[説教]
ことばの祭儀と神父様のお話
1月11日/主の洗礼
1月4日/主の公現
[説教]
私たちは今、降誕祭を祝っています。そして、「主の公現」の祭日である今日、さまざまな違いを越えて、すべての人が、主の降誕の喜びに満たされることを祈っています。すべての人が、私たちの喜びの分かち合いに加わることを願っています。
今日の福音に登場する「占星術の学者たち」は、救い主に会いたいという、大きな望みを抱いて旅をしている人たちです。この人たちを歩みを、「あの方の星」が導きます。この星は、学者たちの救い主に会いたいという願いと、その願いに応えられる神の導きを表しています。救い主を求めている人たちを救い主のもとに導くしるしです。この星は、決して大きな、すぐに見える星ではなかったと思います。むしろ、細心の注意を払わないと見えない、ごく小さな星だったと思います。救い主を求めている学者たちは、この星を発見して、どのような苦労も厭わず、旅を続けているのです。そして、救い主に会うことができ、「喜びにあふれ」ます。学者たちが献げたた三つに贈り物は、この大きな喜びを表しています。自分たちの願いがかなえられたことへの感謝を表しています。
この星は、誰にでも見えるわけではありません。実際、福音記者マタイが伝えているように、救い主を求めていないヘロデ王たちには、この星が見えません。救い主に会うことを心から願って、空を見上げさえすれば、すぐに見えるはずなのに、そうしないのです。祭司長たちや律法学者たちも、ただ書かれたものを調べているだけで、外に出て、空を見上げようとしません。ベツレヘムに行けば良いとわかっても、そこに出かけようとしません。すぐ近くなのに、動こうとしません。ここに救いはないのです。
占星術の学者たちは、救い主に会うという願いがかなえられた後も、「別の道を通って」、旅を続けます。新たな旅を始めます。学者たちの旅は、決して終わることはないのです。この新たな旅は、旅の中で出会う人々に、救い主がお生まれになったという福音を宣べ伝える旅です。人々と喜びを分かち合う旅です。そして、人々とともに、救い主との新たな出会いを求めるたびです。
今日、主の公現を祝っている私たちは、占星術の学者たちの旅に加わるように招かれています。福音書は、学者たちが三人であったとは伝えていません。学者たちが何人であってもかまわないのです。救い主を求めて、日々旅をしている者は、救い主と会えた喜びを分かち合っている者は、すべて、「占星術の学者たち」なのです。今日、使徒パウロは、私たち教会が、「福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを…受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者」であると宣言しています。私たち教会は、ともに、旅を続けている「占星術の学者たち」なのです。
そして、占星術の学者たちは、小さなものに、注意深く目を向けている者たちです。天を見上げ、闇に中でも、小さな星を見出し、しっかりと見つめる者たちです。小さな星は、実際は、巨大な星で、私たちから遠く離れているところにあるから、小さく見えるのです。小さな星は、すべてのいのちを包み込む神の大きな愛のような、大きな星なのです。占星術の学者たちは、私たちは、この大きな星に近づこうとしているのです。そして、神は、私たちのところに、光よりも速いスピードで、来られたのです。今日の福音は、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と伝えています。光よりも速いスピードで、私たちのところに来られた救い主の姿を伝えています。
目立たない、小さな家の中におられる、幼子。母マリアがそばにいなければ生きていけない、救い主イエス・キリスト。この小さないのちこそ、すべてのいのちを包み込む、大きな愛です。今は、この愛が小さく、頼りないと思えるかもしれません。そう思うのは、私たちが、まだ、この愛から遠く離れているからなのです。だから、今、占星術の学者たちのように、この愛を求めて、新たな旅を始めたいと思います。日々、「別の道」が用意されている旅を、新たな気持ちで始めたいと思います。今は、小さな愛しか思えないけど、旅を続けていけば、大きな愛であることがわかる。これが、私たちの希望です。この希望を抱いて、希望の巡礼者として歩んでいきたいと思います。今の世界は、闇の中にあると言いたいほどの、酷い状況です。しかし、だからこそ、小さな星の光、希望の光が、はっきりと見えるのではないでしょうか。この希望の星に導かれて、これからも、ともに歩んでいきましょう。
