3月22日/四旬節第5主日

[説教]

私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。 

洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。 

一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。 


今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。 

この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。 

ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。 

ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。 


この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。

この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。 

そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。

私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。 


主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。 

「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 

このみことばは、マルタの願いに応えたものです。 


マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。 

死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。 

洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。 

復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。 

復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。 


今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。 

洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。 


洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。

私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。

キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。


3月15日/四旬節第4主日

[説教] 

四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、新たにする時です。 

洗礼は、一度しか受けられませんが、絶えることなく続く恵みです。 

洗礼を受けた者は、どのような生き方をしていても、神に愛されている、神の子であり続けます。神や隣人を愛することができなくなっても、再び愛せるようになります。洗礼の時注がれた愛の霊は、私たちの中で、何があっても、ともに生きておられる聖霊なのです。 


今日の福音は、「生まれつき目の見えない人」が、主イエスにいやされ、「目が

見えるようになった」ことを伝えています。 

見えない目が見えるようになることは、大きな恵みです。しかし、見えるようになったこと以上に大切なことは、何が見えるようになったかということであり、見えるようになって、生き方がどう変わったかということです。 


目が見えるようになった人は、主イエスについて、「あの方は預言者です」と宣言します。 

預言者は、神の言葉を伝えることで、人々に神の愛をもたらす者です。 

ですから、この人は、神が自分を愛しておられるから、自分の目を見えるようにしてくださったと言っているのです。この人は、「神は私を愛しておられる」と宣言しているのです。この人は、神の愛が見えるようになったのです。 


今日の第一朗読で、主である神は、はっきりと宣言されます。 

「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

生まれつき目の見えない人は、神が見るように見る目を与えられたのです。 

神のみこころ、神の愛が見えるようになったのです。そして、主イエスの前にひざまずいて、「主よ、信じます」と、迷わず、信仰宣言することができたのです。 

洗礼を受け、神の子とされる者も、水で洗われ、神の愛を見ることができ、信じることができる目を与えられるのです。 

時々、愛を見えなくする、「土」が目に塗られて、見えなくなりますが、その時は、祈りという水、回心という水で、何度でも洗い流せば良いのです。四旬節という恵みの時は、土を塗られた目を洗い流す時なのです。 

 

今日の福音は、主イエスが、「土をこねてその人の目にお塗りになった」と伝えています。このようにすることで、主は、私たちの目が、しばしば、神の愛を見ることができなくなっていることを示しておられるのです。そして、目を洗うよう招いておられるのです。洗礼の恵みを受けた者は、神の愛が見えるように、心の目を洗い続けるのです。 


それに対して、ファリサイ派の人々は、主イエスの愛を見ることができません。

「安息日を守らない」という、表面的なことだけを見ようとします。 

「目が見えるようになった」という、目の前で起こっていることが見えず、「全く罪の中に生まれた」という思い込みに遮られて、目が見えなくなっているのです。神の愛を信じることができない、ファリサイ派の人々こそ、目が見えなくなっているのです。 


私たちは、愛が見えるようになったことで、満足していて良いでしょうか。 

今日の第二朗読で、使徒パウロは、洗礼を受けた私たちに、はっきりと言っています。 

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

私たちは、光となるよう励まされているのです。私たちは、神と隣人を愛する時、愛されていることに喜び、感謝する時、この世界の中で、光となっています。

今の世界は、さまざまな情報にあふれています。そして、情報に振り回されて、私たちの間に、傷つけ合いが起こっています。情報を得れば得るほど、闇が深くなり、どこに光があるかわからなくなっています。情報のやり取りではなく、愛があるところに光があります。大量のデータではなく、心の込もった、短い祈りこそが、私たちを生かす光です。止めどない悪口が語られるところではなく、理解しようとして、優しいまなざしが向けられているところに、愛の光があります。 


洗礼を受けた私たちは、愛の光を見る目を与えられています。洗礼の恵みに生きている私たちは、愛を信じ、愛し合うことで、光となることができます。 

もちろん、私たちの見る力は、完全ではなく、完全から遠い状態です。目を洗い続けなければなりません。深い闇を感じて、動くことができなくなることがあります。しかし、洗礼を受けた私たちは、どのような時も、神の子として愛されています。愛という光を注がれています。そして、使徒パウロが言っているように、どのような時も、「光の子として歩みなさい」と励まされています。

ですから、光の子として、ともに歩んでいきましょう。 

愛を信じて、ともに歩んでいきましょう。 


3月8日/四旬節第3主日

[説教] 

