8月16日/年間第20主日

 [説教] 

昨日で、今年の平和旬間は終わりました。しかし、私たちの真の平和をめざす歩みは、今日からも続いていきます。平和旬間で新たにされた平和への熱い思いをもって、新たな歩みが始まっています。今日の集会祈願で、私たち教会は、神を「深く愛する心をお与えください」と祈りました。神を深く愛する心とは、平和を大切にする心です。平和を大切にすることで、すべてのいのちを大切にする心です。 

今日の福音は、「カナンの女」の、主イエスを深く愛する心を示しています。この女性は、自分の娘がいやされることを願っています。主の弟子たちは、自分たちの共同体のメンバーではないということから、彼女を「追い払」おうとします。彼女の心からの、救いを求める必死の祈りは、弟子たちには、うるさい雑音でしかありません。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」という祈りは、心からささげられるならば、尊い、美しい祈りです。この祈りを、世界中のすべての人がささげたら、この世界は平和になります。自分を超える方の憐れみがなければ、弱く、貧しい自分は生きていけない。そういう謙虚な思いをもって、すべての人が、「憐れんでください」と心から祈る時こそが、世界の平和が実現している時なのです。この女性は、この平和を求める祈りを、何度も繰り返しているのです。大きな声でささげているのです。平和旬間を過ごすことで平和への思いを深めた私たちは、この女性の祈りに加わりたいと思います。言語や文化の違い、宗教や国籍の違い、所属する共同体の違いがあっても、ともに祈りたいと思います。そして、こうした違いを恵みとして感謝し、違いを学ぶことによって、私たちの祈りを豊かにし、深めたいと思います。違いを学び合い、ともに豊かになっていくことが、真の平和なのです。「憐れんでください」という祈りを大切にすることで、神を深く愛したいと思います。 

福音書は、カナンの女性の祈りを、弟子たちばかりでなく、主イエスも拒否されたかのように伝えています。私たちも皆、同じ経験をします。特に、世界平和のために祈る時、どうして聞いていただけないのだろうと思ってしまいます。そんな時、私たちは問いかけたいと思います。私たちは、私たちの祈りを聞いてくださるから、神を愛するのだろうか。それとも、神を愛しているから、何があっても、まったく聞いていただけないと思えても、祈り続けるのだろうか。カナンの女性は、あきらめずに祈り続けます。「主よ、ごもっともです」と言いながら、祈りを止めません。「しかし」と言って、新たな祈りの言葉を口にします。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」この祈りは、神の愛を信じる、信仰宣言です。神の愛は、すべてのいのちにおよびますという、賛美の祈りです。そして、すべてのいのちが大切にされているということを、世界中の人が信じることができる時、真の平和が実現するのです。私たちの賛美は、神の愛への賛美、真の平和への賛美です。心から、この賛美をささげることが、神の深く愛することなのです。カナンの女性のように、何があっても、神を愛し続けましょう、神の愛を信じ続けることで、世界の平和が実現することを信じ続けることで、神を深く愛しましょう。愛とは、愛を信じることなのです。平和とは、平和を信じることなのです。 

レオ十四世教皇は、今年の「世界平和の日」のメッセージで、次のように述べています。「平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」私たちは今日、この言葉を真剣に受け止めたいと思います。私たちは、世界の平和など実現不可能な理想だと考える時、身近なところの平和も実現できなくなります。イエスの弟子たちがカナンの女性を追い払ったように、自分のすぐ近くにいる人の、平和への願いを聞くことができなくなるからです。しかし、世界の平和を本当に願う時、身近な人の平和を大切にするようになります。自分と考え方の違う人、自分が嫌いな人を大切にします。世界平和を実現したければ、まず、自分が平和になることです。まわりが平和でないから、平和が実現しないのではないのです。自分が平和でないから、世界が平和でないのです。だれかを追い払うことで、真の平和は実現しないのです。愛されている者として、皆が、ともに生きることでしか、世界の平和は実現しないのです。もちろん、世界平和の実現は、やさしいことではありませんが、始めることができます。身近なところから始めることができるのです。 

主イエスは、カナンの女性に言われます。「あなたの願いどおりになるように。」世界の平和という願いの実現には、時間がかかります。しかし、いつか願いどおりになります。というより、少しずつ願い通りになることが、その道のりが、私たちの日々の歩みこそが、平和なのかもしれません。平和とは、到達点ではなく、歩み全体なのかもしれません。カナンの女性の娘はいやされて、女性の新たな歩みが始まります。私たちも、カナンの女性の新たな歩みを、ともに歩みたいと思います。

