3月22日/四旬節第5主日

[説教]

私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。 

洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。 

一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。 


今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。 

この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。 

ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。 

ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。 


この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。

この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。 

そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。

私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。 


主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。 

「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 

このみことばは、マルタの願いに応えたものです。 


マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。 

死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。 

洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。 

復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。 

復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。 


今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。 

洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。 


洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。

私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。

キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。


3月15日/四旬節第4主日

[説教] 

四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、新たにする時です。 

洗礼は、一度しか受けられませんが、絶えることなく続く恵みです。 

洗礼を受けた者は、どのような生き方をしていても、神に愛されている、神の子であり続けます。神や隣人を愛することができなくなっても、再び愛せるようになります。洗礼の時注がれた愛の霊は、私たちの中で、何があっても、ともに生きておられる聖霊なのです。 


今日の福音は、「生まれつき目の見えない人」が、主イエスにいやされ、「目が

見えるようになった」ことを伝えています。 

見えない目が見えるようになることは、大きな恵みです。しかし、見えるようになったこと以上に大切なことは、何が見えるようになったかということであり、見えるようになって、生き方がどう変わったかということです。 


目が見えるようになった人は、主イエスについて、「あの方は預言者です」と宣言します。 

預言者は、神の言葉を伝えることで、人々に神の愛をもたらす者です。 

ですから、この人は、神が自分を愛しておられるから、自分の目を見えるようにしてくださったと言っているのです。この人は、「神は私を愛しておられる」と宣言しているのです。この人は、神の愛が見えるようになったのです。 


今日の第一朗読で、主である神は、はっきりと宣言されます。 

「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

生まれつき目の見えない人は、神が見るように見る目を与えられたのです。 

神のみこころ、神の愛が見えるようになったのです。そして、主イエスの前にひざまずいて、「主よ、信じます」と、迷わず、信仰宣言することができたのです。 

洗礼を受け、神の子とされる者も、水で洗われ、神の愛を見ることができ、信じることができる目を与えられるのです。 

時々、愛を見えなくする、「土」が目に塗られて、見えなくなりますが、その時は、祈りという水、回心という水で、何度でも洗い流せば良いのです。四旬節という恵みの時は、土を塗られた目を洗い流す時なのです。 

 

今日の福音は、主イエスが、「土をこねてその人の目にお塗りになった」と伝えています。このようにすることで、主は、私たちの目が、しばしば、神の愛を見ることができなくなっていることを示しておられるのです。そして、目を洗うよう招いておられるのです。洗礼の恵みを受けた者は、神の愛が見えるように、心の目を洗い続けるのです。 


それに対して、ファリサイ派の人々は、主イエスの愛を見ることができません。

「安息日を守らない」という、表面的なことだけを見ようとします。 

「目が見えるようになった」という、目の前で起こっていることが見えず、「全く罪の中に生まれた」という思い込みに遮られて、目が見えなくなっているのです。神の愛を信じることができない、ファリサイ派の人々こそ、目が見えなくなっているのです。 


私たちは、愛が見えるようになったことで、満足していて良いでしょうか。 

今日の第二朗読で、使徒パウロは、洗礼を受けた私たちに、はっきりと言っています。 

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

私たちは、光となるよう励まされているのです。私たちは、神と隣人を愛する時、愛されていることに喜び、感謝する時、この世界の中で、光となっています。

今の世界は、さまざまな情報にあふれています。そして、情報に振り回されて、私たちの間に、傷つけ合いが起こっています。情報を得れば得るほど、闇が深くなり、どこに光があるかわからなくなっています。情報のやり取りではなく、愛があるところに光があります。大量のデータではなく、心の込もった、短い祈りこそが、私たちを生かす光です。止めどない悪口が語られるところではなく、理解しようとして、優しいまなざしが向けられているところに、愛の光があります。 


洗礼を受けた私たちは、愛の光を見る目を与えられています。洗礼の恵みに生きている私たちは、愛を信じ、愛し合うことで、光となることができます。 

もちろん、私たちの見る力は、完全ではなく、完全から遠い状態です。目を洗い続けなければなりません。深い闇を感じて、動くことができなくなることがあります。しかし、洗礼を受けた私たちは、どのような時も、神の子として愛されています。愛という光を注がれています。そして、使徒パウロが言っているように、どのような時も、「光の子として歩みなさい」と励まされています。

ですから、光の子として、ともに歩んでいきましょう。 

愛を信じて、ともに歩んでいきましょう。 


3月8日/四旬節第3主日

[説教] 

