2025/8/17 年間第20主日 ことばの祭儀、お説教

 

[8月17日/年間第20主日]


 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。











[お説教]

教皇フランシスコは、今年の聖年についての文書、「希望は欺かない」の中で、次のように述べています。「希望の最初のしるしは、世界の平和といいうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨劇を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています。この人たちに、どんな苦しみがさらに必要だというのでしょうか。」

フランシスコ教皇のこの言葉は、今日の福音の、主イエスの言葉と重なります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、どんなに苦しむだろう。」

主イエスによって投じられた火とは、私たちの心を燃え立たせる火です。どのような困難があっても、世界の平和という希望を失わせない火です。すべての人と平和を分かち合いたいという愛へと駆り立てる火です。世界の平和は必ず実現すると信じる続けさせる火です。この平和の火は、平和旬間に燃やせば良いという火ではありません。主は、この火をいつも燃やし続けるように求めておられるのです。そして、この火を、私たち一人一人の心に投じ続けておられるのです。

平和の火を燃やし続けるために、私たちは過去を忘れないようにしたいと思います。過去のことは忘れて、未来に向かって、前向きに生きていこう。過去のことをあれこれ言っても過去を変えることなどできないのだから、これからのことだけを考えよう。私たちは、このような思いに駆られることがあります。しかし、過去を忘れて、未来を築いていくことはできません。あまりにも多くの人に苦しみをもたらした過去の惨劇を忘れて、平和な未来を望むことはできません。過去の惨劇を知ってこそ、心から、同じ惨劇を繰り返してはならないと思えるのです。多くの人が苦しんだことを知ってこそ、これ以上苦しむ人が出ないでほしいと、本当に願うことができるのです。これ以上の苦しみは必要ないという熱い思いがこみ上げるのです。

私たちは、平和の火を燃やし続けるために、今、この世界で苦しんでいる人々のことを忘れないようにしたいと思います。今、この世界では、自分さえ、自分の身内さえ、自分の国さえ平和であればよいという思いが広がっています。私たちは、自分たちだけの平和を守ろうとする時、自分たちに属さない人のことに無関心になります。自分たちに入っていない人の苦しみは、自分たちには関係がないこととして、無視され、忘れ去られます。主イエスは今日の福音で、はっきりと、ご自分が、「地上に平和をもたらすために来た」のではないと言われます。ここで言われている「平和」とは、自分たちだけの平和のことであると言えます。主は、「分裂」という言葉を用いて、こうした、自己中心的な平和に対して挑戦されます。自分たちだけの平和が、分裂をもたらし、多くの人を苦しめていることを思い起こさせます。実際、自分たちだけの平和を守ることが、世界の平和を実現困難にしているのです。平和を守るためという理由で始められた戦争が、多くの人から、平和という希望を奪っているのです。

私たちは、ただ忘れないということで満足できません。愛の火は、私たちが、苦しんでいる人々とともに苦しむように駆り立てているのです。今日の福音で、主イエスは、「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言っておられます。ここで、主が言われる洗礼とは、主の受難と復活です。そして、私たちが受けた洗礼でもあります。私たちにも、受けなければならない洗礼があるのです。「洗礼」は、救いの恵みです。しかし、自分だけが救われる恵みではありません。すべてのいのちが救われるために、ともに苦しむことができるという恵みです。苦しんでいるいのちとともに、すべてのいのちの平和を目指すことができるという恵みです。愛の火に生かされる恵みです。私たちを清める水は、苦しんでいる人の、悲しみの涙なのです。世界の平和が実現した時流される、喜びの涙なのです。

平和旬間は、もう終わっています。しかし、希望の巡礼者である私たちは、世界の平和という希望を抱いて歩み続けていきます。私たちが歩んでいる巡礼の道は、主イエスによって投じられた火によって照らされている道なのです。自分たちだけの平和を守るために、途中で立ちどまる道ではないのです。すべてのいのちの平和という希望に燃えて、日々、ともに歩み続ける道なのです。

2025/8/15 聖母マリアの被昇天 お説教

[8月15日/聖母マリアの被昇天] 


[お説教]

