[8月3日/年間第18主日]
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[お説教]
今週の水曜日、主の変容の祝日である6日から、聖母マリアの被昇天の祭日である15日まで、私たちは、平和旬間を過ごします。希望の巡礼を歩んでいる私たちは、この10日間、世界に真の平和が訪れることを、熱心に祈り、日々の生活の中で、平和のために働く決意を新たにします。希望の巡礼を、真の平和を目指す巡礼として、ともに歩みます。
戦後80年を迎えた今年、日本カトリック司教団から、「平和を紡ぐ旅-希望を携えて」という平和メッセージが発表されています。その中で、「真の平和」について、次のように述べられています。「聖書が語る『平和』は、もともと『欠けたところのない状態』という意味をもつことばです。その意味で、平和は、単に戦争や争いがない状態なのではなく、この世界が神の前に欠けるところのない状態、すなわち神がきわめてよいものとして造られたこの世界のすべてが、それぞれ尊重され、調和のうちにある状態のことだといえるでしょう。」
今日の第二朗読で、使徒パウロは、希望の巡礼者である私たちに、「上にあるものを求めなさい」と呼びかけています。上にあるものとは、真の平和のことではないでしょうか。パウロは、「キリストが神の右の座に着いておられます」言っていますが、その意味は、真の平和が実現しているということではないでしょうか。キリストが尊い存在とされているということは、すべてのいのちが尊い存在とされているということです。キリストは、私たちのいのちだからです。そして、すべてのいのちが、互いを尊い存在とし、大切にし合っていることが、真の平和なのです。私たちは今、上にある、真の平和に「心を留め」、地上のものを奪い合うことに「心を引かれないように」するように励まされているのです。私たちは、上にある、キリストの平和を、私たちが生きている、この地上に実現したいのです。私たちは、天上に逃げることも、地上から逃げることもできません。天上の平和を目指して、この地上を、一歩一歩歩んでいくしかないのです。平和という希望の道を、キリストの愛に生かされて、歩んでいくしかないのです。この歩みこそ、希望の巡礼者の歩みなのです。
今日の福音で、主イエスは、ここに集まっている私たちと、「ある金持ち」のたとえ話を分かち合ってくださいます。この金持ちは、畑が豊作となり、自分の財産を蓄えるための倉を、新たに建てようとします。財産を蓄えるための倉を大きくしようとします。自分だけが、「食べたり飲んだりして楽し」むために、自分の財産だけを守ろうとします。金持ちは、財産のことに「心を引かれ」て、いのちのことに「心を留め」なくなります。倉を大きくすることが、最優先のことになります。金持ちたちは、倉を大きくすることを競うようになります。いのちを養うはずの穀物は、倉を満たすための、倉を大きくするための、大きくし続けるための手段になります。いのちを支えるためのはずだった、穀物の倉が、いのちを、人びとの生活を犠牲にして大きくなっていきます。倉が、いのちを脅かすようになります。
司教団は今年、平和メッセージとともに、「核兵器廃絶宣言2025」を発表しています。この宣言の中で、「核兵器の存在は、神がきわめてよいものとして造られたこの世界と人間の尊厳をおとしめるものであり、すべてのいのちを脅かす深刻な脅威です」と明言されています。核兵器は、大きくなっていく倉と同じです。一部の者たちの財産を守るために、あまりに多くのいのちを犠牲にするものです。さらに、倉が大きくなっていく時、倉を建てた者は、自分だけで生きていくことができるという誤った考えをもつようになります。大きくなった倉の中に留まり、倉の外にいる人と関わらなくなります。倉の外にいる人が、自分の脅威になります。倉の外にいる人が飢えていても、気にならなくなります。倉を建てた者の関心事は、倉の中の穀物の蓄えが増えていくこと、他の倉より、大きな倉を建てることだけになります。倉を大きくするために、穀物の豊作を望むようになります。いのちのことなど、どうでも良いよいことになります。核兵器も同じです。人びとから、対話をしようという姿勢を失わせ、自分たちだけを守るシェルターに閉じ込め、外の人のいのちに関心を持たないようにします。
司教団は、「わたしたちは、キリストの福音に従い、対話を通じた平和の実現を目指し、すべての人の生命と尊厳を守るために、核兵器を完全廃絶するよう強く求めます」と宣言しています。希望の巡礼者である私たちも、すべての希望を奪う核兵器の完全廃絶を求めていきたいと思います。
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