私たちは今、主キリストに従って、四旬節という荒れ野を、この世界という荒れ野を、さまざまな苦難に満ちた荒れ野を、ともに歩んでいます。神のことばに耳を傾け、神のことばによって、日々新たにされながら歩んでいます。新たなにされながら、洗礼志願者とともに、洗礼の恵みを味わいます。

  

四旬節の歩みは、愛によって支えられます。  

私たちは、神に愛されているから、この歩み始めることができました。そして、神と隣人を愛するから、四旬節を歩み続けることができます。  

日々のさまざまな苦難によって、愛は妨げられません。むしろ、苦難が多いほど、大きいほど、愛は深められ、大きくなります。たとえ、祈ることがなかなかできず、愛のわざを充分にできなくても、祈りたい、愛のわざを行いたいと望み続けたいと思います。 この望みを、何があっても、捨てず、持ち続けることこそが、愛を大きくしていくことなのです。神や隣人を愛せないからこそ、愛したいと、心から願うことこそが、愛を深めていくことなのです。私たちは、愛を望んでいる限り、愛を失っていないのです。 四旬節は、自分の愛を誇る時ではありません。愛されていることに感謝し、その愛に 応える時なのです。  


使徒パウロは今日、四旬節の歩みを続けている私たちに向けて、はっきりと宣言しています。 

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているのです。」  

愛である神は、愛を私たちの心に注ぎ続けておられる。だから、私たちは愛を信じることができる。私たちも、愛することができる。愛し合うことで、皆が、ともに、幸せになることができる。

今は愛せなくても、いつか愛せるようになる。死んでしまったように思える愛も、いつか必ず、復活する。愛こそ、私たちの希望であり、私たちの復活である。  

パウロは、そう述べているのではないでしょうか。そして、私たちに与えられる洗礼の恵みとは、この、希望であり、復活である愛であると言えます。  


今日の福音は、主イエスとサマリアの女性の出会いの物語、愛の物語です。  

福音記者ヨハネは、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」と伝えています。疲れているイエスは、「水を飲ませる」という愛を求めておられました。  

そして、「水をくみに来た」、サマリアの女性に、この愛を求めました。  


女性は、自分が、この愛の求めに応えることができないと思い込んでいました。  

しかし、イエスは、女性に言われます。 

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  

女性は、主が与えられる水を求め、与えられます。 女性に与えられた、「永遠の命に至る水」とは、愛の霊です。女性の内でわき出る、 尽きることのない水、まわりの人と分かち合えば分かち合うほど、ますます豊かになっていく愛です。サマリアの女性は、この愛の泉を与えられます。愛され、愛し続けることができるいのち、永遠の命が与えられます。 

どこにいても、愛せるようになります。 いつでも愛せると信じるようになります。  

この愛の泉、永遠の愛に至る水こそ、私たちに与えられる洗礼の恵みなのです。 


さらに、主イエスは、愛の泉を与えられる者たちによって、「まことの礼拝」がささげられる時が、今来ていると宣言されます。洗礼を受ける者は、まことの礼拝をささげることができるのです。

「霊と真理をもって」ささげられる礼拝です。 

イエス・キリストが与え続けておられる真の愛をもってささげられる礼拝です。 

それは、洗礼に続く、感謝の祭儀です。  

この礼拝について、ベネディクト十六世教皇は回勅『神は愛』で次のように述べています。  

「普通、礼拝と生き方とは別々のものと考えられていますが、この場合は、この二つは少しも別々ではありません。聖体拝領において、『礼拝』そのものが、神に愛されることと、他者を愛することの両方を含みます。感謝の祭儀は、具体的な愛の実践をもたらすことがなければ、本質的に不完全なものとなります。」  


洗礼の水によって、私たちは、愛を妨げるものから解放され、愛の泉である聖霊を注がれます。

洗礼に続く、入信の秘跡である聖体は、私たちを、日々の愛のわざへと駆り立てます。愛を生きたいという望みを強め、新たにします。  

四旬節の残された時間、この愛の恵みを、ともに体験していきましょう。 


3月1日/四旬節第2主日

[説教] 