今日の福音で、聖母マリアは、救いの希望を分かち合うために、エリサベトを訪れます。マリアは、希望の巡礼者です。私たちも今日、この分かち合いに加わります。 

希望の分かち合いを広げていきます。 

聖母マリアの被昇天という希望を、まわりの人と分かち合います。被昇天とは、すべてのいのちが、マリアのように救われるということなのです。 


では、マリアがエリサベトと分かち合った救いの希望とは、どのような希望でしょうか。

それは、すべてのいのちが、ともに救われるという希望です。 

すべてのいのちが、「ともに天の栄光に上げられ」るという希望です。 

「天の栄光」とは、神に大切にされている、きわめてよい存在として、輝くということです。それでは、喜びに満ちて、救いの希望を宣言するマリアの預言に心の耳を傾けましょう。


すべてのいのちが、きわめてよい存在として、輝くために、主は、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」ます。 

思い上がる者とは、神に生かされていることを忘れ、隣人に支えられていることに感謝しない者のことです。自分がいつも正しいと思い込み、祈りを怠り、隣人に耳を傾けない者のことです。 

神は、こうした者たちを回心へと招かれます。祈りがなければ生きていけない、まわりの助けがあるから生きていけるという気づきを与えられます。そして、権力ある者を、まわりの人を自分の思い通りにするという暴力を振るうことから解放して、神と隣人に仕える喜びを与えてくださいます。祈りと感謝を忘れず、喜んで仕える人こそ、救われている人、輝いている人なのです。 


マリアはさらに、「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と宣言します。 

神の前では、すべての人が尊い存在です。私たちが優れているから尊い存在なのではなく、神に愛されているから、皆尊い存在なのです。 

マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言って、神を賛美しています。マリアは、神の恵みの大きさ、神の愛の深さを賛美しているのです。 


私たちは、自分の貧しさ、自分の弱さを、謙虚に認める時、神に愛されていることを体験し、すべてが恵みであることに気づき、感謝するようになるのです。すべてのよいものを、まわりの人と分かち合うようになるのです。神から与えられたものすべてを、 皆で分かち合うことで、すべてのものが、きわめてよいものになるのです。 

分かち合うから、飢えた人が豊かさを味わい、富める者が貧しい人の苦しみを知るのです。天の栄光に上げられる人は、すべてのいのちと、神の恵みを分かち合うのです。神の愛の深さに、隣人への愛で応えるのです。 


6日に始まった平和旬間は、今日が最終日です。 

平和とは、すべてのいのちが、尊い存在として、天の栄光で輝くことだと言えます。 

すべてのいのちが、良いものを分かち合えることだと言えます。 

今の世界では、この分かち合いが実現していません。実現していないどころか、すべてのいのちが、最も悪いものによって、滅亡するかもしれないという危機的状況にあります。 

最も悪いものの一つは、核兵器です。希望の巡礼者である私たちは、「核による抑止力」に希望を見い出すことはできません。「核なき世界」こそが、私たちの希望です。 


先週の9日に出された「長崎平和宣言」の中で、次のように述べられています。 


「『人類は核兵器をなくすことができる』。強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に『地球市民』という言葉が根付きました。 

この言葉には、人種や国境などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。 

この『地球市民』の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。」 


マリアとエリサベトの希望の分かち合いは、「地球市民」の分かち合いです。 

希望の巡礼者である私たちも、この分かち合いに加わり、この地上を、「地球市民」として歩んでいきたいと思います。 

すべてのいのちが、きわめてよい存在として、輝くことを願って、仕え合いながら、ともに歩んでいきたいと思います。


2025/8/10 年間第19主日 ことばの祭儀、お説教

 [8月10日/年間第19主日]

 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。











[お説教]

主イエスは今日、主に呼ばれて集まっている私たちに、次のように語りかけて、私たち一人一人を励ましておられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

平和旬間を歩んでいる私たちにとって、「神の国」とは、真の平和です。私たちは、この平和を、主イエスからいただいています。私たちは、ミサやことばの祭儀の時、「主の平和」と言って、互いにあいさつをします。このあいさつによって、私たちは、神から与えられた平和を分かち合います。私たちが真の平和をいただいているということを、確認し合います。そして、この平和を、毎日の生活の中で、宣べ伝えていこうと励まし合います。