私たちは今、主キリストに従って、四旬節という荒れ野を、この世界という荒れ野を、さまざまな苦難に満ちた荒れ野を、ともに歩んでいます。神のことばに耳を傾け、神のことばによって、日々新たにされながら歩んでいます。新たなにされながら、洗礼志願者とともに、洗礼の恵みを味わいます。

  

四旬節の歩みは、愛によって支えられます。  

私たちは、神に愛されているから、この歩み始めることができました。そして、神と隣人を愛するから、四旬節を歩み続けることができます。  

日々のさまざまな苦難によって、愛は妨げられません。むしろ、苦難が多いほど、大きいほど、愛は深められ、大きくなります。たとえ、祈ることがなかなかできず、愛のわざを充分にできなくても、祈りたい、愛のわざを行いたいと望み続けたいと思います。 この望みを、何があっても、捨てず、持ち続けることこそが、愛を大きくしていくことなのです。神や隣人を愛せないからこそ、愛したいと、心から願うことこそが、愛を深めていくことなのです。私たちは、愛を望んでいる限り、愛を失っていないのです。 四旬節は、自分の愛を誇る時ではありません。愛されていることに感謝し、その愛に 応える時なのです。  


使徒パウロは今日、四旬節の歩みを続けている私たちに向けて、はっきりと宣言しています。 

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているのです。」  

愛である神は、愛を私たちの心に注ぎ続けておられる。だから、私たちは愛を信じることができる。私たちも、愛することができる。愛し合うことで、皆が、ともに、幸せになることができる。

今は愛せなくても、いつか愛せるようになる。死んでしまったように思える愛も、いつか必ず、復活する。愛こそ、私たちの希望であり、私たちの復活である。  

パウロは、そう述べているのではないでしょうか。そして、私たちに与えられる洗礼の恵みとは、この、希望であり、復活である愛であると言えます。  


今日の福音は、主イエスとサマリアの女性の出会いの物語、愛の物語です。  

福音記者ヨハネは、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」と伝えています。疲れているイエスは、「水を飲ませる」という愛を求めておられました。  

そして、「水をくみに来た」、サマリアの女性に、この愛を求めました。  


女性は、自分が、この愛の求めに応えることができないと思い込んでいました。  

しかし、イエスは、女性に言われます。 

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  

女性は、主が与えられる水を求め、与えられます。 女性に与えられた、「永遠の命に至る水」とは、愛の霊です。女性の内でわき出る、 尽きることのない水、まわりの人と分かち合えば分かち合うほど、ますます豊かになっていく愛です。サマリアの女性は、この愛の泉を与えられます。愛され、愛し続けることができるいのち、永遠の命が与えられます。 

どこにいても、愛せるようになります。 いつでも愛せると信じるようになります。  

この愛の泉、永遠の愛に至る水こそ、私たちに与えられる洗礼の恵みなのです。 


さらに、主イエスは、愛の泉を与えられる者たちによって、「まことの礼拝」がささげられる時が、今来ていると宣言されます。洗礼を受ける者は、まことの礼拝をささげることができるのです。

「霊と真理をもって」ささげられる礼拝です。 

イエス・キリストが与え続けておられる真の愛をもってささげられる礼拝です。 

それは、洗礼に続く、感謝の祭儀です。  

この礼拝について、ベネディクト十六世教皇は回勅『神は愛』で次のように述べています。  

「普通、礼拝と生き方とは別々のものと考えられていますが、この場合は、この二つは少しも別々ではありません。聖体拝領において、『礼拝』そのものが、神に愛されることと、他者を愛することの両方を含みます。感謝の祭儀は、具体的な愛の実践をもたらすことがなければ、本質的に不完全なものとなります。」  


洗礼の水によって、私たちは、愛を妨げるものから解放され、愛の泉である聖霊を注がれます。

洗礼に続く、入信の秘跡である聖体は、私たちを、日々の愛のわざへと駆り立てます。愛を生きたいという望みを強め、新たにします。  

四旬節の残された時間、この愛の恵みを、ともに体験していきましょう。 


3月1日/四旬節第2主日

[説教] 

