2025/10/12 年間第28主日 お説教

 

[10月12日/年間28主日]


[お説教]
今月は、「世界宣教月間」です。そして、来週19日は、「世界宣教の日」です。 
希望の巡礼者である私たちは、この世界の中で、「希望の宣教者」として歩むように召されています。今年の教皇メッセージで、教皇フランシスコが述べているように、私たち「教会は、暗い影が垂れ込める世界に、再び希望を取り戻すために遣わされているのです」。 

今日の福音は、「エルサレムへ上る途中」のイエスが、「重い皮膚病を患っている十人の人」に出会う物語です。この人たちは、「遠くの方に立ち止まったまま」でした。他の人と交わることができず、生きることを奪われていました。 
人間にとって、生きるとは、交わるということなのです。主が言われるように、十人全員が清くされましたが、主のもとに「戻って来」たのは、一人だけでした。この一人の「サ
マリア人」だけが、いやされたのです。 
「いやされる」とは、どういうことでしょうか。いやされるとは、「交わり」が回復するということです。他の人とともに生きることができるということです。主に近づき、賛美と感謝ができるということです。 

福音記者ルカは、いやされた一人について、「自分がいやされたのを知って」と述べられています。この「知る」ということは、とても大切なことなのです。私たちは、いやされていることを知って、はじめていやされるのです。いやされているのに、いやされていることに気づかない人は、いやされていないのです。その意味で、他の九人は、いやされたのに、いやされたことを知らなかったのです。 

「いやされている」ということは、まわりの人、まわりのいのちとともに生きることができるということです。まわりのいのちとともに生きていると感じることができるというこ
とです。自分が困った時、まわりの人に、安心して助けを求めることができるということです。社会の中で、自分が必要とされている存在だと感じることができるということです。人と人とが顔を合わせて、笑顔で言葉をかわすことができるということです。 
今、インターネットやAIによって、すぐに答えが得られ、多くの人とつながるようになりました。しかし、私たちは、いやされているでしょうか。 

いやされたことを知ったサマリア人は、「イエスの足もとにひれ伏し」ました。ひれ伏すとは、主にすべてをささげて、主のために生きたいという願い、決心を表しています。 
主は、ひれ伏す、この人に、「立ち上がって、行きなさい。」と言われました。 

いやされるとは、ただ生きるようになるということではありません。復活して、立ち止まらず、生きていくということです。主に仕えるようになるということです。主とともに、
福音宣教の旅に出るということです。福音を宣べ伝えながら、日々出会う人に仕えるということです。こうして、今日の、私たちの集会祈願はかなえられるのです。 
私たちは、神のいやしにあらわれている愛を信じて、神に向かって心から願い求めています。
「あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。この愛に支えられるわたしたちが、いつも心から姉妹兄弟に仕えることができますように。」 

私たちキリスト者は、洗礼をはじめとするさまざまな秘跡、ミサやことばの祭儀といった共同体の祭儀によって、いやされ続けています。今日、使徒パウロが宣言しているよう
に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」
このいのちの神秘こそが、私たちのいやしてあり、希望です。 

私たちは、この希望の福音を分かち合うために、これから、この世界の中に派遣されます。
「行きましょう。主の平和のうちに」と励まし合い、希望の宣教の、新たな旅を始めます。
「神に感謝」と一緒に応えることは、いやされたサマリア人のように、希望の福音を宣べ伝えることができる喜びを、皆で分かち合うことです。 
この派遣の祈りは、とても大切です。「神に感謝」と応えずに帰ってしまうことは、いやされたことを知らなかった九人と同じことをすることになります。派遣の祝福を受けて、
はじめて祭儀に参加したことになります。 
最後まで参加できない場合は、心の中で、「これから福音を宣べ伝える、新たな歩みを始めます。私を豊かに祝福してください。神に感謝」という趣旨の祈りをして、その場を退出するようにしましょう。 
聖体拝領をしたら帰って良いという考えは、共同体の祭儀を理解していない間違った考えです。いやされたサマリア人のように、「立ち上がって、行きなさい」という、愛に満ちた言葉を受けて、希望の宣教者として出向いて行きましょう。 
日々出会う人と分かち合うための恵みをいただいたことに感謝して、「神に感謝」と応えて、希望の巡礼を続けていきましょう。

2025/10/5 年間第27主日 ことばの祭儀、お説教

 

[10月5日/年間27主日]


