2025/10/5 年間第27主日 ことばの祭儀、お説教

 

[10月5日/年間27主日]


 [ことばの祭儀]
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[お説教]
10月は、ロザリオの月です。聖母マリアは今、すべてのいのちのために祈っています。私たちも、ロザリオの祈りをささげることによって、聖母とともに祈ります。そして、教皇レオ十四世は今月、平和のために、毎日ロザリオの祈りをささげるよう呼びかけています。この呼びかけに応えて、ともに、心を込めて、平和のために、ロザリオの祈りをささげたいと思います。

今日の福音で、弟子たちは、主イエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください。」この願いに対して、主は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と応えられます。この言葉の意味は、私たちに信仰がないという意味ではありません。私たちには、豊かな信仰の恵みが与えられているという意味です。からし種一粒ほどの信仰は、大きな可能性を持った信仰なのです。可能性ですから、何も起こらないこともあります。しかし、からし種が大きな木になっていくように、私たちの信仰も増していくのです。

神は、私たちに一人一人に、完成した信仰を与えておられません。小さな種のような信仰を与えておられるのです。この種も、水を必要とします。水は、一度注げば十分だというものではありません。何度も、それも定期的に注ぎ続けなければ、種は育ちません。信仰という種にとっての水とは、何でしょうか。信仰の種にとっての水、それは、祈りです。水を注ぎ続けるように、祈り続けるのです。そうすれば、種は、大きな木となっていくのです。信仰という種は、なかなか育たない種です。祈っても、祈っても、小さな種のままではないかと思うことがよくあります。しかし、私たちが祈っている限り、信仰という種は生きています。生きているだけでなく、確実に成長しています。

私たちが今月ささげているロザリオの祈りも、私たちの信仰を生かし続ける水です。ロザリオの祈りによって、私たちは、主イエスによって救われていることを黙想します。黙想することで、救われていることの喜びを味わいます。救われている喜びのうちに、すべてのいのちの救いを願い求めます。今月、教皇とともに願い求める「平和」こそ、すべてのいのちが救われていることです。正確に言えば、すでに救われている、すべてのいのちが、救われている喜びを得ることができることが平和なのです。ですから、平和を祈るとは、私たちの世界が、この喜びを奪う罪から解放されることを願い求めることなのです。救われているかどうかではなく、救われていることを、皆が感じているかどうかなのです。私たちは、救われているから、祈るのです。祈るから、救われるのではないのです。

今日の福音で、主イエスは、私たちが、「取るに足らない僕」であると言われます。私たちは、自分のためだけでなく、世界の平和のために祈り続けるよう命じられている僕です。私たちにとっての「畑」とは、この世界であり、この地球です。私たちにとっての「羊」とは、すべてのいのち、すべての人です。私たちが祈り続ける時、この世界は、いのちを育むところへと耕されていきます。私たちの祈りが広がっていく時、すべてのいのちが生きるようになります。祈りたい時、安心して祈ることができることこそが、本当の平和、本当に生きることなのです。祈りたい人から、祈る自由、祈る喜びを奪うことこそが、最大の暴力、最も深い罪なのです。私たちは、平和が実現していない世界で、平和の実現のために祈るよう命じられている、神の僕なのです。まわりに祈っている人がいないならば、自分から祈り始めるよう励まされている僕なのです。どのような状況に置かれても、祈ることができるということを証ししている僕なのです。祈りという希望を、祈る喜びを、この世界の中で、宣べ伝えている、希望の巡礼者なのです。

私たち一人一人の祈りは、「取るに足らない」祈りかもしれません。私たち自身も、しばしば、この世界の平和を妨げることに加担している罪人となっています。だから、聖母のとりなしを願い求めるのです。「わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください」と、謙虚な心で祈るのです。そして、私たちの願いをかなえてくださるのは、三位一体の神です。祈りという「しなければならないことをしただけです」という思いを込めて、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」という賛美をささげるのです。

私たちは、信仰という種を与えられています。そして、希望の巡礼者として、私たちも、この世界の中で、「平和と希望の種」となっていくように招かれています。最後に、今年の、「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージからの言葉を分かち合いたいと思います。

「イエスは、説いて教える際、しばしば種のたとえを用いて神のみ国について語られました。受難が近づくと、イエスは種をご自身に当てはめ、ご自分を、実を結ぶためには死ななければならない一粒の麦にたとえられました。種は自らを大地に引き渡すと、その場所には、自己贈与の驚異の力によって、いのちが芽吹き、まったく思いもよらない場所にさえ、新たな始まりを告げる途方もない力をたたえて芽生えるのです。たとえば、道端で伸びる花々を思い浮かべてみてください。だれが植えたわけでもないのに、たまたまその場所に落ちた種がそこで成長し、灰色のアスファルトを明るく彩り、その硬い表面をも突き破り咲いているのです。キリストにおいて、わたしたちも種なのです。」


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