今年の四旬節教皇メッセージのテーマは、「耳を傾け、断食する―回心の季節としての 四旬節」です。 

このメッセージの中で、次のように述べられています。「あらゆる回心の歩みは、みことばに触れていただき、従順な心でみことばを受け入れることによって始まります。」 

私たちは、この四旬節に、神のことばに耳を傾けることで、回心の恵みをいただきたいと思います。回心とは、罰や裁きを恐れて、何かをしないことではありません。 

神のことばによって、毎日の生活を新たにしていただくことです。 

愛のみことばに触れて、愛を新たに、深めていただくことです。 


今日の福音は、受難と復活の地であるエルサレムへの旅を始められた、主イエスの姿が変わった出来事を伝えています。 

この変容の時、「モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた」のです。 

モーセとエリアも、神のことばに耳を傾け、それを人々に告げ知らせた人たちです。 

ですから、三人の語り合いは、神のことばの分かち合いだったと言えます。ペトロは、三人が分かち合っている出来事を、ビデオに録画するかのように、保存しようとします。

保存された分かち合いを見ることで、満足しようとします。確かに「すばらしい」分かち合いだったことでしょう。しかし、分かち合いは、見て満足することではありません。 

すばらしい分かち合いの様子を見た私たちは、同じ分かち合いに加わるよう招かれているのです。 


神のことばの分かち合いは、耳を傾けることから始まります。 

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」 

この天からの声は、耳を傾けることへの招きのことばです。主イエスに、耳を傾けることから、私たちの分かち合いは始まるのです。私たちが耳を傾ける方は、「イエスのほかにだれもいな」いのです。「イエスは近づき」、私たちの心に「触れて言われ」ます。 

「起きなさい。恐れることはない」と、私たちを励まされるのです。 


神のことばは、私たちを恐れさせることばではありません。神のことばの分かち合いは、私たちを起き上がらせます。神のことばに耳を傾け、神のことばを分かち合った私たちは、起き上がります。神のことばに支えられて歩むためです。神のことばに生かされて、毎日を生きるためです。 

神のことばの分かち合いは、耳を傾け、語り合うことで終わりません。神のことばに従って、生きるようになります。一人で生きるのではありません。 

神のことばを分かち合った人たちは、みことばに導かれて、ともに歩みます。 

 

私たちは、「仮小屋」に留まってはならないのです。「高い山」に留まらず、「山を下りる」よう励まされでいるのです。主とともに、山を下りて、この世界の中で生きるように励まされているのです。 

回心とは、高い山で神のことばに耳を傾け、新たにされ、山を下りて、神のことばに導かれて、この世界で生きていくことなのです。神のことばが示す御国の完成を目指して、 一人ではなく、ともに生きていくことなのです。 


そして、神のことばは、高い山でしか聞けないということではありません。 

私たちは、山を下りた、この世界でも、神のことばを聞くことができます。この世界の中でこそ、神のことばに耳を傾けようとする時、私たちの回心は、さらに深まるのです。 

主イエスは、さまざま出来事を通して、そこで出会うさまざま人を通して、語りかけておられます。この世界の中で実現している神のことばこそ、私たちが、謙虚に耳を傾けなければならない、みことばなのです。 

特に、主は貧しい人たちとともにおられます。キリストは、貧しい人の一人となっておられます。貧しい人たちこそ、私たちの回心を深める、神のことばです。貧しい人たちの姿に、栄光に輝く主の姿を見い出す時、私たちは回心していることになります。貧しい人に出会い、「これに聞け」という天の声に、謙虚に耳を傾けることが、真の回心と言えるのです。 

貧しい人とは、まず、この世界で、貧困や不正、さまざま暴力によって、安心して生きていくことができない人のことです。こうした貧しい人たちにひれ伏して、その声に耳を傾けることこそ、回心なのです。そして、私たちは人間である限り、だれもが、神の前で、貧しい者であると言えます。まわりの人がいなければ生きていけないことを認める時、 貧しい者となります。私たちは皆、弱さや限界を持った、貧しい者です。この貧しさを、素直に認めて、互いに耳を傾け合う時、私たちは、神の国の福音を、本当の意味で分かち合うこととなり、ともに回心の道を歩むこととなります。 


四旬節という恵みの時、私たちは、神のことばに耳を傾け、神に変えていただきましょう。

自分が貧しい者であることを認めて、光り輝く姿に変えていただきましょう。 

貧しい主とともに、すべてのいのちが輝く御国を目指して、日々、回心の道を歩んでいきましょう。 

神のことばを聞こえなくするものを、勇気を持って断ち、神のことばに、しっかりと耳を傾けて、四旬節を歩み続けていきましょう。 


2月22日/四旬節第1主日

 [説教] 