1月1日/神の母聖マリア(降誕の八日目)
[説教]
私たちは今、降誕祭を祝っています。「降誕の八日目」である今日、羊飼いたちは、「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。天使は、羊飼いたちに福音を告げました。それは、すべてのいのちのために、「今日…救い主がお生まれになった」という喜びの福音であり、「地には平和、御心に適う人にあれ」という平和の福音です。「世界平和の日」である今日、私たちは、羊飼いたちが分かち合う福音に耳を傾けるよう招かれています。私たちは今日、聖家族とともに、聖家族として、主のご降誕がもたらした平和を分かち合うのです。
「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」が、私たちの平和です。目の前で寝ている乳飲み子想像してみましょう。乳飲み子を前にして、私たちは争いを起こそうとするでしょうか。そんなことは、決してしないと思います。できないと思います。私たちは皆、自然と優しくなるはずです。優しいまなざしで、優しい声で、乳飲み子に語りかけるはずです。どう接したら良いかわからなければ、かける言葉が見つからなければ、こわがらせないように、安心して寝ていることができるように、細心の注意を払うはずです。そして、乳飲み子のそばにいる私たちは、語り合うはずです。「かわいいね。あっ、笑った。この子が、ずっと笑顔でいられる世の中であってほしいね。うあっ、泣きそうだ。だいじょうぶだよ、こわくないよ。みんな、あなたのことが大好きなんだだから。」この乳飲み子に、私たちは何をあげようとするでしょうか。欲しいモノをなんでも手に入れることができるようにと、お金をあげるでしょうか。自分の身を守ることができるようにと武器を与えるでしょうか。高収入が得られる職業を得ることができるようにと、勉強を教え始めるでしょうか。そんな愚かなことをする人は、一人もいないはずです。もし、乳飲みの手に、お金や武器を握らせようとしたら、ひどい暴力となり。決して容認できない虐待となります。私たちができること、それは、この子に愛を伝えることだけです。小さな手をそっと握って、「幸せになってね。みんなに愛されてね」と言葉をかけることぐらいしかできないと思います。そう祈ることしかできないと思います。これが、私たちに与えられる、キリストの平和なのです。この平和を、この優しい心を、誰もが持ち続けることができる時、乳飲み子の前での優しい語り合いが、安心してできる時、世界平和は実現するのです。
今日の福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と伝えています。マリアが心に納めて、思い巡らしていたこととは、目に前で実現しているキリストの平和です。私たちも今日、マリアとともに、キリストの平和を心に納めて、思い巡らしたいと思います。私たちの日常生活の中で実現している平和を見い出し、大切にしたいと思います。そして、身近で実現している、小さな平和を大きくしていきたいと思います。聖家族が幼子イエスを、養い育てたように、私たちも、キリストの平和を育てていきたいと思います。
今年の「世界平和の日」の教皇メッセージで、教皇レオ十四世は次のように述べています。
「『平和を所有したいなら、平和はそこにある。われわれの手の届くところにある。われわれは何の労苦もなしにそれを手に入れることができる』。平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」
平和はもう、この世界に与えられています。不可能なことでも、遠い理想でもありません。マリアのように、羊飼いたちのように、キリストの平和を、喜んで受け取れば良いだけです。この世界が、幼子がもたらした平和を、感謝のうちに受け取りますように、今日、心から、ともに祈りましょう。
12月28日/聖家族
[お説教]
「聖家族」の祝日は、すべての家族が、神に愛されていることを祝う日です。聖家族とは、神に愛されている家族のことであり、すべての家族は神に愛されています。だから、すべての家族が、聖家族なのです。
