6月7日/キリストの聖体

 [説教]


5月31日に、三位一体の愛をともに祝った私たちは、今日、まことの神であり、まことの人間であるイエスの愛を祝っています。「キリストの聖体」とは、主イエスのすべてであり、主の愛そのものなのです。復活し、今、私たちとともに、私たちとともにおられる主ご自身なのです。

主イエスは今日の福音で、ご自分のことを、「天から降って来た生きたパン」であると宣言しておられます。「生きたパン」とは、この世界に来て、私たちとともに生きておられる主ご自身なのです。そして、私たちを、すべてのいのちを愛し続け、生かし続けるために、ご自身のすべてを与え続けておられるのです。「キリストの聖体」とは、与え続けられる、与え尽くされるキリストのことです。

主イエスは、私たちに、ご自分の「肉と血」を与え続けておられます。主の肉とは、私たちの肉体と同じ肉体です。この肉体をもって、主は、人々のもとに出向き、人々とともに歩かれました。この肉体をもって、人々に触れ、人々の痛みを感じ、人々を癒されました。この肉体をもって、一人一人の声を、ていねいに聞き、この肉体が出る声で、愛の福音を分かち合われました。この肉体をもって、人々ととともに食べ、すべてのいのちが救われている喜びを分かち合われました。この肉体をもって、十字架の上で苦しまれたのです。主の「血」とは、この苦しみそのものなのです。すべてのいのちが救われるために流され続けている血なのです。そして、この肉体が復活したことで、主は今も、苦しんでいるいのちとともに苦しんでおられるのです。苦しみをともにしながら、すべてのいのちの復活という希望を分かち合いながら、私たちとともに歩んでおられるのです。「キリストの聖体」とは、私たちの悲しみや喜びを感じておられる、笑い、泣いておられるキリストのことです。

使徒パウロは今日、はっきりと言っています。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」私たちが聖体をいただく時、皆、同じ愛をいただいています。私たちは、聖体をいただいた後、それぞれの生活をします。この世界に中で、散り散りになって生きます。私たちは散り散りになって生きていますが、キリストの愛という、同じ愛を生きているのです。散り散りになるからこそ、愛は広がっていくのです。さまざまな生き方をするからこそ、愛は豊かになっていくのです。「キリストの聖体」とは、キリストの愛を分かち合っている私たちのことです。私たちは、散り散りになって、さまざまな愛を生きる時、「キリストの聖体」となるのです。

今日の第一朗読は、荒れ野の旅の終わりに、モーセが民に告げた言葉を伝えています。その中に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。確かに、私たちは、みことばがなければ生きていけません。しかし、みことばを聞くだけで、口にするだけでは、みことばを生きていることにはなりません。みことばは、私たち一人一人の肉体を突き動かす時、愛の福音となります。心地よい言葉、綺麗な言葉が、みことばなのではありません。肉体をもって行われる愛こそが、本当のみことばなのです。肉体を動かすことができなくても、動かすことができないからこそ、必死になって愛している姿、全身全霊を込めた愛こそが、生きたみことばなのです。「キリストの聖体」は、肉体をもって生きるみことばなのです。すぐに答える人工知能ではないのです。間違いながらも、必死になって。愛を生きようとする、私たち一人一人なのです。皆が愛し合って生きていける世界を目指して、答えを探し求めて生きている私たちが、迷いながら、ともに歩んでいる私たちが、「キリストの聖体」なのです。これからも、「キリストの聖体」として、ともに歩んでいきましょう。

5月31日/三位一体の主日

 [説教]


今日は、神のいのちを祝う日です。そして、こうして集まっている私たちが、このいのちをいただいていることを喜ぶ日です。いただいている、この尊いいのちをあたりまえだと思わず、感謝する日です。

今日の福音は、神のいのちについて、次のように宣言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神のいのちとは、神が世を愛しておられるということです。世とは、神の愛を受け入れることができない、神の愛をわかろうとしない、この世界です。今の世界の現実です。だからこそ、神は、世を愛されるのです。神は、この世界を愛することしかできないのです。世が神を拒否すればするほど、神の愛は大きくなっていくのです。そして、神の愛は、独り子を与える愛です。独り子とは、神のいのちそのものです。神の独り子イエスは、そのいのちを、愛の拒絶そのものである十字架の上で、与え尽くされます。与えられるから、与えるのではないのです。与えられないからこそ、限りなく与えるのです。それが、神の愛であり、神のいのちなのです。こうした愛といのちは、私たちの理解や能力を超えています。ですから、神秘なのです。