主イエスが言われるように、私たちは、「小さな群れ」です。お金も力もありません。小さな愛の業しかできません。今日の福音で、「ともし火」という言葉が出てきますが、ともし火とは、私たちが実行している、小さな愛の業です。小さな愛の業を実行している私たちが、ともし火です。小さな群れですから、小さなともし火しかありません。主は今日、私たちに、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言っておられます。「自分ができる小さな愛の業で、まわりの人に仕えなさい」という意味です。小さな愛の業で、喜んで、互いに仕え合うことが、神の国であり、私たちが求めている平和であると言えます。

今日の福音のたとえ話には、「僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」主人が登場します。この主人は、仕えておられる主イエスのことです。主こそ、私たちに、すべてのいのちに仕えておられる方なのです。私たちが、まわりに仕えている時、ともに仕えてくださる方なのです。私たちが仕える時、キリストが仕えておられるのです。教会は、キリストの生きている姿です。私たち教会は、今、この世界で、すべてのいのちに仕えるキリストとなるように招かれているのです。実際、仕えるキリストとなっているのです。なろうとして、日々祈り、努力しているのです。キリストのように仕えることで、真の平和を証ししているのです。

今日の福音で、主イエスは、「恐れるな」と言っておられます。恐れがある限り、真の平和は訪れません。恐れがあるところに、神の国は実現していません。人は、恐れを抱く時、自分を守ろうとするからです。自分を守るために、壁を築き、武器を手にするからです。壁や武器は、私たちを恐れから解放しません。さらに高い壁、さらに強力な武器をもたらし、恐れが大きくなっていくだけです。そして、壁に遮られて、ともし火は見えなくなり、武器を持つ手は、ともし火を持てなくなります。壁や武器は、私たちから、愛であるともし火を奪います。恐れがある限り、愛は成り立ちません。核兵器を始めとする大量破壊兵器は、人間の恐れが作り出したものです。恐れから解放されるために、恐れを大きくしているのです。

平和旬間を過ごしている私たちは、この世界から、愛を妨げる壁が取り除かれ、あらゆる武器がなくなることを願っています。一人一人が安心して、愛のともし火をともせる日が、必ず来るという希望を抱いて、希望の巡礼者の道を歩んでいます。そして、2021年に始まったシノドスの歩みも続いています。シノドスとは、神の国の完成、真の平和を目指して、ともに歩むことです。私たちは、この歩みに加わる人が増えていくことを望んでいます。小さな群れが、シノドスの群れになるという希望を持っています。

教皇レオ14世は、今年の5月8日に、最初の祝福を祈った時、次のように述べています。「わたしたちはシノドス的な教会になることを望んでいます。それは、道を歩む教会、常に平和を求め、常に愛の業を求め、とくに苦しむ人に常に寄り添うことを求める教会です。」常に愛と平和を求めて、ともに歩んでいきましょう。一人一人のともし火が消えないように、大切に守り合いながら、ゆっくりと歩んでいきましょう。神の愛に希望を置いて、隣人の愛を信頼して、互いの歩みを気遣いながら、一歩一歩、歩んでいきましょう。

2025/8/3 年間第18主日 ことばの祭儀、お説教

 [8月3日/年間第18主日]

 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。










[お説教]

今週の水曜日、主の変容の祝日である6日から、聖母マリアの被昇天の祭日である15日まで、私たちは、平和旬間を過ごします。希望の巡礼を歩んでいる私たちは、この10日間、世界に真の平和が訪れることを、熱心に祈り、日々の生活の中で、平和のために働く決意を新たにします。希望の巡礼を、真の平和を目指す巡礼として、ともに歩みます。

戦後80年を迎えた今年、日本カトリック司教団から、「平和を紡ぐ旅-希望を携えて」という平和メッセージが発表されています。その中で、「真の平和」について、次のように述べられています。「聖書が語る『平和』は、もともと『欠けたところのない状態』という意味をもつことばです。その意味で、平和は、単に戦争や争いがない状態なのではなく、この世界が神の前に欠けるところのない状態、すなわち神がきわめてよいものとして造られたこの世界のすべてが、それぞれ尊重され、調和のうちにある状態のことだといえるでしょう。」

