[8月31日/年間第22主日]
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[お説教]
明日から、「すべてのいのちを守るための月間」が始まります。この月間は、2019年に教皇フランシスコが訪日したことを記念して、翌2020年から設けられています。フランシスコ教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でした。今日の福音で、主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言っておられます。このみことばは、すべてのいのちを守るために心にとめておきたい福音であると言えます。
すべてのいのちを守ることとは、まず、すべてのいのちを知ることです。すべてのいのちの尊さ、すばらしさを知ることです。自分といういのちが、すべてのいのちの一部であることを知ることです。自分が、まわりのいのちにつながっていなければ、まわりのいのちに支えられなければ、一瞬でも生きることができないということを知ることです。そして、私たちの神が。すべてのいのちを大切にしておられることを忘れないことです。
主イエスが言われる「高ぶる者」とは、いのちとは何かを知らない者のことです。自分を支えてくれている、まわりのいのちに気づこうとしない者のことです。だれの世話にもなっていないし、なりたくないという思いを抱いている者のことです。高ぶる者に、まわりのいのちへの感謝はないのです。高ぶる者は、「上席」に着き、自分を偉く見せることしかできないのです。「上席」に着き、神が、今、ここに、おられることに気づこうとしないのです。
「へりくだる者」とは、いのちのつながり、いのちの支え合いを知っている者のことです。自分一人では生けていけないことを悟っている者のことです。いつも、いのちを与えておられる神に、まわりのいのちに、いつも感謝している者のことです。へりくだる者は、「末席」に着き、まわりのいのちへの気づかいを忘れません。「末席」に着き、まわりのいのちに奉仕しています。
すべてのいのちを守るために、私たちは、回心します。私たちは、さまざまな「関係」の中で生きています。神との関係、隣人との関係、自然環境との関係の中で生きています。回心とは、こうした関係を見直すことです。神に、心からの感謝と賛美をささげながら生きているかと問いかけることです。まわりの人、まわりの自然環境に支えられていることを忘れていないかと問いかけることです。まわりの人、まわりのいのちを大切にしているか、自分といういのちを大切にしているかを問いかけることです。問いかけて、神との関係、まわりのいのちとの関係が歪められていると知ったならば、良い関係を回復することです。回復する努力をすることです。努力を続けていくことです。「低くされ」るということ、
「高められる」ということは、だれかが否定されるということではありません。関係が逆転するということでもありません。ともに生きるという関係になるということです。いのちの関係が回復するということです。
私たちは今、聖年を過ごしています。聖年は、神との関係、すべてのいのちとの関係を回復するための時です。いのちの関係を回復して、すべてのいのちが、生かされていることを、ともに生きていることを喜び、祝う時です。いのちの神に賛美と感謝をささげながら、ともに祝う時です。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ことで、ともに祝う時なのです。
そして、聖年の祝祭は、神の国の宴会を証しするものです。神の国の宴会が始まっていることを宣言するものです。今日の福音で、この神の国の宴会について、主イエスは、はっきりと言っておられます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」私たちは、確かに幸いな者となります。この宴会を通して、この地上の物のやりとりによる欲望の満足ではなく、神から与えられている、いのちの喜びが得られるからです。いのちの分かち合いの喜びが味わえるからです。私たちは、希望の巡礼者です。見える物ではなく、見えないいのちに希望を見い出します。目先の経済的な利益、自分だけの平和ではなく、すべてのいのちがともに生きるようになる未来に希望を見い出すのです。希望を見い出して、日々、回心しながら歩んでいきます。いのちの道を歩んでいきます。いのちを否定する出来事が毎日のように起こっていますが、いのちという名の希望をもって、ともに歩んでいきましょう。明日からの「すべてのいのちを守るための月間」を、希望を分かち合いながら、ともに歩んでいきましょう。希望は欺きません。