神の愛といのちを信じる時、私たちは、「永遠の命を得る」ことになります。いのちを信じるとは、生きたいと願うことです。愛を信じるとは、愛したいと願うことです。神の「独り子を信じる」とは、主イエスのように、生きたい、愛したいと願うことです。願いながら、毎日を生きることです。「永遠の命」とは、地上の生活を終わった後のいのちではなく、今から、毎日、ずっと生きていくいのちなのです。神のように、独り子イエスのように、愛したいと思いながら、生きていくいのちなのです。神の愛は永遠ですから、私たちも、神の愛を生きたいと願う限り、永遠に生きることになるのです。私たちは天国に行きたいと思っています。それは、神に愛されたいからではありません。私たちは、地上にいる間に、神に完全に愛されています。私たちは、天国に行き、ずっと愛し続けたいのです。この地上で経験している、さまざまな限界を超えて、天国で思い切り愛したいのです。神と隣人を愛したいのです。

今日私たちが礼拝している、三位一体の神は、私たちを愛しておられる神です。私たちが信じる神は、私たちを愛しておられるから、三位一体なのです。今日の第二朗読で、使徒パウロは、彼が愛している姉妹兄弟たちに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と挨拶しています。この挨拶は、ここに集まっている私たちにも向けられています。この挨拶は、三位一体の愛が、すべての人とともにあるように願う祈りです。「聖霊の交わり」という言葉が示しているように、私たちは、愛されるだけでなく、三位一体の愛に加わるように招かれています。父と子と聖霊が愛し合っておられるように、私たちも、互いに愛し合うように励まされています。私たちが教会が、この世界の中にあって、三位一体の愛をまわりの人と分かち合いながら、生きていくように励まされています。

今日の福音で警告されているように、私たちは、神の愛を信じなければ、必ず滅びます。私たちは、愛を失えば、滅びます。愛し合えなければ、滅びることになります。私たちは、愛がなくても、お金や権力を持っていれば、生きることができると思ってしまうことがあります。しかし、そう思えるのは、今生きているからです。そして、神とまわりのいのちに愛されているから、今生きているのです。生きているから、愛を否定することができるのです。三位一体の神は、私たちを、いつでも、どこでも、今までも、これからも、ずっと愛するために、私たちとともにおられます。この三位一体の愛を信じて、この愛が生きていることを、ともに歩んでいきたいと思います。私たちがこの愛を信じている限り、この愛を宣べ伝える限り、この世界は、決して滅びることはないのです。「主の御名」、「神の独り子の名」、「愛」という御名が大切にされるかぎり、神の愛は、私たちの愛は、ずっと生き続けるのです。

5月24日/聖霊降臨の主日

[説教] 

聖霊降臨の主日である今日、私たち教会は、教会の誕生日を祝うために、こうして集まっています。そして、教会にいのちを与え続けている聖霊が、これからも、教会を超えて、あらゆるいのちを生かし続けてくださるように、心を一つにして願い求めています。

「聖霊を世界にあまねく注いでください」と祈っています。 


今日の第一朗読である、「使徒たちの宣教」は、聖霊降臨の出来事を伝えていますが、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ということばで始まっています。聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが「ほかの国々の言葉で語りだす」ことだけではありません。「一同が一つになって集まる」ことこそが、聖霊の、最も大切な働きなのです。私たちが、さまざまな違いを超えて、こうして集まる時、聖霊が力強く働いているのです。 


そして、私たちは今日、ただ集まっているのではありません。 

「イエスは主である」と宣言するために集まっています。 

使徒パウロがはっきりと言っているように、「聖霊によらなければ」、この信仰宣言はできないのです。 

私たちは、毎日の生活の中で、何度も、「アーメン」と言います。この言葉は、イエスが主であることへの、心からの同意の言葉なのです。この言葉が言えることこそ、聖霊の働きなのです。「アーメン」という言葉が出る時、聖霊降臨という救いの出来事が起こっているのです。 

聖霊降臨の主日である今日、私たちは、「アーメン」と言えることに感謝しましょう。 

さまざまな理由で、この言葉を声に出せないこともあります。私たちは、たとえ声に出せなくても、心の中で、喜んで叫ぶことができます。心の中だからこそ、まわりを気にせず、喜んで、叫ぶことができます。この叫びこそ、聖霊降臨なのです。 

