1月25日/年間第3主日・神のことばの主日

 [説教] 

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 

年間という時を歩んでいる私たちは、今日、この福音を宣べ伝えるように招かれています。 

「天の国」は、死んだ後に行くところではありません。今を、喜びのうちに生きることです。一人で喜ぶのではなく、皆で、ともに喜ぶことです。この喜びは、神に愛されていると感じることの喜びです。まわりの人を愛する時に感じる喜びです。天の国とは、神の国のことであり、その意味は、神の支配であると言われています。そして、神は愛ですから、天の国とは、愛の支配ということになります。しかし、愛は、強制によって実現しません。愛という名のもとに何かを押しつけるならば、それは、迷惑行為や暴力になる可能性があります。愛は、私たちを外側から押さえつけるものではないのです。私たちの内側から湧き出て、私たちを駆り立てるものなのです。愛とは、内側が満たされて、それが外側へと湧き出し、まわりに伝わっていくものであると言えます。 

愛には、さまざまな形があります。愛の掟はありますが、何をすることが愛となるかは示されていません。時間や場所も定められていません。「愛しなさい」という言葉は、「生きなさい」という言葉と同じくらい、漠然とした言葉です。「生きる」とは、「愛する」ということだと言うこともできます。ですから、私たちは、「どう愛すればよいのか」と悩むことがあります。自分が愛だと思うことが、相手にとって愛ではないということもあります。自分に向けられた愛に、気づかないこともあります。後になって、かなり時間がたってから、気づくことがあります。神は神秘ですが、愛も神秘です。 

神に、まわりの人に愛されるために、特別な資格は必要とされません。神は、無条件で、すべてのいのちを愛してくださいます。そして、神を、まわりの人を愛することは、誰にでもできることです。それでは、愛されていると感じるために、愛することができるために、必要とされていることは何でしょうか。「悔い改め」です。悔い改めとは、自分自身を見つめることです。愛されている自分に気づくことです。気づいて、喜び、感謝することです。愛そうと努力している自分を、素直に認めることです。自分の愛し方が間違っていると気づいたならば、すぐに改めることです。 

まわりの人の愛し方を、謙虚に学ぶことです。愛することとは、悔い改めることであると言うこともできます。私たちの愛は、不完全です。間違いだらけです。しかし、この現実から目をそらし、自分の愛に応えてくれないと、神やまわりの人に不満を抱くならば、愛から遠ざかることになります。愛しているのに、祈っているのにと思えば思うほど、愛を失っていくことになります。悔い改めることで、愛から離れないようにしたいと思います。悔い改めることで、愛に背を向けている自分に気づき、愛の方に向き直りたいと思います。 

愛の国である「天の国」は、私たちのところに、もう来ています。後は、私たちが、安心して、近づくだけです。「悔い改め」ながら、近づいていくだけです。「天の国」とは、私たちにとって、「悔い改め」の毎日であると言えないでしょうか。 

今日は、「神のことばの主日」です。2019年9月30日、教皇フランシスコによって、定められました。私たちは、この日は、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ます。もちろん、この日だけが、神のことばの主日ではありません。私たちの毎日が、神のことばの主日です。私たちは、この日に、私たちがいつも、神のことばに生されていることを思い起こすのです。私たちは、神に愛されていることに感謝して、互いに愛し合うことができる時、神のことばが、この世界で現実となっています。私たちは救われています。この救いを、ともに、喜び、祝うよう招かれています。私たちが、神のことばを大切にして生きようとする時、聖霊が力強く働かれます。私たちは、神のことばによって生かされています。この生き方、生かされ方を、互いに、謙虚に学ぶよう招かれています。そして、私たちは、神のことばが示す愛を広めるように励まされています。愛そのものである「天の国」が実現していることを、喜び、祝いながら、互いに、聖霊に生かされた生き方を学び合い、自分の生き方を見つめ、「悔い改め」ことで、神のことばによって大きくなっていく愛を広めていきたいと思います。 


このブログを検索

2月1日/年間第4主日

 [説教]  私たちは皆、幸せになりたいと願っています。だから、主イエスの招きに応えて、こうして集まっています。  今日の福音は、主からの、本当の幸いへの招きです。  私たちは今日、この福音を、皆で分かち合い、それぞれの生活の場で出会う人々に、幸いの福音を伝えていきたいと思います...

ブログ アーカイブ