福音記者マタイは、救い主イエスが、いのちの危険を免れるために、ヨセフとマリアに守られて、エジプトに逃げなければならなかったことを伝えています。ヘロデは、すべてのいのちを救うために来られた方を殺そうとしたのです。いつの時代にも、必ずと言ってよいほど起こることですが、人間は、権力や富を得ると、まわりのいのちを犠牲にしても、自分が得たものを守ろうとします。富や権力が大きくなればなるほど、犠牲にするいのちを増やしていきます。今日の福音朗読では省略されていますが、聖家族がエジプトに逃れた後、ヘロデが、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺したと伝えられています。テロリストがいるかもしれないという理由で、何の罪もないいのちが殺されていきます。多くの聖家族の生活が破壊されます。その結果、憎しみなど抱いていなかった人たちの心に憎しみが生まれ、新たなテロリストが誕生します。すべての家族を愛しておられる神は今、私たちに、自分の利益を守るのではなく、すべてのいのちを守るように命じておられます。すべての家族の愛を守るように命じておられます。愛されている喜び、愛する喜びが守られている限り、テロリストが生まれることはないのです。聖家族から、テロリストが生まれることは、決してないのです。
ヘロデは、聖家族を殺すことができませんでした。ヨセフは、寝ている時に、「起きて、幼子とその母を連れて」旅をするようにと告げられました。このお告げは、ヨセフにとって、神の愛の言葉でした。ヨセフは、神の愛を信じて、忠実に従いました。疑わず、反論せず、神から命じられたことを、すぐに実行しました。しかし、考えてみれば、「幼子とその母」とともに旅をすることは、大変な困難がともないます。住み慣れた土地を離れて、見知らぬ土地で生活をしなければならないことは、多くの場合、苦痛です。楽しい旅行ではないのです。生活をしなければならないのです。不安定な生活を強いられるのです。一所懸命に努力すれば、必ず報われる、とは言えないのが現実なのです。そして、今現在も、多くの聖家族が、困難な旅や不安定な生活を強いられているのです。すべての家族を愛しておられる神は、私たちに、まず、現代の聖家族の困難や苦労を理解する努力をするように求めておられるのです。私たちは、理解しようとしているでしょうか。物事を完全に理解することはできません。しかし、理解しようと努力することはできます。謙虚な気持ちになることはできます。理解しようとしていれば、優しくなれるはずです。自分のことを理解してほしいと思ってばかりいるから、まわりに優しくなれないのです。怒りがこみあげてくるのです。もっと、理解し合う努力をして、優しくなりましょう。優しくなっていくことから、すべてが始まるのです。優しい心でまわりを見る時、すべての家族が聖家族に見えるはずです。嬉しそうにしている家族を目にしたら、自然と笑顔になれるはずです。困難を抱えている家族のことを知ったら、涙が出てきて、祈りたくなるはずです。教会は、祈る人々の集まりです。祈る人とは、優しい心を持っている人なのです。
聖年の歩みが、終わろうとしています。しかし、希望の巡礼者に歩みは終わりません。聖家族が、希望の巡礼者だからです。ヨセフは、どのような困難をも受け入れて、旅を続けました。希望があったからです。今日の、自分の苦労が、すべてのいのちのための、より良い未来につながるという希望があったからです。私たちも、救い主の家族と同じです。私たちは、希望があるから、祈り続けます。希望があるから、教会に集まっています。私たちがささげているミサは、希望の祭儀です。希望の祭儀では、希望の歌が歌われ、希望のみことばが分かち合われます。私たちがささげる祈りはすべて、希望の、力強い宣言です。私たちが分かち合うパンは、私たちの希望であるキリストのからだです。一つのパンを分かち合う私たちも、キリストのからだとなります。聖家族となります。そして、私たちは、この世界の中で、毎日の生活を通して、希望の福音を宣べ伝えるために派遣されます。私たちは、これからも、聖家族として、希望の巡礼を続けていきたいと思います。希望は、私たちを欺きません。
12月25日/主の降誕
降誕祭が始まりました。1月11日の「主の洗礼」の祝日まで、私たちは、神のひとり子が、私たちの一人になられたことを、ともに祝います。
