[10月26日/年間30主日]
[お説教]
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
主イエスは今日、この祈りこそが正しい祈りであると宣言しておられます。
私たちは皆、罪人です。
私たちはよく、「私のような罪人など、神の前で祈る資格などない」と思うことがあります。主イエスは今日、そんな思いを抱く必要はないと言っておられるのです。
私たちは、罪人だからこそ、神に呼ばれているのです。罪人だからこそ、神に近づき、熱心に祈るのです。だから、私たちは、ミサやことばの祭儀の時、まず、「父の子と聖霊のみ名によって」と宣言し、神に近づきます。近づくだけでなく、三位一体の神の愛の交わりの中に加わります。
神のみ名とは、神の愛、神の愛の交わりなのです。
愛の交わりは、すべての人に開かれた交わりなのです。
私たちは、愛の交わりに入ることを拒否できます。しかし、神は、愛の交わりに入って来る人を追い出すことはできないのです。
愛の交わりは、だれかが追い出された時に、愛の交わりでなくなるのです。愛の交わりには、鍵のかかる扉はないのです。扉そのものがないのです。
今日の福音のたとえ話に、「徴税人」が登場しています。
徴税人は、「罪人」と見なされていました。この徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」、この祈りをささげました。徴税人は、神に近づくことができませんでした。天に向かって祈ることができませんでした。しかし、はっきりと、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことができたのです。胸を打ちながら、つまり、心の底から言葉を絞り出すように、祈ることができたのです。
徴税人が祈ることができたのは、彼がすでに、神の愛の交わりの中に入っていたからです。神は、私たちが遠くにいれば、すぐ近くに来てくださいます。私たちが目を上げなければ、私たちより低いところに来てくださいます。「神様」と呼びかければ、私たちの、一番近くに来てくださいます。そこは、私たちの叫びが生じる心の中です。
祈りを聞いてくださる神が、私たち一人一人の心の中で、私たちとともに祈ってくださるのです。ですから、私たちは、「主よ、いつくしみをわたしたちに」と祈る時、神の愛の交わりの中で、祈っていることになるのです。
たとえ話のもう一人の登場人物である「ファリサイ派の人」は、祈っていません。
自分が罪人であることを認めず、ほかの人と違うことを強調しているからです。
まわりの人を罪人だと決めつけ、自分だけが正しいと思い込んでいるからです。
私たちは、まわりの人と同じ罪人だと、謙虚に認める時、祈ることができるのです。
さらに、このファリサイ派の人と徴税人の二人は、「祈るために神殿に上った」のです。
ファリサイ派の人は、徴税人とともに祈るべきでした。徴税人のために祈るべきでした。
しかし、このファリサイ派の人は徴税人を、祈りの場から排除したのです。徴税人を遠くに追いやり、目を上げさせなかったのは、ファリサイ派の人なのです。
自分が心地よく祈るために、ほかの人が祈ろうとするのを妨げること、それは罪です。
私たちも、同じ罪を犯していないでしょうか。祈りに、上手下手はありません。優劣もありません。
心からの祈りは、すべて、尊い、美しい祈りです。ですから、すべての祈りを大切にしたいと思います。すべての祈りに感謝しながら、ともに祈りたいと思います。祈り合いたいと思います。ともに祈る、罪人の共同体となって歩み続けたいと思います。
私たちは今、希望の巡礼の旅を続けています。
祈りがあるところに、希望があります。
自分が罪人であることを認めることは、希望の始まりです。
私たちは、自分が罪人であることを認める時、自分がわかるようになります。自分が立っている位置がわかるようになります。自分がこれから進むべき道が見えてきます。
希望の道です。日々新たになっていく道です。より良い未来へと通じる道です。
永遠のいのちへと続く道です。
自分が正しいと思い込む時、私たちの歩みは止まります。
今の自分がすべてとなります。希望とは、日々歩み続けることです。
神から憐れみを受けて、新たに生まれ変わることです。日々、生まれ変わることです。
私たちは、希望の巡礼者として、この希望の道を、ともに歩んでいるのです。
「神様、罪人のわたしたちを憐れんでください」と祈りながら、ともに歩んでいきましょう。
そして、本当の意味で、正しい者とされて、主が迎えてくださる「家に帰」りましょう。