 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。













[お説教]
10月は、ロザリオの月です。聖母マリアは今、すべてのいのちのために祈っています。私たちも、ロザリオの祈りをささげることによって、聖母とともに祈ります。そして、教皇レオ十四世は今月、平和のために、毎日ロザリオの祈りをささげるよう呼びかけています。この呼びかけに応えて、ともに、心を込めて、平和のために、ロザリオの祈りをささげたいと思います。

今日の福音で、弟子たちは、主イエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください。」この願いに対して、主は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と応えられます。この言葉の意味は、私たちに信仰がないという意味ではありません。私たちには、豊かな信仰の恵みが与えられているという意味です。からし種一粒ほどの信仰は、大きな可能性を持った信仰なのです。可能性ですから、何も起こらないこともあります。しかし、からし種が大きな木になっていくように、私たちの信仰も増していくのです。

神は、私たちに一人一人に、完成した信仰を与えておられません。小さな種のような信仰を与えておられるのです。この種も、水を必要とします。水は、一度注げば十分だというものではありません。何度も、それも定期的に注ぎ続けなければ、種は育ちません。信仰という種にとっての水とは、何でしょうか。信仰の種にとっての水、それは、祈りです。水を注ぎ続けるように、祈り続けるのです。そうすれば、種は、大きな木となっていくのです。信仰という種は、なかなか育たない種です。祈っても、祈っても、小さな種のままではないかと思うことがよくあります。しかし、私たちが祈っている限り、信仰という種は生きています。生きているだけでなく、確実に成長しています。

私たちが今月ささげているロザリオの祈りも、私たちの信仰を生かし続ける水です。ロザリオの祈りによって、私たちは、主イエスによって救われていることを黙想します。黙想することで、救われていることの喜びを味わいます。救われている喜びのうちに、すべてのいのちの救いを願い求めます。今月、教皇とともに願い求める「平和」こそ、すべてのいのちが救われていることです。正確に言えば、すでに救われている、すべてのいのちが、救われている喜びを得ることができることが平和なのです。ですから、平和を祈るとは、私たちの世界が、この喜びを奪う罪から解放されることを願い求めることなのです。救われているかどうかではなく、救われていることを、皆が感じているかどうかなのです。私たちは、救われているから、祈るのです。祈るから、救われるのではないのです。

今日の福音で、主イエスは、私たちが、「取るに足らない僕」であると言われます。私たちは、自分のためだけでなく、世界の平和のために祈り続けるよう命じられている僕です。私たちにとっての「畑」とは、この世界であり、この地球です。私たちにとっての「羊」とは、すべてのいのち、すべての人です。私たちが祈り続ける時、この世界は、いのちを育むところへと耕されていきます。私たちの祈りが広がっていく時、すべてのいのちが生きるようになります。祈りたい時、安心して祈ることができることこそが、本当の平和、本当に生きることなのです。祈りたい人から、祈る自由、祈る喜びを奪うことこそが、最大の暴力、最も深い罪なのです。私たちは、平和が実現していない世界で、平和の実現のために祈るよう命じられている、神の僕なのです。まわりに祈っている人がいないならば、自分から祈り始めるよう励まされている僕なのです。どのような状況に置かれても、祈ることができるということを証ししている僕なのです。祈りという希望を、祈る喜びを、この世界の中で、宣べ伝えている、希望の巡礼者なのです。

私たち一人一人の祈りは、「取るに足らない」祈りかもしれません。私たち自身も、しばしば、この世界の平和を妨げることに加担している罪人となっています。だから、聖母のとりなしを願い求めるのです。「わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください」と、謙虚な心で祈るのです。そして、私たちの願いをかなえてくださるのは、三位一体の神です。祈りという「しなければならないことをしただけです」という思いを込めて、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」という賛美をささげるのです。

私たちは、信仰という種を与えられています。そして、希望の巡礼者として、私たちも、この世界の中で、「平和と希望の種」となっていくように招かれています。最後に、今年の、「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージからの言葉を分かち合いたいと思います。

「イエスは、説いて教える際、しばしば種のたとえを用いて神のみ国について語られました。受難が近づくと、イエスは種をご自身に当てはめ、ご自分を、実を結ぶためには死ななければならない一粒の麦にたとえられました。種は自らを大地に引き渡すと、その場所には、自己贈与の驚異の力によって、いのちが芽吹き、まったく思いもよらない場所にさえ、新たな始まりを告げる途方もない力をたたえて芽生えるのです。たとえば、道端で伸びる花々を思い浮かべてみてください。だれが植えたわけでもないのに、たまたまその場所に落ちた種がそこで成長し、灰色のアスファルトを明るく彩り、その硬い表面をも突き破り咲いているのです。キリストにおいて、わたしたちも種なのです。」


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