神のひとり子が、すべてのいのちを救ってくださったことを喜び、感謝します。今夜(昨夜の夜半)のミサの福音朗読で、救い主キリストの誕生が告げられます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日…、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この福音は、最初に、「羊飼いたち」に告げられました。
羊飼いたちは、神の「御心に適う人」たち、この地上に「平和」をもたらす人たちとされています。福音記者ルカは、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と伝えています。
羊飼いたちは、羊のそばに、いつもいて、ともに旅をし、羊のいのちを守り続けます。野宿をするとは、自分のいのちを危険にさらしても、羊のいのちを守り抜くということです。そして、羊も、人々の生活を支えるために、いのちを差し出すことになるのです。互いのいのちをケアし合う関係なのです。
羊飼いと羊のように、私たちも、互いのいのちをケアし合うならば、この世界に、真の平和が実現し、すべてのいのちが、生きている喜びで輝くのです。すべてのいのちの輝きこそ、神の栄光なのです。地上の平和が、天上の栄光となるのです。
今夜(昨夜)の福音には、住民登録を命じる、ローマ皇帝アウグストゥスが登場します。しかし、すべての住民を支配しようとする、この皇帝には、救い主誕生の福音は告げられません。
ローマ皇帝を始めとする権力者たちは、力で、暴力で、人々を支配しようとします。
権力者たちは、贅沢な生活を続けることにしか関心がありません。自分たちの生活を守るために、人々の生活を犠牲にします。人々が、自分たちの生活を守るために、権力者たちに抵抗する時、多くの場合、テロリスト扱いされて、命までも奪われることになります。
ここに、真の平和などありません。権力者たちのための平和は、偽りの平和なのです。支配されている人たちが、恐れて、沈黙を保って、おとなしくしていることは、平和ではなく、暴力と恐怖の支配なのです。
テロリズムとは、本来、こうした暴力のことなのです。こうした暴力があるところに、救いは、絶対に訪れないのです。
明日の日中(今日)のミサで、救い主の降誕のもう一つの福音が宣言されます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という福音です。神の愛が、言葉だけではなく、実行されるようになったという意味です。肉体を使って、愛が実行されるようになったという意味です。
しかし、肉体には、限界があります。できないことがたくさんあります。だから、協力し合って、愛の行いを実行します。肉体を持っているということは、一人では生きていけないということなのです。だれかにケアされて、生きているということなのです。私たちは、自分がまわりのいのちにケアされて生きていることに気づき、感謝する時、私たちが発する言葉は、愛に満ちた言葉になります。私たちの生きる姿は、神の愛をあらわすことになります。「言は肉となって」、この世界に、真の平和が実現します。そして、愛のみことばは、この世界の中に、「宿って」います。
「宿る」とは、「天幕を張る」という意味です。この世界の中を、旅をしながら、ともに生きていくということです。愛のみことばを宣べ伝え、分かち合いながら、旅をするということです。出会う人にお世話になりながら、出会う人の求めに応えて、お世話しながら、生きていくということです。お世話し合いながら、皆で愛を深め、大きくしていくことです。この歩みの中に、いのちがあるのです。希望の巡礼者である私たちは、このいのちとなって、「闇の中を歩む」人々と、希望を分かち合いながら歩んでいくように励まされているのです。
今日、すべてのいのちのために、救い主がお生まれになりました。救いとは、ともに生きているという喜びです。まわりのいのちにケアされて生きているという喜びです。肉体という限界があっても、まわりの人をケアすることができるという喜びです。ただそばにいることが、最高の愛になるという喜びです。肉体という限界があるからこそ、優しくなることができるという喜びです。あたたかい言葉を発すること、あたたかい沈黙を保つことができるという喜びです。そして、こうした喜びが、いつか、すべてのいのちを満たすという希望です。
私たち希望の巡礼者は、この希望に満たされて、これからも、歩み続けたいと思います。
12月21日/待降節第4主日
私たちは今日、「インマヌエル」という福音を分かち合っています。
