[説教]
私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。
私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。
主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは、主がすべての人を愛されることを拒否しました。あの人ではなく、私を、私だけを愛してほしい。すべての人ではなく、私だけを愛してほしい。そんな思いが、「十字架につけろ」という叫びとなったのです。
主イエスは、十字架にとどまり、すべての人への愛を貫かれました。十字架上で亡くなることで、すべてのいのちへの愛を完成されました。今、私たちに残された愛は、すべての人、すべてのいのちを愛する愛だけです。それ以外の愛は、愛と呼ぶことができなくなったのです。
主の受難の出来事は、今も続いています。十字架につけられている人がいます。主イエスのように愛そうとする人は、主イエスのように、苦しみます。すべての人を愛そうとする人は、すべての人から拒否されます。特定の人、特定の集団、特定の国を愛する人が、多くの人に好まれます。私たちは、自分が好まない人を十字架につけてくれる人を好んでいるのです。この世界は、私たちの好き嫌いが、人のいのちを左右するところとなっています。すべてのいのちは大切にされなければならないことは、だれでもわかっています。しかし、好き嫌いという理由だけで、多くのいのちが否定されているのです。
主は、すべてのいのちが復活して、生きるようになるために、十字架につけられ、亡くなられました。そして、すべてのいのちは、無条件で愛され、生きるようになりました。先月29日の受難の朗読で、福音記者マタイが伝えているように、主が亡くなられた時、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「聖なる者たちの体」とは、愛を生きる体のことです。ですから、主が十字架上で亡くなられた時は、愛の復活の時でもあったのです。そして、今日の受難の朗読で、福音記者ヨハネが伝えているように、愛は、「成し遂げられた」のです。主によって成し遂げられた愛を生きる時、生きようとする時、私たちが救われていることになるのです。すべてのいのちが、愛という救いを得ているのです。
私たちは、今日で、「十字架につけろ」という思いを捨てたいと思います。だれかを十字架につけることで、好き嫌いという偽りの愛を求めることをやめて、皆で、主イエスが十字架上で完成された愛を分かち合いたいと思います。今、愛を感じ、皆で分かち合うことができなくても、愛の復活を信じたいと思います。そして、受難の主日で読まれたマタイによる受難の朗読に登場する百人隊長たちのように、「本当に、この人は神の子だった」と、信仰を宣言したいと思います。今日読まれたヨハネ福音書に登場する「愛する弟子」のように、聖母マリアの祈りに支えられて、愛の共同体となっていきたいと思います。