このようにすることで、主は、私たちの目が、しばしば、神の愛を見ることができなくなっていることを示しておられるのです。そして、目を洗うよう招いておられるのです。洗礼の恵みを受けた者は、神の愛が見えるように、心の目を洗い続けるのです。
それに対して、ファリサイ派の人々は、主イエスの愛を見ることができません。
「安息日を守らない」という、表面的なことだけを見ようとします。
「目が見えるようになった」という、目の前で起こっていることが見えず、「全く罪の中に生まれた」という思い込みに遮られて、目が見えなくなっているのです。神の愛を信じることができない、ファリサイ派の人々こそ、目が見えなくなっているのです。
私たちは、愛が見えるようになったことで、満足していて良いでしょうか。
今日の第二朗読で、使徒パウロは、洗礼を受けた私たちに、はっきりと言っています。
「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」
私たちは、光となるよう励まされているのです。私たちは、神と隣人を愛する時、愛されていることに喜び、感謝する時、この世界の中で、光となっています。
今の世界は、さまざまな情報にあふれています。そして、情報に振り回されて、私たちの間に、傷つけ合いが起こっています。情報を得れば得るほど、闇が深くなり、どこに光があるかわからなくなっています。情報のやり取りではなく、愛があるところに光があります。大量のデータではなく、心の込もった、短い祈りこそが、私たちを生かす光です。止めどない悪口が語られるところではなく、理解しようとして、優しいまなざしが向けられているところに、愛の光があります。
洗礼を受けた私たちは、愛の光を見る目を与えられています。洗礼の恵みに生きている私たちは、愛を信じ、愛し合うことで、光となることができます。
もちろん、私たちの見る力は、完全ではなく、完全から遠い状態です。目を洗い続けなければなりません。深い闇を感じて、動くことができなくなることがあります。しかし、洗礼を受けた私たちは、どのような時も、神の子として愛されています。愛という光を注がれています。そして、使徒パウロが言っているように、どのような時も、「光の子として歩みなさい」と励まされています。
ですから、光の子として、ともに歩んでいきましょう。
愛を信じて、ともに歩んでいきましょう。
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