待降節と降誕節は、この福音を分かち合い、宣べ伝える時であると言えます。
「インマヌエル」という言葉は、「我々と共に」という意味の「インマヌ」と、「神」を意味する「エル」という言葉からなっています。ですから、「インマヌエル」という言葉は、さまざまな意味を持っているということができます。
「神は、私たちと共におられた」と意味で捉えれば、神は私たちと共におられたという、私たちの救いの歴史を感謝し、賛美する言葉となります。
「神は、今、私たちと共におられる」という意味に取れば、私たちは救われているという、救いの宣言、喜びの宣言となります。「神は、私たちすべてのいのちと共におられるようになる」という意味を見い出す時、この言葉は、希望の福音となります。
希望の巡礼者である私たちの福音となります。
そして、「神が、私たちと共にいてくださいますように」という祈りの言葉にもなります。私たちが、苦難の時に叫ぶ祈りとなります。
苦難に満ちた世界に生きている私たちは、神が共におられることを忘れてしまいます。神が共に苦しみ、悲しんでおられることを信じることができなくなります。神が共に生きてくださっていることを否定してしまいます。
しかし、神は、私たちから、すべてのいのちから離れることはなさいません。離れることは、決しておできにならないのです。
「インマヌエル」とは、神が、すべてのいのちと約束されたことであり、この約束を、神は破ることがおできにならないのです。
私たち人間は、何度でも、約束を破ることができますが、神は、決して、おできにならないのです。ですから、私たちの祈りは、「私たちが、神が共におられることを忘れませんように」という祈り、「私たちの信仰を支えてください」という意味の祈りになると言えます。私たちは皆、救われていますが、救いを受け入れることができないのです。だから、祈りが必要なのです。
さらに、「インマヌエル」という救いを信じることで、今まであたりまえだったことに、疑問を持たなければならなくなります。今までの生き方を変えなければならなくなります。今日の福音に登場するヨセフは、この経験をしました。結婚前に身ごもったマリアと縁を切ることは、当時の社会であたりまえのことでした。しかし、「インマヌエル」の実現のために、マリアを自分のパートナーとして受け入れるよう求められたのです。
社会の常識に反することを行うように求められたのです。
マリアは、「聖霊によって身ごもってい」ました。聖霊こそ、「インマヌエル」です。
聖霊は、人間の思いを超えて、神の救いをもたらすのです。私たちの考えや生き方を変えることで、私たちを救うのです。ですから、私たちは、「神が共におられることで、私たちの生き方が変えられますように」と祈るように励まされているのです。
「私たちが変えられていく時、神が共におられるという喜びをお与えください」と祈るように励まされているのです。
私たちは、希望の巡礼を歩みながら、主の降誕を迎えます。今、救い主イエスは、弱く、小さいいのちの姿で、マリアの胎内におられます。私たち、すべてのいのちを包み込む、無限大の愛を、この世界にもたらすために、無限小のいのちとなっておられます。
この地球上に生きる、一つ一つのいのちが、かけがえのない存在であることを示すために、小さないのちである「インマヌエル」が、私たちのところに、もうすぐ来られます。分数の分子が、小さな数でも、分母が無限に小さくなり、ゼロに限りなく近づけば、その分数の値は無限大になります。このように、すべてのいのちの価値を無限大にする、無限小のいのちこそ、「インマヌエル」である御子の愛です。
希望の巡礼者である私たちは、この無限小のいのちに込められた無限の愛を証ししていきたいと思います。
見えないほどの小さないのちこそ、大きな希望であると宣言しながら、歩み続けたいと思います。
「インマヌエル」という希望の福音を宣べ伝えていきたいと思います。
12月14日 待降節第3主日
今日は、「喜びの主日」です。
主イエスが、すでに来られたことの喜び、今、私たちとともにおられることの喜び、再び来られることの喜びを分かち合う日です。
希望の巡礼者は、どのような時も喜びを失いません。主が与えてくださる喜びを分かち合いながら、この世界を歩み続ける巡礼者です。
救い主イエスが来られる喜びとは、どのような喜びでしょうか。
