[お説教]
今日の福音のたとえ話の中で、アブラハムは言っています。
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」
どうして、この「大きな淵」はできてしまったのでしょうか。
この淵は、神が造られたものではありません。
「ある金持ち」が、自分で作りあげたものなのです。
福音で述べられている通り、「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわ」っていました。金持ちは、ラザロのことを、よく知っていました。
実際、名前も知っており、遠くから見ても、ラザロだとわかりました。
全身できものに覆われているラザロと、「紫の衣や柔らかい麻布を着」た金持ち。
「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」ラザロと、贅沢三昧の毎日を過ごす金持ち。
この大きな差が、大きな淵となったのです。
金持ちは、ラザロを知っていたのに、彼の苦しみを知ろうとしませんでした。
この無関心な態度が、淵を深くしたのです。
金持ちは、立ち上がり、ラザロのもとに行くことができました。
ほんの数歩の距離でした。目と鼻の先でした。
しかし、金持ちは、立ち上がらす、歩み始めませんでした。
金持ちの心は、ラザロから遠く離れていました。すぐ近くにいたラザロは、金持ちにとって、最も遠くにいる存在だったのです。金持ちの心の中に、ラザロは存在していなかったのです。金持ちの心の中にあったラザロとの距離が、淵を広げてしまったのです。
金持ちは、ラザロを助けようと思えば、立ち上がって、すぐに助けに行くことができました。
しかし、助けようとしませんでした。その結果今、ラザロとアブラハムが、金持ちを助けようとしても、助けることができないのです。
このたとえ話は、私たちに対する警告ではありません。真の幸いへの招きです。
この世界で、私たちは、貧困やさまざまな暴力に苦しんでいる姉妹兄弟たちのことを無視して、幸せになることはできません。多くの人が苦しんでいることを知っていながら、ぜいたくな暮らしを続けることは、本当に不幸なことです。
他人の苦しみを感じることができないことは、最大の不幸です。
キリストによって集められている私たちは、幸いです。私たちは、すべてのいのちが 幸せになることを、心から願っているからです。すべての人とともに、幸せになるために努力しているからです。どうにかしたいと、日々悩んでいるからです。
私たちは、希望の巡礼者です。希望の巡礼者は、貧困やさまざまな暴力によって苦しんでいる人たちとともに歩む巡礼者です。遠くで苦しんでいる人びとのことを、身近なこと、自分の生活の中のこととして受け止めて、毎日を生きている者です。
世界はよくならないと、すぐにあきらめるのではなく、必ず、すべてのいのちが幸せになる日が来るという希望を持って歩む者です。
私たちは、たとえ人を不幸にする淵ができていても、そこを渡る橋を築くことができます。
希望の巡礼とは、愛の橋を築いていく旅なのです。
この地上を歩んでいる時、淵を渡る橋を築きましょう。この地上で生きている間に、あらゆる淵をなくしましょう。
死んでからでは、もう遅いのです。
今私たちが与えられている、心と体で、大きな淵のない世界を実現させていきましょう。
希望とは、ただ願うことではなく、願いを実現していくことなのです。
必ず実現すると信じて、努力を続けていくことなのです。
そして、日本の教会は今日、「世界難民移住移動者の日」を過ごしています。
今年の教皇メッセージのテーマは、「移住者―希望の宣教者」です。
このメッセージの中に、次のような言葉があります。
「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、『定住』の誘惑に屈し、『旅する国』―天の祖国を目指して旅する神の民―であることをやめるとき、『世にある』者であることをやめ、『世に属する』者となるのです。」
私たちは、この世界に生きていますが、この世界が、私たちの安住の地ではありません。
多くの人が幸せになっていない、この世界に留まってはならないのです。
私たちは今日、すべてのいのちが幸せに生きられる神の国を目指して歩むよう励まされているのです。
移住者と難民は、神の国を目指して、今まさに旅を続けているのです。神の国という希望を宣べ伝えているのです。この福音宣教の歩みを、ともに続けて行きましょう。