今日の第二朗読で、使徒パウロは、希望の巡礼者である私たちに、「上にあるものを求めなさい」と呼びかけています。上にあるものとは、真の平和のことではないでしょうか。パウロは、「キリストが神の右の座に着いておられます」言っていますが、その意味は、真の平和が実現しているということではないでしょうか。キリストが尊い存在とされているということは、すべてのいのちが尊い存在とされているということです。キリストは、私たちのいのちだからです。そして、すべてのいのちが、互いを尊い存在とし、大切にし合っていることが、真の平和なのです。私たちは今、上にある、真の平和に「心を留め」、地上のものを奪い合うことに「心を引かれないように」するように励まされているのです。私たちは、上にある、キリストの平和を、私たちが生きている、この地上に実現したいのです。私たちは、天上に逃げることも、地上から逃げることもできません。天上の平和を目指して、この地上を、一歩一歩歩んでいくしかないのです。平和という希望の道を、キリストの愛に生かされて、歩んでいくしかないのです。この歩みこそ、希望の巡礼者の歩みなのです。

今日の福音で、主イエスは、ここに集まっている私たちと、「ある金持ち」のたとえ話を分かち合ってくださいます。この金持ちは、畑が豊作となり、自分の財産を蓄えるための倉を、新たに建てようとします。財産を蓄えるための倉を大きくしようとします。自分だけが、「食べたり飲んだりして楽し」むために、自分の財産だけを守ろうとします。金持ちは、財産のことに「心を引かれ」て、いのちのことに「心を留め」なくなります。倉を大きくすることが、最優先のことになります。金持ちたちは、倉を大きくすることを競うようになります。いのちを養うはずの穀物は、倉を満たすための、倉を大きくするための、大きくし続けるための手段になります。いのちを支えるためのはずだった、穀物の倉が、いのちを、人びとの生活を犠牲にして大きくなっていきます。倉が、いのちを脅かすようになります。

司教団は今年、平和メッセージとともに、「核兵器廃絶宣言2025」を発表しています。この宣言の中で、「核兵器の存在は、神がきわめてよいものとして造られたこの世界と人間の尊厳をおとしめるものであり、すべてのいのちを脅かす深刻な脅威です」と明言されています。核兵器は、大きくなっていく倉と同じです。一部の者たちの財産を守るために、あまりに多くのいのちを犠牲にするものです。さらに、倉が大きくなっていく時、倉を建てた者は、自分だけで生きていくことができるという誤った考えをもつようになります。大きくなった倉の中に留まり、倉の外にいる人と関わらなくなります。倉の外にいる人が、自分の脅威になります。倉の外にいる人が飢えていても、気にならなくなります。倉を建てた者の関心事は、倉の中の穀物の蓄えが増えていくこと、他の倉より、大きな倉を建てることだけになります。倉を大きくするために、穀物の豊作を望むようになります。いのちのことなど、どうでも良いよいことになります。核兵器も同じです。人びとから、対話をしようという姿勢を失わせ、自分たちだけを守るシェルターに閉じ込め、外の人のいのちに関心を持たないようにします。

司教団は、「わたしたちは、キリストの福音に従い、対話を通じた平和の実現を目指し、すべての人の生命と尊厳を守るために、核兵器を完全廃絶するよう強く求めます」と宣言しています。希望の巡礼者である私たちも、すべての希望を奪う核兵器の完全廃絶を求めていきたいと思います。


 以下のリンクからカトリック中央協議会のページに移動します。




2025/7/27 年間第17主日 Youtube配信ミサ、お説教

[7月27日/年間第17主日]


 [Youtube配信ミサ]
 以下のリンクから配信ミサ(Youtube)に移動します。










[お説教]

