3月8日/四旬節第3主日

[説教] 

私たちは今、主キリストに従って、四旬節という荒れ野を、この世界という荒れ野を、さまざまな苦難に満ちた荒れ野を、ともに歩んでいます。神のことばに耳を傾け、神のことばによって、日々新たにされながら歩んでいます。新たなにされながら、洗礼志願者とともに、洗礼の恵みを味わいます。

  

四旬節の歩みは、愛によって支えられます。  

私たちは、神に愛されているから、この歩み始めることができました。そして、神と隣人を愛するから、四旬節を歩み続けることができます。  

日々のさまざまな苦難によって、愛は妨げられません。むしろ、苦難が多いほど、大きいほど、愛は深められ、大きくなります。たとえ、祈ることがなかなかできず、愛のわざを充分にできなくても、祈りたい、愛のわざを行いたいと望み続けたいと思います。 この望みを、何があっても、捨てず、持ち続けることこそが、愛を大きくしていくことなのです。神や隣人を愛せないからこそ、愛したいと、心から願うことこそが、愛を深めていくことなのです。私たちは、愛を望んでいる限り、愛を失っていないのです。 四旬節は、自分の愛を誇る時ではありません。愛されていることに感謝し、その愛に 応える時なのです。  


使徒パウロは今日、四旬節の歩みを続けている私たちに向けて、はっきりと宣言しています。 

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているのです。」  

愛である神は、愛を私たちの心に注ぎ続けておられる。だから、私たちは愛を信じることができる。私たちも、愛することができる。愛し合うことで、皆が、ともに、幸せになることができる。

今は愛せなくても、いつか愛せるようになる。死んでしまったように思える愛も、いつか必ず、復活する。愛こそ、私たちの希望であり、私たちの復活である。  

パウロは、そう述べているのではないでしょうか。そして、私たちに与えられる洗礼の恵みとは、この、希望であり、復活である愛であると言えます。  


今日の福音は、主イエスとサマリアの女性の出会いの物語、愛の物語です。  

福音記者ヨハネは、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」と伝えています。疲れているイエスは、「水を飲ませる」という愛を求めておられました。  

そして、「水をくみに来た」、サマリアの女性に、この愛を求めました。  


女性は、自分が、この愛の求めに応えることができないと思い込んでいました。  

しかし、イエスは、女性に言われます。 

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  

女性は、主が与えられる水を求め、与えられます。 女性に与えられた、「永遠の命に至る水」とは、愛の霊です。女性の内でわき出る、 尽きることのない水、まわりの人と分かち合えば分かち合うほど、ますます豊かになっていく愛です。サマリアの女性は、この愛の泉を与えられます。愛され、愛し続けることができるいのち、永遠の命が与えられます。 

どこにいても、愛せるようになります。 いつでも愛せると信じるようになります。  

この愛の泉、永遠の愛に至る水こそ、私たちに与えられる洗礼の恵みなのです。 


さらに、主イエスは、愛の泉を与えられる者たちによって、「まことの礼拝」がささげられる時が、今来ていると宣言されます。洗礼を受ける者は、まことの礼拝をささげることができるのです。

「霊と真理をもって」ささげられる礼拝です。 

イエス・キリストが与え続けておられる真の愛をもってささげられる礼拝です。 

それは、洗礼に続く、感謝の祭儀です。  

この礼拝について、ベネディクト十六世教皇は回勅『神は愛』で次のように述べています。  

「普通、礼拝と生き方とは別々のものと考えられていますが、この場合は、この二つは少しも別々ではありません。聖体拝領において、『礼拝』そのものが、神に愛されることと、他者を愛することの両方を含みます。感謝の祭儀は、具体的な愛の実践をもたらすことがなければ、本質的に不完全なものとなります。」  


洗礼の水によって、私たちは、愛を妨げるものから解放され、愛の泉である聖霊を注がれます。

洗礼に続く、入信の秘跡である聖体は、私たちを、日々の愛のわざへと駆り立てます。愛を生きたいという望みを強め、新たにします。  

四旬節の残された時間、この愛の恵みを、ともに体験していきましょう。 


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