聖霊降臨は、特別な出来事ではないのです。主イエスを信じている、だれもが、いつでも、どこでも、体験している出来事なのです。 

「アーメン」と言えることこそが、奇跡なのです。 


今日の第一朗読は、聖霊降臨の出来事に居あわせた人々の、次の言葉で終わって

います。 

「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 

聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが、神の救いの業を語り始めることです。 

私たち、キリストの弟子たちが福音を宣べ伝える時、聖霊が働いているのです。 

 

そして、この福音を聞く人がいるのです。福音を、救いのことばとして、喜んで受け入れる人がいるのです。人が福音を聞く時も、聖霊が働いています。 

使徒たちの宣教は、「わたしたちの言葉で聞こうとは」と伝えています。聖霊は、人々が受け入れやすい方法で、福音を語ります。主の弟子たちに、福音を語らせます。 

主の弟子である私たちは、聖霊が語らせるままに、福音を宣べ伝えたいと思います。そのために、聖霊の助けを願いたいと思います。 

福音宣教のために聖霊の助けを祈り求めている時、私たちは、聖霊降臨を体験して

いるのです。祈れることこそが、聖霊の働きなのです。願いがかなえられることではありません。願いがかなえられなくても、祈り続けられることが、聖霊の、最も力強い働きなのです。 


福音宣教は、個人で行うことではありません。共同体が行うことです。 

使徒パウロは今日、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」

と述べています。私たち一人一人が、聖霊の助けを求めて、福音宣教を続ける時、一人一人の行いは違っていても、対立しているように見えても、私たちは、共同体として、福音を宣べ伝えていることになります。 

だから、聖霊の働きを信じて、互いに感謝し合いましょう。感謝し合えることは、聖霊の働きなのです。私たちを聖なるものとする、愛の霊の働きです。 


今日の福音で、弟子たちは、復活された主イエスから、聖霊を与えられます。 

私たちは、主から、「聖霊を受ける」時、この世界の罪を「赦す」ことができます。 

私たちは、聖霊の働きを受けて、この世界が、いのちを傷つける悪から解放されるように祈ります。いのちを傷つける悪こそが、罪です。すべてのいのちが罪から解放され、ともに生きることができるよう、祈り続けます。あきらめずに祈り続けます。 

祈るだけでなく、すべてのいのちがともに生きる道を探し求めます。聖霊にうながされて、精一杯努力します。 

「あなたがたに平和があるように」という福音を分かち合いながら、すべてのいのちが生きることができる平和の実現をめざして、ともに歩んでいきます。 

キリストの平和を、この世界で分かち合いながら、ともに歩む時、私たち教会は、生きています。教会は、誕生し続けます。 

復活された主の愛を信じて、日々、聖霊降臨の恵みによって、ともに歩んでいきましょう。 


5月17日/主の昇天

 [説教] 


「主の昇天」の祭日である今日、私たちは、復活された主イエスが、神の右の座に着かれ、すべてのいのちを治めていることを祝っています。 

私たちは今日、まことの神である主イエスを、心を込めて、ともに礼拝しています。 


使徒言行録が伝えている通り、主イエスは、「天に上げられ」ました。 

弟子たちは、ただ、「天を見つめてい」ました。私たちも今日、天を見つめたいと思います。

私たちは、地上のことに心を奪われて、天を見つめることができなくなっています。 天を見つめるためには、足を止めなければなりません。スマホやコンピュータの画面から目を離さなければなりません。だれかの悪口を言うのをやめなければなりません。忙しい日常から、一時でも離れなければなりません。そして、外に出なければなりません。天を見つめて、神の右の座におられる主を探し求める時、私たちは祈っていることになり、心にキリストの平和が訪れるのです。 


そして、主イエスが、神の右の座に着いて治めておられるということは、御父と御子が一つになって、すべてのいのちを愛しておられるということです。 

神は、地上から離れたところで、私たちを愛しておられるのです。私たちが、この地上でどのように生きているかに関係なく、私たちを愛しておられるのです。 

天からの愛は、無条件の愛なのです。私たちは、この無条件の愛を信じているでしょうか。こんな私を、神が愛されるはずがない。私たちはよく、神の愛を信じられなくなります。そんな時は、外に出て、天を見つめたいと思います。天を見つめながら、すべてのいのちを、無条件で愛しておられる神に感謝をささげたいと思います。神の愛への信仰を深めたいと思います。地上の私たちの愛が不完全であることを、謙虚に認め、天の神の愛に、すべてをゆだねたいと思います。 


