[10月12日/年間28主日]
[お説教]
今月は、「世界宣教月間」です。そして、来週19日は、「世界宣教の日」です。
希望の巡礼者である私たちは、この世界の中で、「希望の宣教者」として歩むように召されています。今年の教皇メッセージで、教皇フランシスコが述べているように、私たち「教会は、暗い影が垂れ込める世界に、再び希望を取り戻すために遣わされているのです」。
今日の福音は、「エルサレムへ上る途中」のイエスが、「重い皮膚病を患っている十人の人」に出会う物語です。この人たちは、「遠くの方に立ち止まったまま」でした。他の人と交わることができず、生きることを奪われていました。
人間にとって、生きるとは、交わるということなのです。主が言われるように、十人全員が清くされましたが、主のもとに「戻って来」たのは、一人だけでした。この一人の「サ
マリア人」だけが、いやされたのです。
「いやされる」とは、どういうことでしょうか。いやされるとは、「交わり」が回復するということです。他の人とともに生きることができるということです。主に近づき、賛美と感謝ができるということです。
福音記者ルカは、いやされた一人について、「自分がいやされたのを知って」と述べられています。この「知る」ということは、とても大切なことなのです。私たちは、いやされていることを知って、はじめていやされるのです。いやされているのに、いやされていることに気づかない人は、いやされていないのです。その意味で、他の九人は、いやされたのに、いやされたことを知らなかったのです。
「いやされている」ということは、まわりの人、まわりのいのちとともに生きることができるということです。まわりのいのちとともに生きていると感じることができるというこ
とです。自分が困った時、まわりの人に、安心して助けを求めることができるということです。社会の中で、自分が必要とされている存在だと感じることができるということです。人と人とが顔を合わせて、笑顔で言葉をかわすことができるということです。
今、インターネットやAIによって、すぐに答えが得られ、多くの人とつながるようになりました。しかし、私たちは、いやされているでしょうか。
いやされたことを知ったサマリア人は、「イエスの足もとにひれ伏し」ました。ひれ伏すとは、主にすべてをささげて、主のために生きたいという願い、決心を表しています。
主は、ひれ伏す、この人に、「立ち上がって、行きなさい。」と言われました。
いやされるとは、ただ生きるようになるということではありません。復活して、立ち止まらず、生きていくということです。主に仕えるようになるということです。主とともに、
福音宣教の旅に出るということです。福音を宣べ伝えながら、日々出会う人に仕えるということです。こうして、今日の、私たちの集会祈願はかなえられるのです。
私たちは、神のいやしにあらわれている愛を信じて、神に向かって心から願い求めています。
「あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。この愛に支えられるわたしたちが、いつも心から姉妹兄弟に仕えることができますように。」
私たちキリスト者は、洗礼をはじめとするさまざまな秘跡、ミサやことばの祭儀といった共同体の祭儀によって、いやされ続けています。今日、使徒パウロが宣言しているよう
に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」
このいのちの神秘こそが、私たちのいやしてあり、希望です。
私たちは、この希望の福音を分かち合うために、これから、この世界の中に派遣されます。
「行きましょう。主の平和のうちに」と励まし合い、希望の宣教の、新たな旅を始めます。
「神に感謝」と一緒に応えることは、いやされたサマリア人のように、希望の福音を宣べ伝えることができる喜びを、皆で分かち合うことです。
この派遣の祈りは、とても大切です。「神に感謝」と応えずに帰ってしまうことは、いやされたことを知らなかった九人と同じことをすることになります。派遣の祝福を受けて、
はじめて祭儀に参加したことになります。
最後まで参加できない場合は、心の中で、「これから福音を宣べ伝える、新たな歩みを始めます。私を豊かに祝福してください。神に感謝」という趣旨の祈りをして、その場を退出するようにしましょう。
聖体拝領をしたら帰って良いという考えは、共同体の祭儀を理解していない間違った考えです。いやされたサマリア人のように、「立ち上がって、行きなさい」という、愛に満ちた言葉を受けて、希望の宣教者として出向いて行きましょう。
日々出会う人と分かち合うための恵みをいただいたことに感謝して、「神に感謝」と応えて、希望の巡礼を続けていきましょう。