四旬節は、世界中の洗礼志願者とともに祈りをささげながら、洗礼の恵みを黙想する時です。洗礼は、天国に行くための手段ではなく、この世界を生きていくという恵みです。

神の国に向かって、主イエスとともに歩んでいくという恵みです。 


今日の福音で、洗礼を受けられた主イエスは、荒れ野を歩まれます。洗礼を受けるということは、荒れ野を歩むということなのです。洗礼を受けた人は、この荒れ野を歩むように招かれているのです。 

荒れ野は、別の世界ではありません。私たちが、今生きている、この世界こそが荒れ野なのです。この世界が荒れ野になることが、この世界を荒れ野として体験することが、洗礼の恵みなのです。主イエスは今日、聖霊に導かれて、荒れ野を歩まれます。

洗礼を受けた人も、同じ霊に導かれて、荒れ野という世界の中で生きていくのです。

 

荒れ野は、楽に生きることができるところ、楽しいところではありません。苦しみを背負って生きるところです。悪の誘惑を受けるところだからです。洗礼を受けた人は、悪を知っています。知っているから、誘惑を受けるのです。悪を拒もうとするから、誘惑を受けるのです。悪の誘惑を経験するのは、悪を拒もうとしているからです。 

そして、この世界に生きている限り、悪を拒むことは、多くの場合、苦しいことです。 

悪を悪と思わず、まわりに合わせて生きる方が、楽です。何があっても隣人を愛することは、本当に苦しいことです。自分は正しいと思い込み、だれかを悪者にして、まわりの人たちといっしょに攻撃をすること、悪口を言うことの方が楽です。洗礼を受けた人は、このことを知っていて、悪を拒もうとするので、苦しくなるのです。まわりに合わせ生きていかなければならないので、苦しいのです。 

もちろん、どのような悪も退けることができたら、それに越したことはありません。 

しかし、理想通りにはならないのです。洗礼を受けた人は、愛という理想を持っているからこそ、苦しいのです。そして、理想を捨てず、何度失敗しても、愛を求めている限り、悪の誘惑に屈していないのです。 


神の国という理想を追い求めている人には、「神の口から出る一つ一つの言葉」が与えられています。洗礼を受けた人は、この神のことばで生きる人なのです。洗礼を受けたということは、物質的な豊かさだけで生きることができず、神のことばによって、本当に生きるようになるということなのです。洗礼を受けるということは、神のことばを宣べ伝える人になることです。神のことばで生きることこそが、神のことばを宣べ伝えることなのです。 

 

神の国に向かって歩んでいる人は、日々祈ります。 

祈りとは、すべてのことが、神のみ旨通りになるように願うことです。 

主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と宣言しておられます。 

神を試すとは、神のみ旨ではなく、自分の望みの実現を求めて、神に要求することです。

神を、目的達成の手段にすることです。神を、自分の思い通りに動かすことです。 

祈りとは、試みの対極にあるものです。祈りとは、神のために生きたいと願うことです。

隣人のために生きる知恵と勇気を求めることです。「神殿の屋根の端に立」って、見下ろすことではありません。教会の中で、姉妹兄弟とともに、神に向かって、目を上げることです。毎日の生活の中で、まわりの人の願いを、神にささげることです。 

洗礼を受ける人は、祈りの人となるのです。祈りながら生きる人となるのです。 

しかし、私たちは、洗礼を受けても、祈れずに苦しむ時があります。祈りたいのに祈れないという苦しみも、洗礼の大きな恵みなのです。祈ることを諦めて、この恵みを失わないように、互いに励まし合いましょう。 


そして、神のことばで生かされ、祈りを大切にしている人は、神と隣人に仕えることを喜びとする人です。「世のすべての国々とその繁栄ぶり」を目にしても、それを自分のものにしようとはしません。高いところから世界を見て、世界を支配しようとしません。

人々の中で生き、人々の声に、謙虚に耳を傾けます。人々の願いを自分の願いとして、ともに祈ります。神のことばに生かされて、隣人を愛することに、生きる喜びを感じます。

今愛することができなくても、愛せるようになりたいと祈り続けます。洗礼を受けたということは、神と隣人に、愛をもって、仕える人になったということです。 

仕えることに、生きている意味、生きがいを見いだしたということです。 


私たちは今、荒れ野で生きています。荒れ野には、たくさんの悪があります。悪があることで、たくさんの人が苦しんでいます。そして、主イエスは、苦しんでいる人とともに、苦しんでおられます。苦しみながら、神の国の完成を目指して、すべてのいのちとともに、歩んでおられます。 