今日の福音は、弟子たちが、「ガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」と伝えています。 

山は、神と人とが出会うところです。山は、キリストの弟子となった私たちが、まことの神であるキリストと出会うところです。そこで、私たちは、主のみことばと主のいのちを分かち合います。今、こうして祝っているミサが、私たちが登る山です。 

 

ミサは、主イエスが招いてくださる礼拝です。私たちがこうして集まっていることは、 あたりまえのことではありません。共同体が集まれることは、大きな恵みです。共同体が集まって、主を礼拝することは、私たちにとって、主の昇天の体験です。日常生活から離れたところで主に出会うことこそが、主の昇天です。 

そして、弟子たちの中には、「疑う者もいた」と伝えられています。 

私たちは、神を信じることができなくなる時があります。自分の信仰に自信を失い、教会に行けなくなる時があります。今日の福音は、そんな時も、主に会いに来るように、そんな時こそ、共同体の集まりに加わるように励ましています。 

地上で生きている私たちは、完全な信仰を持つことなどできません。だから、主のもとに来て、信仰を深めていただくのです。不完全な信仰しか持てないからこそ、主のもとに集まること、これこそが、主の昇天という恵みではないでしょうか。 


そして、主の昇天とは、主イエスの福音宣教の歩みを、主の弟子である私たちが続けていくことであると言えます。主の昇天とは、福音宣教が続いていくことなのです。 

主は今日、こうして集まっている私たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。私たちは、毎日の生活の中で、神の愛で、まわりの人を愛したいと願っています。すべての人が、神の愛の中で生きることができるように努力しています。 

主の弟子である私たちは、すべてのいのちが、神の愛の中に浸され、幸せになるようにと祈りながら、毎日を生きています。 

こうした私たちの生き方が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音の実現となりますように、ともに祈りましょう。 

今月は、聖母月です。聖母マリアが、私たちとともに祈ってくださいますよう、心から願いましょう。 

「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」


5月10日/復活節第6主日

 [説教] 

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」 


主イエスは、主の復活を祝うために集まっている私たちに、この福音を分かち合ってくださいます。主は復活し、生きておられます。だから、私たちも生きることになるのです。

私たちも、復活することになるのです。主に復活されたように、私たちも、復活したのです。 


復活を信じている私たちにとって、生きるとは、愛することです。主イエスを愛し、互いに愛し合うことです。 

私たちには、「真理の霊」が与えられています。「真理」とは、愛です。 

真理とは、私たちを支える「確かなもの、信頼に値するもの」ですが、まさに、愛こそ、確かな、信頼に値するものです。主が言っておられるように、この愛そのものである霊が、私たちと「ともにおり」、私たちの「内にいる」のです。この愛の霊が生きていて、働いておられるのです。この霊の動きに従って生きる時、私たちは、本当に生きていることになるのです。そして、本当に生きることこそが、真理なのです。本当に生きることこそが、主の復活であり、私たちの復活なのです。ただ生きるだけではなく、愛するのです。 

愛し合うことで、ともに生きるのです。 


主は今日、はっきりと言われます。 

「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」 

主はここで、今の世界について述べておられるのです。 

今、多くの人が、自分だけを愛するか、自分が好きな人だけを愛することで、幸福になろうとしています。偽りの愛によって、幸福を求めています。 

しかし、真の愛は、「愛」という真理は、自分だけでは成り立ちません。好きな人だけでなく、嫌いな人とともに生きることで成り立ちます。日々出会う人と、顔と顔を会わせて、声に出して話すことで、会話することで成り立ちます。会話することで、お互いを知り合うことで成り立ちます。自分の思いだけでなく、相手の思いも大切にすることで成り立ちます。自分が好きになれない思いを理解し、大切にしようと努力することで成り立ちます。

私の思いを語り、あなたの思いに耳を傾け、私たちの思いを共有していくことで成り立ちます。自分の思いが変えられていくことで成り立ちます。そして、真理の霊が働くように心から願い求めて、ともに祈り続けることで、私たちの愛は確かなものとなっていきます。

こうして、主のみことばが実現します。 

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」 

主が言われるように、愛の内に生きていることが、私たちに分かるのです。 


今日は、世界広報の日です。 

今年の教皇メッセージのテーマは、「人間の声と顔を守る」です。人工知能について述べられています。 

私たちの日々の生活は、人工知能システムなしでは成り立たなくなりつつあります。 

人工知能は、多くの場合、私たちが求める情報を、即座に示します。私たちが好む答えを出すようになっています。それも、すぐに出すことが期待されています。そして、基本的に私たちの思いを肯定します。 

