[説教]
今日は、神のいのちを祝う日です。そして、こうして集まっている私たちが、このいのちをいただいていることを喜ぶ日です。いただいている、この尊いいのちをあたりまえだと思わず、感謝する日です。
今日の福音は、神のいのちについて、次のように宣言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神のいのちとは、神が世を愛しておられるということです。世とは、神の愛を受け入れることができない、神の愛をわかろうとしない、この世界です。今の世界の現実です。だからこそ、神は、世を愛されるのです。神は、この世界を愛することしかできないのです。世が神を拒否すればするほど、神の愛は大きくなっていくのです。そして、神の愛は、独り子を与える愛です。独り子とは、神のいのちそのものです。神の独り子イエスは、そのいのちを、愛の拒絶そのものである十字架の上で、与え尽くされます。与えられるから、与えるのではないのです。与えられないからこそ、限りなく与えるのです。それが、神の愛であり、神のいのちなのです。こうした愛といのちは、私たちの理解や能力を超えています。ですから、神秘なのです。
神の愛といのちを信じる時、私たちは、「永遠の命を得る」ことになります。いのちを信じるとは、生きたいと願うことです。愛を信じるとは、愛したいと願うことです。神の「独り子を信じる」とは、主イエスのように、生きたい、愛したいと願うことです。願いながら、毎日を生きることです。「永遠の命」とは、地上の生活を終わった後のいのちではなく、今から、毎日、ずっと生きていくいのちなのです。神のように、独り子イエスのように、愛したいと思いながら、生きていくいのちなのです。神の愛は永遠ですから、私たちも、神の愛を生きたいと願う限り、永遠に生きることになるのです。私たちは天国に行きたいと思っています。それは、神に愛されたいからではありません。私たちは、地上にいる間に、神に完全に愛されています。私たちは、天国に行き、ずっと愛し続けたいのです。この地上で経験している、さまざまな限界を超えて、天国で思い切り愛したいのです。神と隣人を愛したいのです。
今日私たちが礼拝している、三位一体の神は、私たちを愛しておられる神です。私たちが信じる神は、私たちを愛しておられるから、三位一体なのです。今日の第二朗読で、使徒パウロは、彼が愛している姉妹兄弟たちに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と挨拶しています。この挨拶は、ここに集まっている私たちにも向けられています。この挨拶は、三位一体の愛が、すべての人とともにあるように願う祈りです。「聖霊の交わり」という言葉が示しているように、私たちは、愛されるだけでなく、三位一体の愛に加わるように招かれています。父と子と聖霊が愛し合っておられるように、私たちも、互いに愛し合うように励まされています。私たちが教会が、この世界の中にあって、三位一体の愛をまわりの人と分かち合いながら、生きていくように励まされています。
今日の福音で警告されているように、私たちは、神の愛を信じなければ、必ず滅びます。私たちは、愛を失えば、滅びます。愛し合えなければ、滅びることになります。私たちは、愛がなくても、お金や権力を持っていれば、生きることができると思ってしまうことがあります。しかし、そう思えるのは、今生きているからです。そして、神とまわりのいのちに愛されているから、今生きているのです。生きているから、愛を否定することができるのです。三位一体の神は、私たちを、いつでも、どこでも、今までも、これからも、ずっと愛するために、私たちとともにおられます。この三位一体の愛を信じて、この愛が生きていることを、ともに歩んでいきたいと思います。私たちがこの愛を信じている限り、この愛を宣べ伝える限り、この世界は、決して滅びることはないのです。「主の御名」、「神の独り子の名」、「愛」という御名が大切にされるかぎり、神の愛は、私たちの愛は、ずっと生き続けるのです。