「主よ、憐れんでください」と叫び、神を深く愛しながら、真の平和の道を歩んでいきたいと思います。 


8月15日/聖母マリアの被昇天

 [説教] 

「1945 年8月9日、米軍機が投下した一発の原子爆弾は一瞬にして長崎のまちを破壊し、その年の終わりまでに人口の3分の2にあたる15万もの人々が死傷しました。13歳で被爆した故・𠮷田勝二さんは、地獄のような惨状をこう語っています。 

爆心地の方に向かうと黒焦げで炭化した人、目が飛び出ている人、内臓が飛び出した人、手足がない人たちが右往左往していた。浦上川にたどり着くと、ここも焼けただれた多くの人が、油と血と汚れた水、その水を飲みながら次々に亡くなっていった。私は、全身血だらけ、皮膚は剥がれ体の下の方にだらりとぶら下がっていた。顔も皮膚は付いていたものの、どす黒く焼け焦げていた。 

 吉 田さんの顔には生涯消えることのない大きな火傷の痕が残り、周囲からの視線に苦しみ続けました。辛うじて死を免れた人々も、心身に深い傷を負い、放射線の影響でがんなどが発症することへの不安と恐怖を一生抱え続けています。… 

一つの地球に暮らす『地球市民』の皆さん。平和な世界をつくるために、私たちにはできることがあります。『平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと。』これは𠮷田さんが被爆体験を語るとき、いつも伝えていた言葉です。相手の立場や苦しみに心を寄せ、分かり合おうと努力することは、対立や衝突を避けるための大事な一歩となります。それが人と人、国と国、それぞれの場面で信頼を育み友好関係を築く礎になるのです。𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。… 

被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきます。…」 

これは、今年の長崎平和宣言の一部です。 

今日は、聖母マリアの被昇天の祭日であり、平和旬間の最終日です。私たちも今日、天の栄光に上げられた聖母マリアとともに、心を一つにして、平和を宣言します。そして、キリストの平和を、日々出会う人と分かち合っていきます。口先だけでなく、毎日の行いを通して分かち合っていきます。 

今日の福音は、聖母の平和宣言です。平和宣言はまず、この世界が平和ではないと宣言します。自分こそ正しいと「思い上が」り、だれかを悪と決めつけ、攻撃している者がいます。攻撃することで平和が実現すると「思い上がる者」がいます。「権力ある者」は、人々のいのち、生活を守るため、人々の幸福に奉仕するという使命を忘れています。そして、権力が、人々を苦しめる手段、暴力となっています。多くの人が、権力者の「座」の下で苦しんでいます。多くの人が、人間として幸福に生きる権利を奪われています。この世界では、「飢えた人」で満ちています。「富める者」のお金は、さらなる金儲けのための投資や、自分の地位を守るための武器購入に向けられ、飢えた人を満たすことには向けられません。力のない人は、自分が幸せに生きる権利を要求することを許されず、沈黙を強いられています。聖母は、この世界が平和ではないと宣言しているのです。 

そして、天の平和が宣言されます。天では、神のみが、「力ある方」です。だれも、自分が正しいなどと主張せず、神の「憐れみ」によって生かされいること忘れず、「神を喜びたたえます。」自分を守るために、武装する必要はなく、弱く、貧しいままで良いのです。自分の弱さや貧しさを認める人こそが、「良い物で満た」されます。自分の力を誇ろうとする者は、いつまでも満たされることはありません。神のみが、すべてのいのちを生かす力を持っておられ、私たちは、力や富を持つ必要がなく、ただ、祈り続ければ良いのです。聖母マリアのように、すべての人が、神の憐れみによって、「代々に限りなく」、生きますようにと、ひたすら祈り続ければ良いのです。すべてのいのちの幸せを、願い続ければ良いのです。天の平和とは、祈り続けることができるという平和なのです。 

天の平和に上げられるということは、地上の苦しみと関係がなくなるということではありません。天に上げられた聖母マリアこそ、地上で苦しむ人の声、被爆者の声に、いつも耳を傾けています。天にいるということは、地上のすべての苦しみがわかるということです。「からだも」、天に上げられた聖母は、その栄光のからだをもって、地上のあらゆる苦しみを感じているのです。聖母のみ心とは、「平和の原点」である、「人間(ひと)の痛みがわかる心」なのです。そして、聖母の「魂」には、吉田さんの被爆体験が、すべての人の苦しみの体験が刻まれているのです。私たちも、聖母のように、魂にしっかりと刻みつけましょう。そして、「被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきま」しょう。「𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。」神からいただいた、からだと魂をもって、天の平和を地上に実現していきましょう。 


