[ことばの祭儀]
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[お説教]
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〔5月11日/復活節第4主日〕
主イエスは、ご自分に従う私たちに、「永遠の命を与える」と約束してくださいました。そして、主が復活された今、私たちには、永遠の命が与えられています。今日は「世界召命祈願の日」です。召命とは、私たちが今生きている、この地上で、永遠のいのちを生きていくようにという呼びかけです。
〔5月4日/復活節第3主日〕
今週の福音も、復活のキリストに出会う弟子たちの姿を伝えています。復活祭を、今祝っている私たちも、復活の主に出会います。そして、復活のいのちをいただきます。
復活され、今生きておられるキリストは、そのような時こそ、私たちのところに、私たちの日常生活の真っただ中に来られます。私たちの毎日の生活は、復活の主との出会いの場なのです。そして、復活の主は、私たちに、生きる力を与えてくださいます。福音書に登場する弟子たちは、復活の主に、「ありません」と答えました。弟子たちには、自分たちだけで生きていく力は「ありません」でした。弟子たちが、主の前で、自分たちの無力を認める時、主の力が働きました。私たちの生きる力も同じです。主の力の働きによって、毎日を生きることができること、これこそ、本当の意味で、生きる力ではないでしょうか。復活の主がともに生きておられることを感じながら、日々を生きていくことが、復活のいのちを生きていくことではないでしょうか。
今日の福音は、「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った」と伝えています。「主だ」という、この言葉は、主がともに生きて、ともに働いておられるという気づきの言葉です。喜びの言葉です。復活のいのちに満たされた、力強い言葉です。私たちも、毎日の生活の中で起こっている出来事を思い起こしてみましょう。あの時、私が出会ったのは、復活の主だ。あの時、私に語りかけてくださったのは、今生きておられる主だ。私の心が叫びをあげた時、耳を傾けてくださったのは、ともにおられる主だ。不安や怒りの中にあった時、私の心に平和を与えてくださったのは、主だ。今、私を愛してくださっているのは、主だ。そんな気づきが、私たちの生きる力なのです。何があっても、生き続けようという、生きる希望なのです。
そして、「主だ」という気づきは、日常の、ごく普通の、小さな出来事の中で得られるのです。今日の福音で、弟子たちが、「陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」と伝えられています。このような、毎日の生活の中で、誰かが行う、他の人のための小さな心遣いこそ、「主だ」と叫びたくなる出来事なのではないでしょうか。小さな出来事の中に復活の主がおられることに気づくことこそが、本当の意味で、生きることであり、生きる力であり、復活のいのちなのではないでしょうか。そう考えると、私たちのまわりは、復活のいのち、復活の希望に満ちていると言えます。
復活のいのちは、「行きたいところへ行」くためのいのちではありません。「行きたくないところへ連れて行かれる」ためのいのちです。復活し、今生きておられる主は、私たち一人一人に、「わたしに従いなさい」と言っておられます。主が私たちを連れて行かれるところは、多くの場合、「行きたくないところ」です。しかし、主に従って、行きたくないところに行くことができる時、私たちは、復活のいのちを体験することができます。復活のいのちを生きるとは、神と隣人を愛するがゆえに、「行きたくないところに」行くことなのです。
私たちは今、希望の巡礼者として歩んでいます。希望の巡礼者は、主に従って歩んで行く巡礼者です。主が望まれるならば、「行きたくないところ」にも向かって、歩み続ける巡礼者です。その歩みこそが復活であるということを信じて歩み続ける巡礼者です。そうして、真のいのち、復活のいのちという希望を証する巡礼者です。このいのちの巡礼を、復活の喜びのうちに、ともに歩んで行きましょう。
[ことばの祭儀] 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。 主の昇天 ことばの祭儀 [ お説教 ] 「主の昇天」の祭日は、希望の巡礼者である私たちにとって、とても大切な日です。今日は、私たちが、すべてのいのちが、希望に満たされる日です。 福音記者ルカは、主...