[説教]
主イエスは、復活し、私たちとともに歩んでおられます。復活とは、ともに歩むことなのです。ただ生きているということではなく、ともに生きていくことなのです。私たちは今、「シノドス」の歩みを続けていますが、シノドスとは、「ともに歩む」ことであり、復活の歩みなのです。
今日の福音は、私たちとともに歩んでくださる、復活のキリストを伝えています。
福音にはまず、二人の弟子が登場します。二人の弟子が主イエスに期待していたことは、自分たちの毎日の生活が、さまざまな苦しみや心配などから解放されて、すべてのことが、自分たちの思い通りになり、悩みがなくなることであったということです。自分たちの望みをすべてかなえてくださる救い主を期待していたということです。しかし、「十字架につけ」られたイエスによって、二人の期待と望みは打ち砕かれました。だから、二人は、「イエスは生きておられる」という福音を聞いても、喜びを感じることができませんでした。二人にとって、主が生きておられることよりも、すべてが自分たちの望み通りになることの方が大切だったのです。こうした二人の姿は、私たちの現実を表していると言えます。私たちも、主の復活を信じますと宣言していても、自分の毎日が思い通りにいかなければ、「暗い顔をして立ち止ま」ることが多いです。
そんな二人に、そんな私たちにこそ、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。主のことを忘れず、思い続ける限り、主について語り合う限り、主が来て、ともに歩んでくださいます。ともに生きてくださいます。
主を信じられないとこぼしたとしても、主に失望したとしても、主に怒りをぶつけたとしても、主は必ず、ともにいてくださいます。ともにいて、私たちに語りかけてくださいます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、励ましてくださいます。
私たちも、主とともに歩む時、苦しみを受けて、復活のいのちを受けるのです。
私たちが、毎日が思うようにいかない時、さまざまな苦しみを経験する時、主がともに苦しんでくださり、私たちは、主とともに復活するのです。
復活とは、いのちが新たにされることです。日々の生き方が変わることです。
今までの、慣れた生き方ができなくなることです。
変化には、苦しみがともないます。自分は変わろうとせず、まわりに変わることを求めることは、単なる暴力です。復活とは、変化の苦しみを分かち合いながら、ともに新たになり、ともに生きていくことなのです。
主イエスと聖書のみことばを分かち合った二人は、主と食事をともにしました。
主は、二人のために、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました。パンを与えられた二人は、ともにおられる方が、復活のキリストだと「分か」ります。主の姿は見えなくなりますが、主が生きておられることが分かります。そして、主が分かち合ってくださった、あのみことばが分かります。主と分かち合っていた時に、心が燃えていたことを思い起こします。
そして、復活の主と出会ったこと、主が分かち合ってくださったことを、仲間と分かち合うために、「エルサレムに戻」ります。同じ道を通ることになります。
しかし、希望を失い、重い足取りで歩んできた道は、喜びと希望に満ちた旅路、復活のいのちに駆り立てられて歩む道となります。私たちも、復活の主から、パンをいただきます。復活のいのちそのものである聖体です。主が裂いてくださることで、皆で分かち合うパンです。聖体は、復活のいのちの分かち合いです。
教会の中だけでの分かち合いではありません。私たちは、教会から出て、日々出会う人々と、復活のいのちを分かち合うために、聖体といういのちをいただきます。
私たちは、いのちのみことばといのちのパンをいただいています。みことばと聖体に生かされて、ともに生きていく力をいただいています。苦しみを分かち合いながら、すべてのいのちが復活することを信じて、ともに歩む力をいただいています。
この力に支えられて、「シノドス」という復活の道、ともに歩む道を進んでいきましょう。