「イエスはある所で祈っておられた。」主イエスとともにエルサレムへの道、死と復活への道を歩んでいる私たちは、今日、主とともに祈るように招かれています。日々祈り続けるよう励まされています。そして、主は私たちに、一つの祈りを教えてくださいます。もう一つの「主の祈り」です。私たちは教会で、ともに祈る時、マタイ福音書で示されている主の祈りをとなえます。しかし、ルカが伝える祈りをとなえてはいけないということではありません。主の祈りとして唱えることができます。特に個人の祈りとして、自由にとなえることができます。

ルカが伝える主の祈りは、「父よ」という呼びかけで始まります。私たちは、主イエスご自身が祈られる時と同じく、「父よ」と呼びかけて、祈り始めてよいのです。「父よ」という言葉は、「私たちを愛してくださる方よ、私たちが愛している方よ」という意味です。神に「父よ」と語りかける時、私たちは、神の子として、神の愛に包まれて祈っていることになります。私たちに対する神の愛に応えていることになります。神の愛に応えて、私たちも、互いに愛し合いたいと願うことになります。「父」という言葉を口にしたくない人は、他の言葉でもかまいません。自分を大切にしてくれる人、自分が大切に思っている人を表す言葉ならば、その言葉を使って呼びかけたら良いと思います。

そして、「御名が崇められますように」という言葉が続きます。神の御名とは、神がどのような方であるかを表すものです。神は、すべての人とともにおられる方です。すべてのいのちとともに生きておられる方です。いつでも、どこでも、愛であられ続ける方です。私たちは、神の、こうしたあり方が崇められますよう祈ります。そして、この祈りをささげる時、私たちは、地上のすべてものが聖なるものであることを思い起こします。神が大切にされる、すべてのいのちは、聖なるいのちなのです。神がおられる時間と空間は、聖なる時と所なのです。

この後に、「御国が来ますように」という祈りがささげられます。今、この地上では、さまざまな暴力によって、多くのいのちが傷つき、生きる喜びを、生きること自体を奪われています。すべてのいのちが、平和に生きるための時間と空間が、強欲な者たちによって奪われています。強欲な者たちは、自分たちの暴力を、秩序の維持、国益の名のもとに、正義であると主張しています。そして、苦しめられている人びとの、生きるための抵抗をテロや暴力と決めつけています。「御国が来ますように」という祈りは、こうした現実にしっかりと向き合って、ささげる祈りなのではないでしょうか。そして、すべてのいのちが生きる喜びを感じる時間と空間が、この地上に来ることを、心から願う祈りではないでしょうか。私たちが、あらゆる暴力から解放されることを願う祈りではないでしょうか。

神の国が来るために、私たちも、日々働かなくてはなりません。暴力によって、まわりの人を自分の思い通りにするのではなく、愛によって、ともに生きていくようにしなければなりません。やりたくないことでも、しなければならない時があります。聞きたくないことに、耳を傾けなければならない時があります。行きたくない所にも、行かなければならない時があります。大切にしていたものを、思いきって、手放さなければならない時もあります。こうした働きのために、日々の糧が必要です。だから、私たちは、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ります。この祈りをささげることによって、私たちは、日々の糧が神から与えられていることを忘れず、感謝を怠りません。そして、神から与えられる糧を皆で分かち合うことができます。神の国が来ることを願って分かち合う糧が、神の国が来ていることを体験させる糧になります。神の国のために働く時、神の国が来ていることになります。

そして、主イエスは、私たちに、「赦し」を願うよう励まされます。神の赦しとは、今日の第二朗読の使徒パウロの言葉で表すならば、「神はキリストと共に生かしてくださった」ということです。赦しとは、「罪に死んでいた」私たちが生かされるということです。そして、私たちも、互いに赦し合うよう励まされています。私たちは、神の赦しによって与えられたいのちを分かち合うことで、ともに生きていくことができます。赦し合うことなど不可能だという「誘惑に遇わせないでください」と祈りながら、赦し、赦し合いという希望を抱いて歩んでいくことができます。今週も、主の祈りをささげながら、希望の巡礼者の歩みを続けていきたいと思います。神の国を目指す希望の巡礼者の歩みこそ、神の国が来ていることの証しとなるのです。

2025/7/13 年間第15主日 お説教

 

[7月13日/年間第15主日]