人工知能を使っていると、時間をかけること、ともに悩むこと、みんなで考えることが、苦労して何かを作りあげることが、意味のない無駄なことだと思えるようになることがあります。しかし、愛するとは、すぐに答えを出すことではありません。愛すれば愛するほど、答えが分からなくなることもあります。答えを出さず、沈黙を保つことこそが、愛である時もあります。自分が否定されても、それでも愛し続けることで、本当の愛となっていきます。 


愛は、無駄だと思うことに時間をかけることです。ともに悩むことこそが、愛です。結果がどうであれ、みんなで苦労したことに感謝することが、愛です。失敗した時こそ、愛が必要な時、愛を深める時です。そして、何もできないと思う時、必死になって祈ることが、最も大きな愛です。 

復活されたキリストは今日、ここに集まっている私たちに、この愛の掟を守ることで、 毎日を生きていくよう励ましておられます。この愛の掟を大切にして、聖霊降臨までの二週間を歩んでいきましょう。一人一人の顔と声を、一人一人の愛を大切にして、ともに歩んでいきましょう。ともに歩みながら、愛を深めていきましょう。愛を深めていく私たちの姿が、復活のキリストの姿をあらわすものとなりますよう祈りましょう。 


5月3日/復活節第5主日

 [説教] 

復活節は、私たち一人一人が、洗礼によって、神の子どもとされていることを祝い、感謝する時です。

そして、洗礼の恵みによって、私たちは、神の愛を受けた共同体として、ともに歩むことができます。

復活節は、共同体の歩みが新たになる時、愛の共同体の復活の時なのです。 


今日の福音は、受難を前にした主イエスと弟子たちとの、愛に満ちた会話を伝えています。 

主は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と、弟子たちに告げられます。「わたしの父の家」とは、教会のことだと言えます。 

教会は、たくさんの人が、ともに生きるところなのです。神の愛、キリストの愛を信じる人ならばだれでも、ともに生きることができるところなのです。 

主はさらに、「あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われます。主が今、教会におられ、神の愛を信じている私たちを迎えてくださるのです。そして、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」というみことばが実現するのです。 


私たちは今、主イエスに迎えられて、互いに愛し合いながら、ともに生きることで、教会という共同体になるように招かれているのです。教会になっていくことこそが、洗礼の恵みなのです。 

私たちは、主によって集められ、この世界で生きている教会、地上を旅する教会です。 

地上を旅する私たちは、さまざまな問題を抱えています。地上の教会では、愛し合うどころか、傷つけ合いが起こっています。この世界で生きている教会は、この世界が抱える問題で苦しんでいます。教会が迫害されているだけではなく、教会の中で迫害が起こっています。 

教会の中で傷つき、教会の交わりに加わることができなくなっている人が多くいます。 


しかし、地上の教会だけが、教会ではありません。教会は、天上の教会と地上の教会が、祈りによってつながり、一つの教会となっています。 

天上の教会では、すべての人が神の愛で満たされ、互いに愛し合っています。さらに、天上の教会の姉妹兄弟たちは、地上の教会である私たちを愛し、私たちのために、絶えることなく、祈っています。そして、私たちも、地上の生活を終えた後、天上の教会の交わりに、愛の交わり、祈りの交わりに加わることになります。 

天上の教会にも、「住む所がたくさんある」のです。だから、この地上でさまざまな苦難があっても、「心を騒がせる」ことなく、愛である神を信じて、生きていくことができるのです。 


私たちは、洗礼の恵みによって、天上の教会に行くことができます。 

だからといって、地上の教会が今のままで良い、地上の教会を放っておいて、天上の教会に一日も早く行くことができるよう祈っていれば良いということではありません。 

天上の教会をめざして旅をするということは、地上の教会が、天上の教会に近づいていくということです。私たちが洗礼を受けたのは、私たち、この地上を歩みながら、失敗や過ちを繰り返しながらでも、少しずつでも、天上の教会に近づいていくためです。地上の教会で生きながら、愛を深め、天上の教会とともに祈るためです。さまざまな暴力によって、傷つけ合いが起こっている世界の中で、癒しの共同体、ケアの共同体になっていくためです。 

