3月15日/四旬節第4主日

[説教] 

四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、新たにする時です。 

洗礼は、一度しか受けられませんが、絶えることなく続く恵みです。 

洗礼を受けた者は、どのような生き方をしていても、神に愛されている、神の子であり続けます。神や隣人を愛することができなくなっても、再び愛せるようになります。洗礼の時注がれた愛の霊は、私たちの中で、何があっても、ともに生きておられる聖霊なのです。 


今日の福音は、「生まれつき目の見えない人」が、主イエスにいやされ、「目が

見えるようになった」ことを伝えています。 

見えない目が見えるようになることは、大きな恵みです。しかし、見えるようになったこと以上に大切なことは、何が見えるようになったかということであり、見えるようになって、生き方がどう変わったかということです。 


目が見えるようになった人は、主イエスについて、「あの方は預言者です」と宣言します。 

預言者は、神の言葉を伝えることで、人々に神の愛をもたらす者です。 

ですから、この人は、神が自分を愛しておられるから、自分の目を見えるようにしてくださったと言っているのです。この人は、「神は私を愛しておられる」と宣言しているのです。この人は、神の愛が見えるようになったのです。 


今日の第一朗読で、主である神は、はっきりと宣言されます。 

「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

生まれつき目の見えない人は、神が見るように見る目を与えられたのです。 

神のみこころ、神の愛が見えるようになったのです。そして、主イエスの前にひざまずいて、「主よ、信じます」と、迷わず、信仰宣言することができたのです。 

洗礼を受け、神の子とされる者も、水で洗われ、神の愛を見ることができ、信じることができる目を与えられるのです。 

時々、愛を見えなくする、「土」が目に塗られて、見えなくなりますが、その時は、祈りという水、回心という水で、何度でも洗い流せば良いのです。四旬節という恵みの時は、土を塗られた目を洗い流す時なのです。 

 

今日の福音は、主イエスが、「土をこねてその人の目にお塗りになった」と伝えています。このようにすることで、主は、私たちの目が、しばしば、神の愛を見ることができなくなっていることを示しておられるのです。そして、目を洗うよう招いておられるのです。洗礼の恵みを受けた者は、神の愛が見えるように、心の目を洗い続けるのです。 


それに対して、ファリサイ派の人々は、主イエスの愛を見ることができません。

「安息日を守らない」という、表面的なことだけを見ようとします。 

「目が見えるようになった」という、目の前で起こっていることが見えず、「全く罪の中に生まれた」という思い込みに遮られて、目が見えなくなっているのです。神の愛を信じることができない、ファリサイ派の人々こそ、目が見えなくなっているのです。 


私たちは、愛が見えるようになったことで、満足していて良いでしょうか。 

今日の第二朗読で、使徒パウロは、洗礼を受けた私たちに、はっきりと言っています。 

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

私たちは、光となるよう励まされているのです。私たちは、神と隣人を愛する時、愛されていることに喜び、感謝する時、この世界の中で、光となっています。

今の世界は、さまざまな情報にあふれています。そして、情報に振り回されて、私たちの間に、傷つけ合いが起こっています。情報を得れば得るほど、闇が深くなり、どこに光があるかわからなくなっています。情報のやり取りではなく、愛があるところに光があります。大量のデータではなく、心の込もった、短い祈りこそが、私たちを生かす光です。止めどない悪口が語られるところではなく、理解しようとして、優しいまなざしが向けられているところに、愛の光があります。 


洗礼を受けた私たちは、愛の光を見る目を与えられています。洗礼の恵みに生きている私たちは、愛を信じ、愛し合うことで、光となることができます。 

もちろん、私たちの見る力は、完全ではなく、完全から遠い状態です。目を洗い続けなければなりません。深い闇を感じて、動くことができなくなることがあります。しかし、洗礼を受けた私たちは、どのような時も、神の子として愛されています。愛という光を注がれています。そして、使徒パウロが言っているように、どのような時も、「光の子として歩みなさい」と励まされています。

ですから、光の子として、ともに歩んでいきましょう。 

愛を信じて、ともに歩んでいきましょう。 


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3月15日/四旬節第4主日

[説教]  四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、新たにする時です。  洗礼は、一度しか受けられませんが、絶えることなく続く恵みです。  洗礼を受けた者は、どのような生き方をしていても、神に愛されている、神の子であり続けます。神や隣人を愛することができなくなっても、再び愛せるようにな...

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