[6月15日/三位一体の主日]
[お説教]
今日は、愛の祭日です。「三位一体」とは、愛そのものだからです。 愛こそ、神のいのち、私たちのいのちだからです。私たちは今日、三位一体という愛 に賛美と感謝をささげるために、こうして集まっています。愛といういのちを分かち合う ために、共同体として、集まっています。
今日の福音で、主イエスは言っておられます。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」 父である神が持っておられるものとは、何でしょうか。神は、たくさんのものを持ってお られるのでしょうか。 御父が持っておられるものは、愛だけです。愛が、持ちもののすべてです。 私たちは、つくられたものすべてが、神のものであることを信じています。それは、 神がすべてのものを思い通りにされるということではありません。 神は、つくられたものすべてを愛しておられるということなのです。 神は、愛することしかおできになりません。
御子イエスも、同じ愛を持っておられます。御子の愛は、御父の愛と、まったく同じな のです。御父と御子は、一体なのです。一体となって、愛し続けられるのです。 御子も、愛することしかおできになりません。だから、十字架につけられても、愛し続 けられたのです。この愛が変わることなく、今も続いているからこそ、今も、十字架に つけられているのです。苦しんでいるいのちがある限り、一人でも苦しんでいる限り、 十字架の上で、ともに苦しみ続けられるのです。教会に置かれている十字架は、 御父と御子が一体となって、私たちを愛しておられることを告げ知らせているのです。
そして、聖霊は、私たちのうちに、私たち一人一人のうちに、こうして集まっている共同 体のうちに生きておられます。聖霊は、御父と御子の「ものを受けて」おられます。 「神の愛」そのものを受けて、私たちに、神の愛を告げられます。御父と御子が一体と なって、私たちを愛しておられることを悟らせてくださいます。愛が最も大切であること を思い起こさせてくださいます。そして、私たちが、愛することができるように導いてく ださいます。三位一体の神が愛するように愛したいと願うように、私たちを駆り立てて くださいます。
もちろん、私たちの愛は、三位一体の愛と同じ愛ではありません。私たちの愛は、 不完全です。私たちの不完全な愛ゆえに、この世界は、苦難に満ちたものとなってい ます。 皆が、本当に愛し合えたら、戦争も、あらゆる暴力も、貧困や環境破壊もなくなるの に。そう思いながら、苦しい毎日を過ごしています。いのちが傷つく出来事を知り、 悲しみを感じています。無力な愛に、怒りさえ感じています。愛することなど無理だと、 あきらめてしまうことがあります。愛することで傷つくことを恐れて、愛から逃げてしま うことがあります。
しかし、私たちは、愛することなしに、人間として生きていくことはできません。不完全 な愛は、たとえ不完全でも、間違いなく愛です。むしろ、不完全だからこそ、愛であると 言えます。自分の愛は不完全だと認めるからこそ、愛であり続けるとさえ言えます。 自分の愛が完全だと思う時、必ずと言って良いほど、相手の愛が不完全に思えてき ます。自分の愛を完全なものにしようとして、愛の範囲を狭くしてしまうことがありま す。自分の気に入った人だけを大切にして、他の人のことには無関心になってしまう ことがあります。 だから、愛は不完全で良いのではないでしょうか。自分の愛は不完全だと認め、愛を 深め、広げていきたいと望む。これこそ、三位一体の神からいただいている愛、開か れた愛ではないでしょうか。愛を閉ざすことで、苦難から逃れるのではなく、苦しくて も、開かれた、不完全な愛を生きていく。これこそ、愛ではないでしょうか。
父と子と聖霊は、完全な愛で、愛し合っておられます。 しかし、三位一体の愛は、完結した、閉ざされた愛ではありません。すべての人に、 すべてのいのちに向けられている、開かれた愛です。 すべてのいのちが、この愛に応えて、真に喜ぶ時、神の愛は完成します。 私たちの愛も、三位一体の愛に包まれ、満たされて、完成します。これこそ、私たちの 希望です。そして、この「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 三位一体という愛を信じて、開かれた愛の道を、ともに歩んでいきましょう。 希望の巡礼者として、歩んでいきましょう。