4月3日/聖金曜日・主の受難

[説教]

私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。


私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。


主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは、主がすべての人を愛されることを拒否しました。あの人ではなく、私を、私だけを愛してほしい。すべての人ではなく、私だけを愛してほしい。そんな思いが、「十字架につけろ」という叫びとなったのです。


主イエスは、十字架にとどまり、すべての人への愛を貫かれました。十字架上で亡くなることで、すべてのいのちへの愛を完成されました。今、私たちに残された愛は、すべての人、すべてのいのちを愛する愛だけです。それ以外の愛は、愛と呼ぶことができなくなったのです。


主の受難の出来事は、今も続いています。十字架につけられている人がいます。主イエスのように愛そうとする人は、主イエスのように、苦しみます。すべての人を愛そうとする人は、すべての人から拒否されます。特定の人、特定の集団、特定の国を愛する人が、多くの人に好まれます。私たちは、自分が好まない人を十字架につけてくれる人を好んでいるのです。この世界は、私たちの好き嫌いが、人のいのちを左右するところとなっています。すべてのいのちは大切にされなければならないことは、だれでもわかっています。しかし、好き嫌いという理由だけで、多くのいのちが否定されているのです。


主は、すべてのいのちが復活して、生きるようになるために、十字架につけられ、亡くなられました。そして、すべてのいのちは、無条件で愛され、生きるようになりました。先月29日の受難の朗読で、福音記者マタイが伝えているように、主が亡くなられた時、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「聖なる者たちの体」とは、愛を生きる体のことです。ですから、主が十字架上で亡くなられた時は、愛の復活の時でもあったのです。そして、今日の受難の朗読で、福音記者ヨハネが伝えているように、愛は、「成し遂げられた」のです。主によって成し遂げられた愛を生きる時、生きようとする時、私たちが救われていることになるのです。すべてのいのちが、愛という救いを得ているのです。


私たちは、今日で、「十字架につけろ」という思いを捨てたいと思います。だれかを十字架につけることで、好き嫌いという偽りの愛を求めることをやめて、皆で、主イエスが十字架上で完成された愛を分かち合いたいと思います。今、愛を感じ、皆で分かち合うことができなくても、愛の復活を信じたいと思います。そして、受難の主日で読まれたマタイによる受難の朗読に登場する百人隊長たちのように、「本当に、この人は神の子だった」と、信仰を宣言したいと思います。今日読まれたヨハネ福音書に登場する「愛する弟子」のように、聖母マリアの祈りに支えられて、愛の共同体となっていきたいと思います。

4月2日/主の晩餐の夕べのミサ

 [説教]

私たちは今晩、主イエスが、ご自分のすべてを与え尽くされたことを思い起こします。聖体が、私たちを「愛して、この上なく愛し」ておられる主であるということを、共同体として、ともに体験します。


私たちをこの上なく愛しておられる主は、私たちの「足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふ」いてくださる主です。私たちの前にひざまずき、私たちの疲れた足をていねいに洗い、優しくふいてくださる主です。想像してみましょう。私たちの下におられる主を想像してみましょう。


ペトロは、彼の足を洗おうとされる主に、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。主は、答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」主は、ペトロに、そして、ここに集まっている私たちに、足を洗うことに込められた愛を、そのまま受け取りなさいと言っておられるのです。私たちは、自分が幼い時、だれかに洗ってもらったはずです。そして、最後は、きれいに洗ってもらい、ていねいにふいてもらうことを望んでいます。私たちは、だれかに洗ってもらえたから、この世界で生きることができるようになったのです。だれかに洗ってもらえるから、安心して、この世界を去ることができるのです。私たちは、生きるにしても死ぬにしても、私たちの足を洗ってくれる愛、だれかの愛を必要としているのです。キリストのからだである聖体は、私たちだれもが必要としている愛です。聖体は、私たちの足を洗ってくださるキリストです。今晩、聖体という愛を信じて、そのままいただきたいと思います。


そして、主イエスは、私たちに、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言われます。私たちも今晩、足を洗い合う聖体となるよう招かれています。お互いの愛を必要としていることを素直に認めて、キリストの愛を分かち合う共同体となるように招かれています。私たち教会は、愛であるキリストのからだです。互いに足を洗い合いたいと思います。この世界の中で、人々の足を洗い続けたいと思います。主から受けた愛という水は、たらいに満ちています。人々の前にひざまずき、この水で、人々の疲れた心を洗わせてもらうましょう。足を洗い続けるキリストのからだとして、ともに歩んでいきましょう。


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4月3日/聖金曜日・主の受難

[説教] 私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。 私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。 主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは...

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