今日の福音で、主ご自身が、この喜びについて、はっきりと宣言しておられます。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
主イエスが、二千年前にこの世界に来られた時、この喜びがもたらされました。この喜びの時が始まりました。そして、主が再び来られる時、すべてのいのちが、すべての人がこの喜びを得ることになります。
では、今、私たちはこの喜びを、どう生きていけばよいのでしょうか。
毎年、主の降誕を祝えば、それで十分なのでしょうか。主が再び来られると、宣言し、ただ待っていれば、主が来られる喜びを宣べ伝えていることになるのでしょうか。
違うと思います。私たちは、日々の生き方によって、愛の行いによって、主が来られる喜びを実現していくように励まされているのです。
主が今、ともに生きておられる喜びを実現するように励まさているのです。
私たちの愛の行いは、立ち止まることから始まります。
私たちは、日常の生活の中で、よく走っていないでしょうか。何かから取り残されないように、走らされていないでしょうか。
そこで、走ることを止めて、ゆっくり歩いてみたいと思います。ゆっくり歩こうとする時、私たちは、急いで走っている人たちに恐怖を感じると思います。初めて訪れる大都市の中で、方向を見失い立ち止まる時、まわりの速い動きが暴力のように感じると思います。このように感じることこそ、さまざまな理由で、走ることができない人に生きにくさをもたらしているのではないでしょうか。そして、走ることを止め、立ち止まり、じっくりとまわりの様子を見て、まわりの音を聞く時、私たちは気づくはずです。
走っていた時、自分こそが見えていなかった、聞こえていなかったと。
立ち止まるという自由を、足が失っていたことを。そして、走らず、ゆっくり歩いて生きていけることこそが、喜びであることに気づくはずです。
走りたくても走れない人の気持ちがわかる時、まわりの人の苦しみや悲しみが感じることができる時、生きていることを実感できるはずです。走らされていた時は死んでいたが、立ち止まっている今こそ、生きていることに気づくはずです。本当の意味で、生きていることに、深い喜びを感じるはずです。
愛の行いとは、互いの弱さや貧しさを知り、支え合うことです。愛とは、ともに、弱く、貧しくなっていくことです。愛とは、強い者が弱い者に、何かをしてあげることではありません。富んでいる者が貧しい者に、何かを恵んでやることではありません。貧しさと弱さを分かち合うことです。私たちは、貧しく、弱いからこそ、分かち合い、愛し合えるのです。このことこそ、貧しい人の福音なのです。貧しい人は、福音を知らされていると同時に、福音を告げ知らせているのです。
この世界では、貧しくなることが、日々の生活が困難となることになっています。貧しいことが、避けるべきこと、恥ずかしいこととなっています。貧しさを免がれるために、まわりと争わなければならなくなっています。
主イエスが来られる時、天の国が来る時、貧しさは、愛されている喜び、愛し合える喜びとなるのです。天の国が完成しても、私たちの貧しさはなくなりません。私たちは皆貧しいからこそ、ともに生きることができるようになるのです。
私たちが、愛の行いを実行することで、救い主イエスが来られたことを証しすることができます。主が今、私たちとともに生きておられることで告げ知らせることができます。そして、主が再び来られるという希望を分かち合うことができます。
私たちの愛の行いは、この世界において、報われないことが多いです。しかし、報われないからこそ、愛であると言うことができます。
使徒ヤコブは、「主が来られるときまで忍耐しなさい」と言って、私たちを励ましています。忍耐して、愛の行いを続けていきたいと思います。弱く、貧しい私たちは皆、「天の国で最も小さな者」ですが、「洗礼者ヨハネより偉大な者」です。天の国が完成すること信じて、愛の行いを続けているからです。
希望の巡礼者として、私たちの希望、主が再び来られるまで、忍耐して、愛の行いを続けていきましょう。イザヤが預言しているように、荒れ野を、喜びながら、歩んでいきましょう。人間としての弱さと貧しさという福音を分かち合いながら、主の降誕を迎える準備を進めていきましょう。
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1月11日/主の洗礼
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