傷つき、苦しんでいる人ともに、この世界を旅するために、私たちは洗礼の恵みをいただいています。 


そして、主イエスは、私たち地上の教会が歩む道を示されます。 

主は、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。 

主イエスの歩まれる道こそ、私たちが歩む道です。天上の教会へと続く道です。この世界に、神の愛をもたらす道です。 

この道は、十字架の苦しみを通ることで、まことのいのちをいただく道です。まことのいのちとは、互いに愛し合うということです。 

私たちは、互いに愛し合えるようになるために、苦しまなければなりません。イエス・キリストを通るということは、愛のためにともに苦しむということです。 

キリストという道を通ることで、教会になっていきましょう。 

日々、愛の共同体の復活の喜びを分かち合っていきましょう。


4月26日/復活節第4主日

 [説教] 

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 


主イエスは、このいのちの福音を、受難の前に語られました。 

この福音は、すでに実現しています。主は、十字架上で、私たちのために、ご自分のいのちをささげ尽くされました。そして、復活によって、私たちに、豊かにいのちを分かち合ってくださいました。今も、分かち合っておられます。 

主は、私たちにいのちを与え続いてくださる、「良い牧者」なのです。 


私たちは、復活されたキリストからいただいたいのちによって、今、生きています。 

豊かにいのちをいただいているから、生き続けることができます。私たちは、羊のように、弱い存在です。一人で生きていくことはできません。羊が良い牧者にケアされて生きることができるように、私たちも、主にケアされることで、毎日を生きることができます。 

私たちのいのちは、主によってケアされているだけではありません。まわり人によってケアされています。私たちは、互いにケアし合うことによって、生き続けることができるのです。 

皆が幸せに生きるためにどうすれば良いかを、ともに悩みながら、ともに生きていくことが、ケアし合うということです。誰も傷つくことなく、ともに生きていける社会を実現するために、ケアをし合うことが必要なのです。 

主は、私たちを、いつもケアしてくださる、「良い牧者」なのです。 


今日は、「世界召命祈願の日」です。 

今日の第二朗読で、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」と述べられています。 

召命とは、主イエスから受けたいのちを生きることだと言えます。主が、私たちのために生きてくださったように、今も生きておられるように、生きることだと言えます。 

主は、善を行っておられる、「良い牧者」なのです。 

私たちの生き方には、さまざまな生き方があります。どの生き方も、善を行おうとしている限り、すばらしい生き方です。善の行い方もさまざまですから、生き方もさまざまになって当然です。私たちは、さまざま生き方とさまざまな善によって、互いにケアし合うことができます。 

しかし、善を行うことは、難しく、苦しいことです。善を行おうとしても、できない状況に置かれている人もいます。善を行って、傷ついた人もいます。私たちは、だれもが安心して善を行おうことができるよう、支え合いたいと思います。 

 

私たちが主からいのちをいただいたのは、私たちが召されたのは、そのためです。皆が喜んで善を行うことができるために、ケアし合うことが、私たちの召命なのです。 

私たちも、ケアし合う、「良い牧者」となるよう召されているのです。 


そして、私たちは、祈るために召されています。私たちの、第一の召命は、祈ることだと言えます。祈りながら生きることこそ、私たちの、共通の召命ではないでしょうか。 

今日の福音で、羊は、羊飼いの「声を知っているので、ついて行く」と言われています。

祈りとは、「良い牧者」である主の声を「聞き分ける」ことではないでしょうか。主の声を聞き分けながら、毎日を生きることが、祈りの生活ではないでしょうか。主の声を聞き分けるために、忙しい毎日の生活の中で、ゆっくりとした、静かな時間を過ごすようにしたいと思います。この世界に溢れている、さまざまな情報を遮断して、主の声に心を傾けたいと思います。 

今年の世界召命祈願の日の教皇メッセージで、アウグスティヌスの言葉が引用されています。

アウグスティヌスは、主が「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にまします」と告白し、さらに、「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」と説いています。 

私たちの中の最も深いところに主が生きていて、私たちに語りかけておられます。 

ですから、主の声に心の耳を傾けたいと思います。そして、この世界で、主に「ついて行」きたいと思います。 


今、この世界では、声による傷つけ合いが起こっています。深く傷ついて、声を出せない人もいます。 

主の声を聞き分けている私たちは、まわりの人の声も聞き分けたいと思います。私たちの召命は、主イエスの声を聞き分け、同じ心で、まわりの人の声を聞き分けることではでないでしょうか。特に、声にならない声を聞き取ることではないでしょうか。 

まわりの人の声を聞き分け、まわりの人と、主から受けたいのちを分かち合うことで、 召命の恵みを生きていきましょう。 

耳を傾け合うことで、復活のいのちを分かち合うことで、ケアし合うという召命を生きていきましょう。


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