年間の最後の主日である今日、私たちは、「王であるキリスト」に出会います。
そして、キリストが王として治める国、神の国で生きている喜びを分かち合います。
王であるキリストは今日、十字架につけられています。何も身につけていません。
すべてを奪われています。私たちの王は、無力です。自分の命さえ守ることができません。肉体的、心理的、精神的、霊的暴力を受けても、報復することはできません。
そして、孤独です。王であるキリストは今、ただ十字架にとどまっているのです。
この王に対して、
「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、
「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といった言葉が浴びせられます。
確かに、この世界の王ならば、多くの場合、自分を第一に考えて、自分の富や権力を守ります。自分を守るために、自分の支配下にある人々を犠牲にします。
国の安全のため、秩序の維持のため、経済的利益を守るためにという理由で、多くの人の平穏な生活を犠牲にします。
王であるキリストのまわりにいた者たちは、キリストに、この世界の王として振る舞うように求めているのです。
それでは、主キリストが本当に、この世界の王として振る舞われたら、私たちはどうなるでしょうか。
私たちは皆、滅びることになります。滅びないとしたら、私たちは、だれかを十字架につけ続けるでしょう。だれかを十字架につけることで、自分は正しいと思い続けることになるでしょう。永遠に回心できないことこそ、滅びなのかもしれません。
王であるキリストは、何も持っておられません。私たちに、すべてを与え尽くされたからです。十字架上のキリストは、いのちを傷つける力を持っておられません。
私たち皆に生きる力を与えておられるのです。そして、十字架にとどまっておられます。私たち皆を愛しておられるからです。イエスが十字架にとどまることは、神が私たちを愛しておられるということなのです。
今日の福音で、ただひとり、王であるキリストに出会った人がいます。イエスとともに十字架にかけられている犯罪人一人です。この人は、はっきりと言います。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と。
王であるキリストに出会った人は、自分が罪人であることに気づきます。罪人である自分が、何も悪いことをしていない人を十字架につけていることに気づきます。
そして、だれかを十字架につけることをやめて、自分も十字架の上にとどまります。
回心して、主とともに、十字架という愛にとどまります。
王であるキリストに出会った人にとって、十字架は希望となります。主イエスとともに十字架にとどまることで、救いの希望に満たされます。
犯罪人の一人の言葉、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉は、聖書の中で、最も力強い、希望の表明なのです。
「思い出してください」という言葉は、ただ単に、「覚えていてください」という意味ではありません。「あなたの御国で、今のように、近くにいさせてください」という意味です。
今日、希望の巡礼者として集まっている私たちは、犯罪人の、この希望の言葉を、
皆で分かち合いたいと思います。この希望の言葉を歌いながら、巡礼を続けていきたいと思います。
希望の巡礼者は、罪人です。罪人だからこそ、神の国という希望を持ちます。自分が正しいと思う者は、この世界にしがみつきます。自分が罪人だと認める人は、愛がすべてとなる御国を目指します。
この希望は、私たちを欺きません。
王であるキリストは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っておられるのです。
十字架にとどまることは、苦しいことであり、すぐに逃げ出したくなることです。しかし、十字架にとどまることは、イエスとともに、愛にとどまることです。この世界で苦しんでいる人びとと、ともに生きることです。
私たちは、死ぬために十字架にとどまるのではありません。愛するために十字架にとどまるのです。王であるキリストは、愛をもって、すべてのいのちに仕える王です。
私たちも、この愛につながって、ともに歩んでいきましょう。
そして、今日は、「世界青年の日」です。
教皇レオ十四世は、この日のメッセージの中で、若い人たちに、キリストの友となって、キリストの愛を証しするように励ましています。
私たちは、世界中の若い人たちのために、心を込めて祈りたいと思います。若い人たちとともに、希望の巡礼を歩み続けたいと思います。
ともに、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈りながら。
11月23日 / 王であるキリスト
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11月23日 / 王であるキリスト
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