洗礼を受けている私たちも、主イエスに従い、苦しんでいる人とともに、歩み続けたいと思います。日々出会う人とともに、神のことばを分かち合いながら、祈り合いながら、仕え合いながら、苦しみをともにしながら、生きていきたいと思います。 


2月15日/年間第6主日

[説教] 

私たちは今、天の国の福音を分かち合っています。そして、この福音を、それぞれが生きているところで、宣べ伝えます。すべての人が、天の国に招かれています。天の国で、生きるよう招かれています。 


主イエスは今日、私たちに仰せになります。 


「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」 


律法学者やファリサイ派の義とは、どのような義でしょうか。それは、神の掟を守る者だけが救われるという義です。掟を守れない者を、救いから排除することで成り立つ義です。 


では、私たちが信じている福音の義とは、何でしょうか。福音の義とは、すべての人が救われることで成り立つ義です。皆が、ともに救われるという義です。ですから、もし自分だけの救いを望む者は、義とされることはないのです。皆の救いを求める者だけが、天の国に入ることができるのです。 


今日の福音で、厳しい掟が与えられています。姉妹兄弟を傷つけなくても、「腹を立てる」だけで、神の掟を守っていないと判断されるのです。性欲を持つだけで罪人とされることがあるのです。私たちはだれでも、人間である限り、感情と基本的な欲求を持っています。そう考える時、私たちはだれも、こうした掟を守ることができません。 


だから、主から与えらた掟など守らなくても良いということではありません。私たちは、守りたいという望みを持ち続けたいと思います。自分が掟を守れるかどうかだけに関心を持つことは、自分のことだけを考えるということです。私たちが考えなければならないことは、どうしたら、皆がともに、掟を守れるようになるかということです。天の国では、皆が支え合って、掟を守るのです。天の国は、少数の者だけでは成り立ちません。皆が入らなければ、決して完成しないのです。 


腹を立てないようになるために、私たちは、なぜ腹を立てることがあるのかを振り返ることが必要だと思います。暴力や不正に腹を立てることは、正しいことです。この場合、暴力や不正をなくすことで、だれも腹を立てなくてもよいようにすることが、掟を守ることになります。時として、腹を立てることよりも、腹を立てさせることの方が、はるかに罪深いのです。今、この世界では、あまりにも多くの、腹立たしいことが起こっています。世界で起こっていることに関心を持たなければ、腹が立つこともなくなるでしょう。しかし、無関心であることは、腹を立てること以上に罪深いのです。振り返りたいと思います。何に、だれに、なぜ腹を立てたのか。自分が腹を立てることで、だれが傷ついたのか。腹を立てることで、だれが励まされたのか。 


そして、私たちは今日、「姦淫するな」という掟を与えられています。私たちは、性別に関係なく、だれかを、自分の欲望の対象とする時、姦淫の罪を犯していることになります。だれかを自分のモノとしたいという思い、自分の思い通りにしようとする思いが、「みだらな思い」なのです。自分の目の前にいる人を、心から大切にしたいと思う時、その人の本当の幸せを願う時、みだらな思いが起こることはありません。私たちは、姦淫やみだらな思いが悪いということを知っています。そして、互いに、人間として、尊重し合い、大切にし合いたいと願っています。しかし、この世界は、私たちの欲望を大きくするモノ、情報にあふれています。だれかをモノのように扱わなければ、生き残ることはできないという状況に置かれている人が多くいます。こうした世界にあって、私たちキリスト信者は、互いに大切し合い、尊重し合うことの喜びを証しするよう励まされています。みだらな思いから解放されて、互いに大切にし合う心を持てる時が、天の国が実現している時なのです。それが、一瞬としか言えないほどの短い時間であっても、そこにはたしかに、天の国が来ているのです。 


最後に、主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」と言っておられます。私たちは今、自分の思いで誓いを立てることよりも、神のみ旨を尋ね求めたいと思います。神のみ旨を知ったならば、「然り」と、あなたのみ旨通りになりますようにと祈りたいと思います。そして、み旨に反することに、「否」と言える勇気と知恵を祈り求めたいと思います。この世の知恵ではなく、使徒パウロががはっきりと述べている「神の知恵」を願い求めたいと思います。愛そのものである十字架によって示される、神の知恵に導かれて、今日、神のみ旨に従って生きることができなくても、明日は、み旨に従うことができますようにと、謙虚に祈り続けたいと思います。謙虚に祈り続けることこそが、天の国の義なのです。 


2月8日/年間第5主日

 [説教] 