8月9日/年間第19主日

 [説教] 

平和旬間を過ごしている私たちは今日、洛東ブロック共同体として、平和祈願ミサをささげています。今日の集会祈願で、私たちは皆、聖霊によって神の子どもとされていることを確かめました。そして、約束された永遠のいのちに導かれることを、共同体として、心を一つにして願っています。平和とは、すべての人が、神の子どもとして、大切にされていることです。大切にされていることを忘れないことです。すべての人が、互いに大切にし合うことで、いつまでも、ともに生きることです。すでにこの世を去った人々のことは、私たちの記憶や祈りの中で思い起こされ、大切にされます。そうすることで、この人々は、今も、私たちとともに生きていることになります。そして、私たちは、これから生まれてくるいのちのことを考えて、今を生きることになります。今の私たちさえ生きることができれば良いという思いを捨て、未来の人々も生きることができるように、私たち以上に幸せに生きることができるように、ともに祈り、ともに努力します。こうして、過去のいのち、今のいのち、これから生まれてくるいのちが、ともに生きるようになります。ともに生き続けることで、永遠のいのちに導かれます。永遠のいのちとは、自分だけが永遠に生きることではありません。すべてのいのちが、ともに、永遠に生きることなのです。そして、この、ともに生きることこそが、真の平和なのです。 

今日の福音は、主イエスが、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」と伝えています。主は、群衆を大切にしました。群衆が生きるようになるために、ともに、平和に生きるようになるために、群衆に、ご自分のすべてを与え尽くされました。すべてを与え尽くす愛を与えられました。群衆を愛した愛だけでなく、群衆が互いに愛し合う愛です。私たちは、この愛を与えられる時、本当に平和に生きることができます。主は、祈ることによって、御父と愛を分かち合われました。私たちが祈りをささげる時、神は、この愛を分かち合ってくださいます。私たちは、この世界に平和をお与えくださいと祈るだけではありません。私たちが、この世界で日々出会う、いのちを愛することができますようにと祈るのです。愛によって、世界平和を実現できますようにと祈るのです。祈っているだけでは平和は実現しないと、よく言われます。確かにそうです。しかし、祈りがなければ、真の平和は訪れないのです。そして、宗教の違いを超えて、だれもが、安心して祈れることこそが平和なのです。 

今日の第一朗読は、神と出会うエリヤについて伝えています。エリヤは、「激しい風…地震…火」の中に、神を見いだすことはできないのです。「静かにささやく声を聞」いて神がおられることを知るのです。神は、大きな出来事の中ではなく、日々の小さな出来事の中におられるのです。そして、小さな出来事の中で働いておられる神に気づき、礼拝をささげることが、真の礼拝となるのです。この神から、真の平和が与えられます。ですから、平和とは、小さな出来事を大切にすることだと言えます。日々の小さな愛の行いに気づき、感謝できることが、平和なのです。ささやくような声であっても、平和を祈り求めていれば、平和は訪れるのです。小さな暴力だと思えても、暴力を見過ごさないことが平和なのです。平和を求める声に、声にならない声を聞き逃さないことが、平和を築いていくことなのです。声の小さい人が犠牲になり、声の大きい人の思い通りになっている限り、絶対に、平和は実現しないのです。「静かにささやく声」こそが、真の平和なのです。この声がだれにでも聞こえるようになる時、真の平和が実現しているのです。 

そして、主イエスは今日、「恐れることはない」と言ってくださいます。平和とは、恐れがなくなることです。恐れがなくなり、武器がいらなくなることです。他人に、恐れを抱かないことです。恐れを抱かせないことです。6日の広島平和記念式典の、こども代表による「平和への誓い」で次のように述べられていました。「私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。 平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。 」今日、平和祈願ミサをささげている私たちも、恐れずに行動する責任があります。相手を恐れる前に、相手の気持ちを想像し、意見の違いがあれば、理解し、学び合いたいと思います。平和への思いを語り合い、聴き合いたいと思います。相手を恐れるのではなく、ともに平和をめざしていく仲間として大切にしたいと思います。主は今日、私たち一人一人に、「安心しなさい」という言葉をかけてくださっています。私たちも、互いに、「安心しなさい」という言葉をかけ合いましょう。私たちが、「安心しなさい」という言葉をかけ合う時、そこに、私たちの平和キリストがおられるのです。


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