[お説教]

 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」この言葉は、私たちを励ます、希望の言葉です。そして、私たちが、この励ましに応えて、御言葉を行う時、行おうとする時、私たちは、本当に生きていることになるのです。「永遠の命を受け継ぐこと」になるのです。「命が得られる」のです。

 

今日の福音で、主イエスが語られる、たとえ話は、私たちがよく知っている話です。主は、このたとえ話によって、「半殺しに」された人を助けたサマリア人のように、日々出会う人の隣人になりなさいと励ましておられます。すべての人の隣人となることで、幸せに生きなさいと励ましておられます。

 

このたとえ話に登場するサマリア人は、幸せなサマリア人です。最も大切なものを見つけ、その大切なものを守るために、迷うことなく、行動することができたからです。最も大切なものを守るために、自分の持ちものをささげることができたからです。

 

「追いはぎに襲われた人」は、「半殺しに」されていました。「半殺し」にされた人を見ただけでは、その人が生きているかどうかがわかりません。たとえ話に登場する、「ある祭司」と「レビ人」は、半殺しにされた人が、もう死んでいるのかもしれないと思ったのではないでしょうか。そして、自分も襲われて、この人のようになりたくないと恐れたのではないでしょうか。二人は、半殺しにされた人を見て、「道の向こう側」に行ってしまいました。二人は、死を恐れ、死を避けようとするあまり、いのちという、最も大切なものを見失いました。死という絶望に支配され、いのちという希望を持つことができませんでした。いのちの「向こう側」に行ってしまったのです。

 

サマリア人は、どうだったでしょうか。サマリア人は、半殺しにされた人を、「見て憐れに思」ったのです。まだ生きていると思ったのです。憐れに思うとは、苦しんでいるいのちを発見することです。最も大切なものを見い出すことです。他人の苦しみや悲しみを、自分の痛みや苦しみのように感じることです。感じて、ともに生きてほしいと、強く願うことです。願うだけでなく、いのちに近づき、触れることです。いのちのために、自分ができることは何でも、すること、しようとすることです。そして、ともに生きたいという希望を分かち合うことです。向こう側に行ってしまった二人は、憐れに思うことができませんでした。痛みや苦しみを、ともに感じることができませんでした。ともに生きたいという希望を持つことができませんでした。

 

さらに、祭司とレビ人は、死体やけが人の血に触れると汚れるという律法を思い出し、清めの儀式のために時間をかけたくないと思ったかもしれません。二人は、忙しかったのかもしれません。さまざまな務めがあり、多くの求めに応じなければならなかったのかもしれません。傷ついた人に関わる余裕がなかったのかもしれません。サマリア人は、傷ついた人を助けるために、たっぷりと時間をかけました。

 

今日、主の御言葉に心を傾けている私たちは、憐れに思って、足を止めたサマリア人のようになりたいと願っています。サマリア人のようになれたら、幸せだと思っています。実際、サマリア人のように、傷ついたいのちを助けたこともあります。そのために、大切な時間を費やしたこともあります。それと同時に、道の向こう側に行ってしまった祭司やレビ人のような行動をしたこともあります。憐れに思いながらも、恐くて、余裕がなくて、見て見ぬふりをして、逃げてしまったこともあります。私たちは、サマリア人であり、祭司やレビ人なのです。今日のたとえ話の中で、サマリア人も、祭司やレビ人も、同じ道を歩んでいます。この道こそ、すべての人が隣人になっていく道だと言えます。隣人になって、ともに生きることができるという希望の道だと言えます。希望の巡礼者である私たちは、サマリア人のように幸せになることができると信じて、歩み続けたいと思います。善い、幸いなサマリア人という希望を持って、隣人になっていく道を歩んでいきたいと思います。隣人になるという「永遠の命を受け継ぐ」道を歩んでいきたいと思います。今日は祭司やレビ人になってしまったが、明日は、サマリア人になろう、きっとサマリア人なれるという希望を持って、ともに歩んでいきたいと思います。

 

2025/7/6 年間第14主日 お説教

 [7月6日/年間第14主日]

[お説教]

