[9月7日/年間第23主日]
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[お説教]
私たちは、10月4日まで、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごします。そして今日は、「被造物を大切にする世界祈願日」です。
今年の、この日のための教皇メッセージのテーマは、「平和と希望の種」です。この中で、教皇レオ十四世は、すべてのいのちがともに暮らしている地球の危機について、次のように述べています。「世界各地で、わたしたちの地球が荒廃に向かっていることはもはや明らかです。至るところで生じている不正義、国際法違反、民族の権利侵害、格差、そしてそれらを生み出す貪欲が、森林破壊、環境汚染、生物多様性の喪失を引き起こしています。人間の行動がもたらした気候変動によって、極端な自然現象は頻発し、劇化しています。さらに、武力紛争が加える人間と生態系の破壊の中長期的な影響はいうまでもありません。自然破壊による打撃は、すべての人に同じように作用しているわけではない〔のです。〕正義と平和を踏みにじることは、いちばん貧しい人、もっとも隅に追いやられた人、排除された人が、もっともしわ寄せを被るのです。」私たちは今日、このことばを、自分に関わることとして、真剣に受け止めるように求められています。
主イエスは、今日の福音で言っておられます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」主は、自分や自分の身内だけを大切にする人は、キリスト者ではないと言っておられるのです。そして、「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるように招いておられます。「自分の十字架」とは、自分が抱えている苦難や苦労だけではありません。地球が荒廃に向かっていることに、激しい痛みを感じることです。人間の貪欲による、あらゆる暴力や自然破壊によって苦しめられている人びととともに苦しむことです。すべてのいのちの苦しみや悲しみが、自分の苦しみや悲しみになることです。イエスのもとに行くこととは、十字架につけられたイエスのもとに行くことなのです。イエスとともに歩むということは、イエスとともに、十字架を背負って、歩むことなのです。しかし、十字架を背負って歩む道は、滅びや死への道ではありません。救いといのちへの道です。希望の巡礼者である私たちにとって、十字架の道は、希望の道です。正義と平和を踏みにじられて、苦しんでいる人びととともに、正義と平和の回復を目指して歩む道だからです。十字架の後には、すべてのいのちが生きるようになる復活があるからです。
この地上では、ほんの一部の者が、あまりにも多くのいのちを犠牲にして、自分たちの欲望を満たそうとしています。決して満たされることのない欲望、満たそうとすればするほど大きくなる、欲望の奴隷となり、自然と人間の破壊の道を突き進んでいます。
破壊し尽くされたガザを思い起こす時、そう思わずにはいられません。天上への道、復活への道は、破壊への道と正反対の道です。自分のいのちを、すべてのいのちのためにささげながら、生きていく道です。すべてのいのちが、平和のうちに生きてほしいと、心から願いながら歩んでいく道です。自分だけが幸せになりたいという欲望に駆られて、先を競いながら走る道ではありません。すべてのいのちが、ともに生きる日が来るという希望を分かち合いながら、一歩一歩歩んでいく道です。だれもとり残されないように、ゆっくりと歩んでいく道です。私たち希望の巡礼者が歩んでいる道です。
今日の第二朗読は、「フィレモンへの手紙」からです。この手紙を通して、使徒パウロは、私たちに、今まで愛することができなかった人を、愛するように招いています。愛することができない人を愛することは、大きな苦しみです。十字架です。しかし、愛が広がることは喜びです。パウロは、この喜びを味わうように励ましています。今は、愛を広げることができないかもしれません。しかし、私たちは、十字架につけられたキリストのように、すべてのいのちを愛したいという希望を持つように励まされています。この希望は、十字架の道を歩むことで、必ず実現します。すべてのいのちを愛せるようになるということが、復活の恵みなのです。
最後に、前教皇フランシスコのことばを分かち合いたいと思います。「飽きられるほど繰り返し申し上げている二つの確信を、今一度述べたいと思います。ー『すべてはつながっています』、そして、『だれも独りでは救われません』。」フランシスコの、このことばを心にとめて、「すべてのいのちを守るための月間」の歩みを続けていきたいと思います。すべてのいのちが、ともに救われるという希望を分かち合いながら、希望の巡礼を続けたいと思います。