私たち洛東ブロック共同体は今日、「洛東ブロック病者の日」として、こうして集まり、心を込めて、ともにミサをささげています。

 

今日の第二朗読で、使徒パウロは、自分自身の体験を分かち合っています。 

「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と、はっきりと述べています。 

パウロの言葉は、病気になった者の苦しみを表しています。しかし、パウロの、この苦しみの時は、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」時でもあったのです。 

「十字架につけられたキリスト」という言葉は、あの十字架刑の時のキリストだけを意味しているのではありません。キリストが、今も、十字架につけられているということを表しています。私たちとともにおられるキリストは、今、十字架につけられているのです。 

パウロは、自分の弱さに押しつぶされようとしていた時に、この「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えていたのです。 

「優れた言葉や知恵を用い」ず、「生きること」によって宣べ伝えたのです。 

「”霊“と力」という言葉の意味は、「キリストによって与えられる生きる力」という意味であると言えます。

パウロは、キリストとともに、十字架につけられていたのです。コリントの教会の人々は、パウロの苦しみながら生きる姿に、「十字架につけられたキリスト」を見い出していたのです。 


私たちも、今日、病気の苦しみの中にある人々の一人一人が、「十字架につけられたキリスト」であることを思い起こしましょう。 

私たち教会は、病者のケアをしています。今日の共同祈願で、病者のために祈っていますが、 だれかのために祈ることは、私たちができるケアの一つです。そして、病気で苦しんでいる人々も、祈りをささげてくれているということを思い出しましょう。 

病気の苦しみの中でささげられる祈りは、十字架の上でささげられる祈りです。私たち教会を支える祈りです。私たちは、病者のために祈っているだけでなく、病者とともに祈っているのです。病気の苦しみの中でささげられる祈りに、心から感謝しながら、ともに祈っているのです。祈ってあげるのではなく、ともに祈るのです。 


病気で苦しんでいる人々は、かわいそうな、あわれみの対象ではありません。ともに福音を宣べ伝える、今、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えている姉妹兄弟なのです。 

 

私たち教会は、病気で苦しんでいる人々のところに訪れます。訪れて、福音を分かち合ってもらいます。言葉だけによる福音ではなく、生きることによって、苦しむことによって証しされる福音です。

私たちは、他の人々に、この福音を宣べ伝えるのです。 


今日の福音で、主イエスは、私たちが、「地の塩」であり、「世の光」であると宣言しておられます。

私たちは、日々祈る時、この世界の中で塩となります。 

塩は、目立ちませんが、私たちのいのちを支えています。塩がなければ、私たちは生きることができません。祈りも同じです。今の世界で、祈りは目立ちません。熱心な、深い祈りほど、人目につくことはないのです。しかし、多くの人が祈っています。 

ある女性は、次のように言いました。「他の人は、初詣の時しか神社に行かないけど、祈りというのは、時々することだと思うから、私は、月に二、三度、近くの神社に行って祈っています。」 

私は、この言葉に、祈りの大きな力を感じました。教派や宗教の違いを超えて、たくさんの人が祈っているのです。特に、病気で苦しんでいる人々が、病者をケアしている人々が、心からの祈りをささげているのです。だから、さまざまな問題があっても、私たちは、ともに生きることができるのです。

さらに、塩は、食べ物の腐敗を防ぎます。祈りも同じです。世界が間違った方向に進んで行くことを防ぎます。人々を回心させ、心を清めます。死を間近にしている人の祈りは、「生きる」ということが、当たり前のことではなく、聖なる出来事であることを、私たちに悟らせます。 

祈りは、この世界の塩です。この世界のいのちです。私たちが祈り続け限り、この世界は滅びないのです。 


今年の「世界病者の日」の教皇メッセージは、「よいサマリア人」を取り上げています。 

このメッセージでは、サマリア人が、傷ついた人のケアを、自分の力だけでやり抜こうとせず、宿屋の主人の協力を求めていることが注目されています。私たちは、一人一人ばらばらにではなく、共同体全体で、よいサマリア人になるように招かれています。 

洛東ブロックの共同体として、一つになって、よいサマリア人的な共同体になっていきましょう。 

その時、私たちは、この世界の中で光となるのです。私たち洛東ブロック共同体の「立派な行い」を見て、人々は、この世界に神がおられることに気づくのです。私たちの光に照らされて、よいサマリア人のように歩み始め、傷ついた人に気づき、協力して、動けない人のケアに取り組むようになるのです。 


「飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中で輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」 


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3月22日/四旬節第5主日

[説教] 私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。  洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合...

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