5月17日/主の昇天

 [説教] 


「主の昇天」の祭日である今日、私たちは、復活された主イエスが、神の右の座に着かれ、すべてのいのちを治めていることを祝っています。 

私たちは今日、まことの神である主イエスを、心を込めて、ともに礼拝しています。 


使徒言行録が伝えている通り、主イエスは、「天に上げられ」ました。 

弟子たちは、ただ、「天を見つめてい」ました。私たちも今日、天を見つめたいと思います。

私たちは、地上のことに心を奪われて、天を見つめることができなくなっています。 天を見つめるためには、足を止めなければなりません。スマホやコンピュータの画面から目を離さなければなりません。だれかの悪口を言うのをやめなければなりません。忙しい日常から、一時でも離れなければなりません。そして、外に出なければなりません。天を見つめて、神の右の座におられる主を探し求める時、私たちは祈っていることになり、心にキリストの平和が訪れるのです。 


そして、主イエスが、神の右の座に着いて治めておられるということは、御父と御子が一つになって、すべてのいのちを愛しておられるということです。 

神は、地上から離れたところで、私たちを愛しておられるのです。私たちが、この地上でどのように生きているかに関係なく、私たちを愛しておられるのです。 

天からの愛は、無条件の愛なのです。私たちは、この無条件の愛を信じているでしょうか。こんな私を、神が愛されるはずがない。私たちはよく、神の愛を信じられなくなります。そんな時は、外に出て、天を見つめたいと思います。天を見つめながら、すべてのいのちを、無条件で愛しておられる神に感謝をささげたいと思います。神の愛への信仰を深めたいと思います。地上の私たちの愛が不完全であることを、謙虚に認め、天の神の愛に、すべてをゆだねたいと思います。 


今日の福音は、弟子たちが、「ガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」と伝えています。 

山は、神と人とが出会うところです。山は、キリストの弟子となった私たちが、まことの神であるキリストと出会うところです。そこで、私たちは、主のみことばと主のいのちを分かち合います。今、こうして祝っているミサが、私たちが登る山です。 

 

ミサは、主イエスが招いてくださる礼拝です。私たちがこうして集まっていることは、 あたりまえのことではありません。共同体が集まれることは、大きな恵みです。共同体が集まって、主を礼拝することは、私たちにとって、主の昇天の体験です。日常生活から離れたところで主に出会うことこそが、主の昇天です。 

そして、弟子たちの中には、「疑う者もいた」と伝えられています。 

私たちは、神を信じることができなくなる時があります。自分の信仰に自信を失い、教会に行けなくなる時があります。今日の福音は、そんな時も、主に会いに来るように、そんな時こそ、共同体の集まりに加わるように励ましています。 

地上で生きている私たちは、完全な信仰を持つことなどできません。だから、主のもとに来て、信仰を深めていただくのです。不完全な信仰しか持てないからこそ、主のもとに集まること、これこそが、主の昇天という恵みではないでしょうか。 


そして、主の昇天とは、主イエスの福音宣教の歩みを、主の弟子である私たちが続けていくことであると言えます。主の昇天とは、福音宣教が続いていくことなのです。 

主は今日、こうして集まっている私たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。私たちは、毎日の生活の中で、神の愛で、まわりの人を愛したいと願っています。すべての人が、神の愛の中で生きることができるように努力しています。 

主の弟子である私たちは、すべてのいのちが、神の愛の中に浸され、幸せになるようにと祈りながら、毎日を生きています。 

こうした私たちの生き方が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音の実現となりますように、ともに祈りましょう。 

今月は、聖母月です。聖母マリアが、私たちとともに祈ってくださいますよう、心から願いましょう。 

「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」


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5月17日/主の昇天

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