今日の福音が伝えている「七十二人」は、ここに集まっている私たちのことです。私たちは、この七十二人に加わり、福音を宣べ伝えるように、福音宣教の 喜びを体験するように招かれているのです。 前教皇フランシスコが、『福音の喜び』という文書の中で、はっきり言っている ように、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。」 主イエスに呼ばれて集まっている私たちは皆、「宣教する弟子」なのです。

 

宣教する弟子である私たちは、「収穫の主」に祈り続ける弟子です。「収穫のために働き手を送ってくださるように」、熱心に祈り続ける弟子です。私たちにとって、収穫とは、すべての人が救われることであり、ほんとうの幸いが、すべてのいのちに訪れることです。私たちは、祈ることで、この幸いが 神から与えられる恵みであることを忘れません。そして、祈りによって、自分の力だけでは、救いの福音を宣べ伝えることはできないことを、謙虚に認めます。謙虚に認めて、ともに宣教している仲間に感謝します。仲間が増えることを、心から願います。祈りがなければ、福音宣教はできません。祈ることから、福音宣教は始まるのです。

 

主イエスは、宣教の旅には、「財布も袋も履き物も持って行くな」と命じておられます。また、「途中でだれにも挨拶するな」と言っておられます。 これらの言葉は、大切なことを見失うなという意味ではないでしょうか。大切でないことに気をとられ、時間をとられて、何が大切かわからなくならないように注意しなさいという意味ではないでしょうか。大切なことは、福音が伝わるということなのです。皆が福音を知って、幸せになるということなのです。あまりに多くのものを持ちすぎて、最も大切な福音を、どこかに置き忘れていないでしょうか。まわりのことを気にしすぎて、空気を読みすぎて、福音が聞こえなくなっていないでしょうか。

 

それでは、私たちが宣べ伝える福音とは、何でしょうか。 それは、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音です。 神の国が近づいているということは、だれもが愛されていることを、心から信じることができ、安心して愛し合うことができる時が近づいているということです。

この福音を分かち合うことが、福音を宣べ伝えるということなのです。言葉だけではありません。神の国が近づいたという体験を分かち合うのです。小さな愛の行いを続けていくことで、神の国が、すでに、少しずつ、実現していることを証しするのです。

 

今日の福音では、主イエスが、七十二人に、「その町の病人をいや」すよう命じておられます。病人のいやしとは、神の愛を求めている人と、愛を分かち合うことです。自分は愛されていないと絶望している人と、愛されている喜び、愛することができるという希望を分かち合うことです。自分が神から愛されている、その愛によって、愛を求めている人を愛することです。神からいただいたいのちを、誰かのために生きることで、その人とともに、神のいのちを生きることです。ともに神のいのちを生きることで、福音の喜びを分かち合うことなのです。

 

さらに、今日の福音では、宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合える人のところに留まり、そこでの交わりを大切にするように説かれています。 「そこで出される物を食べ、また飲みなさい」という言葉は、交わりを大切にしなさいという意味ではないでしょうか。 キリストの平和に満たされた交わりこそ、福音宣教する者を支えるものです。宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合う人々の交わりから、この世界に派 遣されていきます。そして、福音宣教とは、キリストの平和に満たされた交わりが広がっていくことでもあるのです。神の国とは、キリストの平和を分かち合う交わりでもあるのです。

 

もう一つ、忘れてはならないことがあります。私たちが宣教するところには、後から、主イエスも来られるということです。 福音記者ルカが、七十二人について、「御自分が行くつもりのすべての町や村に 二人ずつ先に遣わされた」と伝えている通りです。 私たちが宣教したところには、後から、主御自分が来てくださるのです。私たちは、主が、後から、来られるという希望を宣べ伝えながら、希望の巡礼者 としての歩みを続けたいと思います。

 

このブログを検索

2025/8/17 年間第20主日 ことばの祭儀、お説教

  [8月17日/年間第20主日]   [ ことばの祭儀 ]  以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。 年間第20主日 ことばの祭儀 [お説教] 教皇フランシスコは、今年の聖年についての文書、「希望は欺かない」の中で、次のように述べています。「希望の最初のし...

ブログ アーカイブ