6月7日/キリストの聖体

 [説教]


5月31日に、三位一体の愛をともに祝った私たちは、今日、まことの神であり、まことの人間であるイエスの愛を祝っています。「キリストの聖体」とは、主イエスのすべてであり、主の愛そのものなのです。復活し、今、私たちとともに、私たちとともにおられる主ご自身なのです。

主イエスは今日の福音で、ご自分のことを、「天から降って来た生きたパン」であると宣言しておられます。「生きたパン」とは、この世界に来て、私たちとともに生きておられる主ご自身なのです。そして、私たちを、すべてのいのちを愛し続け、生かし続けるために、ご自身のすべてを与え続けておられるのです。「キリストの聖体」とは、与え続けられる、与え尽くされるキリストのことです。

主イエスは、私たちに、ご自分の「肉と血」を与え続けておられます。主の肉とは、私たちの肉体と同じ肉体です。この肉体をもって、主は、人々のもとに出向き、人々とともに歩かれました。この肉体をもって、人々に触れ、人々の痛みを感じ、人々を癒されました。この肉体をもって、一人一人の声を、ていねいに聞き、この肉体が出る声で、愛の福音を分かち合われました。この肉体をもって、人々ととともに食べ、すべてのいのちが救われている喜びを分かち合われました。この肉体をもって、十字架の上で苦しまれたのです。主の「血」とは、この苦しみそのものなのです。すべてのいのちが救われるために流され続けている血なのです。そして、この肉体が復活したことで、主は今も、苦しんでいるいのちとともに苦しんでおられるのです。苦しみをともにしながら、すべてのいのちの復活という希望を分かち合いながら、私たちとともに歩んでおられるのです。「キリストの聖体」とは、私たちの悲しみや喜びを感じておられる、笑い、泣いておられるキリストのことです。

使徒パウロは今日、はっきりと言っています。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」私たちが聖体をいただく時、皆、同じ愛をいただいています。私たちは、聖体をいただいた後、それぞれの生活をします。この世界に中で、散り散りになって生きます。私たちは散り散りになって生きていますが、キリストの愛という、同じ愛を生きているのです。散り散りになるからこそ、愛は広がっていくのです。さまざまな生き方をするからこそ、愛は豊かになっていくのです。「キリストの聖体」とは、キリストの愛を分かち合っている私たちのことです。私たちは、散り散りになって、さまざまな愛を生きる時、「キリストの聖体」となるのです。

今日の第一朗読は、荒れ野の旅の終わりに、モーセが民に告げた言葉を伝えています。その中に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。確かに、私たちは、みことばがなければ生きていけません。しかし、みことばを聞くだけで、口にするだけでは、みことばを生きていることにはなりません。みことばは、私たち一人一人の肉体を突き動かす時、愛の福音となります。心地よい言葉、綺麗な言葉が、みことばなのではありません。肉体をもって行われる愛こそが、本当のみことばなのです。肉体を動かすことができなくても、動かすことができないからこそ、必死になって愛している姿、全身全霊を込めた愛こそが、生きたみことばなのです。「キリストの聖体」は、肉体をもって生きるみことばなのです。すぐに答える人工知能ではないのです。間違いながらも、必死になって。愛を生きようとする、私たち一人一人なのです。皆が愛し合って生きていける世界を目指して、答えを探し求めて生きている私たちが、迷いながら、ともに歩んでいる私たちが、「キリストの聖体」なのです。これからも、「キリストの聖体」として、ともに歩んでいきましょう。

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