[6月29日/使徒聖ペトロ聖パウロ使徒]
[お説教]
私たちは今日、使徒ペトロとパウロの殉教をたたえるために、共同体として集まっています。殉教とは、英雄的な死を遂げるということではありません。福音のためにすべてをささげ、生き抜くということです。自分の力ではなく、神の恵みによって、生き抜き、福音のために、いのちをささげるということです。
殉教者が受ける恵みについて、使徒パウロは、次のように述べています。「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」主がともにおられるから、どのような時も福音を宣べ伝えることができるということが、殉教者を支える恵みなのです。福音は、苦難の中でこそ広がっていくからこそ、福音なのです。困難の中にある人に、生きる希望を与えるからこそ福音なのです。だから、福音を宣べ伝える者は、必ず困難を経験するのです。本当に、福音を宣べ伝える者は、誠実に宣べ伝えようとする者は、人間の力の限界を知ることになるのです。自分が無力な人間であることを実感する時、恵みが働くのです。限界を感じながらも、あきらめずに、希望を持ち続ける時、神の恵みに満たされるのです。
人間には限界があるから、努力をする必要はないということではありません。パウロは、あらゆる努力をしました。「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」ですから、神の恵みを体験することができたのです。人間である自分ができる努力をしているからこそ、神の恵みが豊かに与えられるということを、パウロは、「義の栄冠」と呼んでいるのです。殉教者は、義の栄冠を受けた者なのです。
さらに、パウロは、はっきりと、義の栄冠が、「だれにでも授け」られると宣言しています。私たちにも、同じ義の栄冠が授けられるのです。ですから、もっと努力をしなければならないということではありません。ここに集まっている皆様は、毎日、努力しています。福音の通りに生きようと、福音が勧める愛を実行しようと努力しています。だから、苦しくなります。苦しくなって、自分の限界を感じるから、祈ります。祈りながら、福音が示す生き方をしようと努力し続ける時、皆様も、そして、私も、パウロのように、決められた道を走り続けているのです。ですから、最後には、義の栄冠が与えられるのです。義の栄冠は、私たちの希望なのです。希望の巡礼者である私たちは、義の栄冠が与えられという希望を持って、この世界で、福音を証ししながら歩み続けるのです。
今日の福音で、主イエスは、使徒ペトロに対して、力強く宣言しておられます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる。陰府の力もこれに対抗できない。」私たちは今、希望の道を歩んでいます。この道を下から支えているのが、ペトロを始めとする使徒たちの信仰、希望、愛なのです。私たち教会は、使徒たちという、しっかりとした「岩」の上を、日々歩んでいる巡礼者なのです。使徒というしっかりとした道があるから、安心して、ともに歩み続けることができるのです。
前教皇フランシスコは、2015年、ペトロを始めとする使徒たちについて、次のように述べました。
「教会は、神の民が主キリストに向かう歴史の旅路を『共に歩む』ことに他ならないのです…その中では、誰も他の人の『上に』立つことなどできないということも理解できます。むしろ教会の中では、旅路において兄弟姉妹に仕えるため、人は自らを『低く』する必要があるのです。イエスは教会を設立された時、使徒団をその頂点に据えられました。使徒団の中でもペトロは、信仰において兄弟たちを『力づけ』なければならない…『岩』…でした。しかしこの教会は、逆さまのピラミッドのように、その頂点が一番下に来るのです。権威を行使する人々が『奉仕者』と呼ばれるのはそのためです。つまり、そのことばの原義によれば、彼らはすべての人の中で、もっとも小さな者たちなのです。」
希望の巡礼者である私たちは、この言葉を、もう一度、しっかりと味わいたいと思います。私たちも、使徒の生き方を受け継ぎ、小さな者として、この世界の中で、奉仕者として歩み続けたいと思います。私たちが奉仕者として生きている時、この世界の中で、「生ける神の子」イエスがおられること、福音が実現していることを証しできるのです。この世界に、希望をもたらすことができるのです。