今年の四旬節教皇メッセージのテーマは、「耳を傾け、断食する―回心の季節としての 四旬節」です。 

このメッセージの中で、次のように述べられています。「あらゆる回心の歩みは、みことばに触れていただき、従順な心でみことばを受け入れることによって始まります。」 

私たちは、この四旬節に、神のことばに耳を傾けることで、回心の恵みをいただきたいと思います。回心とは、罰や裁きを恐れて、何かをしないことではありません。 

神のことばによって、毎日の生活を新たにしていただくことです。 

愛のみことばに触れて、愛を新たに、深めていただくことです。 


今日の福音は、受難と復活の地であるエルサレムへの旅を始められた、主イエスの姿が変わった出来事を伝えています。 

この変容の時、「モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた」のです。 

モーセとエリアも、神のことばに耳を傾け、それを人々に告げ知らせた人たちです。 

ですから、三人の語り合いは、神のことばの分かち合いだったと言えます。ペトロは、三人が分かち合っている出来事を、ビデオに録画するかのように、保存しようとします。

保存された分かち合いを見ることで、満足しようとします。確かに「すばらしい」分かち合いだったことでしょう。しかし、分かち合いは、見て満足することではありません。 

すばらしい分かち合いの様子を見た私たちは、同じ分かち合いに加わるよう招かれているのです。 


神のことばの分かち合いは、耳を傾けることから始まります。 

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」 

この天からの声は、耳を傾けることへの招きのことばです。主イエスに、耳を傾けることから、私たちの分かち合いは始まるのです。私たちが耳を傾ける方は、「イエスのほかにだれもいな」いのです。「イエスは近づき」、私たちの心に「触れて言われ」ます。 

「起きなさい。恐れることはない」と、私たちを励まされるのです。 


神のことばは、私たちを恐れさせることばではありません。神のことばの分かち合いは、私たちを起き上がらせます。神のことばに耳を傾け、神のことばを分かち合った私たちは、起き上がります。神のことばに支えられて歩むためです。神のことばに生かされて、毎日を生きるためです。 

神のことばの分かち合いは、耳を傾け、語り合うことで終わりません。神のことばに従って、生きるようになります。一人で生きるのではありません。 

神のことばを分かち合った人たちは、みことばに導かれて、ともに歩みます。 

 

私たちは、「仮小屋」に留まってはならないのです。「高い山」に留まらず、「山を下りる」よう励まされでいるのです。主とともに、山を下りて、この世界の中で生きるように励まされているのです。 

回心とは、高い山で神のことばに耳を傾け、新たにされ、山を下りて、神のことばに導かれて、この世界で生きていくことなのです。神のことばが示す御国の完成を目指して、 一人ではなく、ともに生きていくことなのです。 


そして、神のことばは、高い山でしか聞けないということではありません。 

私たちは、山を下りた、この世界でも、神のことばを聞くことができます。この世界の中でこそ、神のことばに耳を傾けようとする時、私たちの回心は、さらに深まるのです。 

主イエスは、さまざま出来事を通して、そこで出会うさまざま人を通して、語りかけておられます。この世界の中で実現している神のことばこそ、私たちが、謙虚に耳を傾けなければならない、みことばなのです。 

特に、主は貧しい人たちとともにおられます。キリストは、貧しい人の一人となっておられます。貧しい人たちこそ、私たちの回心を深める、神のことばです。貧しい人たちの姿に、栄光に輝く主の姿を見い出す時、私たちは回心していることになります。貧しい人に出会い、「これに聞け」という天の声に、謙虚に耳を傾けることが、真の回心と言えるのです。 

貧しい人とは、まず、この世界で、貧困や不正、さまざま暴力によって、安心して生きていくことができない人のことです。こうした貧しい人たちにひれ伏して、その声に耳を傾けることこそ、回心なのです。そして、私たちは人間である限り、だれもが、神の前で、貧しい者であると言えます。まわりの人がいなければ生きていけないことを認める時、 貧しい者となります。私たちは皆、弱さや限界を持った、貧しい者です。この貧しさを、素直に認めて、互いに耳を傾け合う時、私たちは、神の国の福音を、本当の意味で分かち合うこととなり、ともに回心の道を歩むこととなります。 


四旬節という恵みの時、私たちは、神のことばに耳を傾け、神に変えていただきましょう。

自分が貧しい者であることを認めて、光り輝く姿に変えていただきましょう。 

貧しい主とともに、すべてのいのちが輝く御国を目指して、日々、回心の道を歩んでいきましょう。 

神のことばを聞こえなくするものを、勇気を持って断ち、神のことばに、しっかりと耳を傾けて、四旬節を歩み続けていきましょう。 


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4月12日/復活節第2主日・神のいつくしみの主日

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