11月23日 / 王であるキリスト

 年間の最後の主日である今日、私たちは、「王であるキリスト」に出会います。
そして、キリストが王として治める国、神の国で生きている喜びを分かち合います。
王であるキリストは今日、十字架につけられています。何も身につけていません。
すべてを奪われています。私たちの王は、無力です。自分の命さえ守ることができません。肉体的、心理的、精神的、霊的暴力を受けても、報復することはできません。
そして、孤独です。王であるキリストは今、ただ十字架にとどまっているのです。
この王に対して、
「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、
「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といった言葉が浴びせられます。
確かに、この世界の王ならば、多くの場合、自分を第一に考えて、自分の富や権力を守ります。自分を守るために、自分の支配下にある人々を犠牲にします。
国の安全のため、秩序の維持のため、経済的利益を守るためにという理由で、多くの人の平穏な生活を犠牲にします。
王であるキリストのまわりにいた者たちは、キリストに、この世界の王として振る舞うように求めているのです。
それでは、主キリストが本当に、この世界の王として振る舞われたら、私たちはどうなるでしょうか。
私たちは皆、滅びることになります。滅びないとしたら、私たちは、だれかを十字架につけ続けるでしょう。だれかを十字架につけることで、自分は正しいと思い続けることになるでしょう。永遠に回心できないことこそ、滅びなのかもしれません。
王であるキリストは、何も持っておられません。私たちに、すべてを与え尽くされたからです。十字架上のキリストは、いのちを傷つける力を持っておられません。
私たち皆に生きる力を与えておられるのです。そして、十字架にとどまっておられます。私たち皆を愛しておられるからです。イエスが十字架にとどまることは、神が私たちを愛しておられるということなのです。
今日の福音で、ただひとり、王であるキリストに出会った人がいます。イエスとともに十字架にかけられている犯罪人一人です。この人は、はっきりと言います。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と。

王であるキリストに出会った人は、自分が罪人であることに気づきます。罪人である自分が、何も悪いことをしていない人を十字架につけていることに気づきます。
そして、だれかを十字架につけることをやめて、自分も十字架の上にとどまります。
回心して、主とともに、十字架という愛にとどまります。
王であるキリストに出会った人にとって、十字架は希望となります。主イエスとともに十字架にとどまることで、救いの希望に満たされます。
犯罪人の一人の言葉、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉は、聖書の中で、最も力強い、希望の表明なのです。
「思い出してください」という言葉は、ただ単に、「覚えていてください」という意味ではありません。「あなたの御国で、今のように、近くにいさせてください」という意味です。
今日、希望の巡礼者として集まっている私たちは、犯罪人の、この希望の言葉を、
皆で分かち合いたいと思います。この希望の言葉を歌いながら、巡礼を続けていきたいと思います。
希望の巡礼者は、罪人です。罪人だからこそ、神の国という希望を持ちます。自分が正しいと思う者は、この世界にしがみつきます。自分が罪人だと認める人は、愛がすべてとなる御国を目指します。
この希望は、私たちを欺きません。
王であるキリストは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っておられるのです。
十字架にとどまることは、苦しいことであり、すぐに逃げ出したくなることです。しかし、十字架にとどまることは、イエスとともに、愛にとどまることです。この世界で苦しんでいる人びとと、ともに生きることです。
私たちは、死ぬために十字架にとどまるのではありません。愛するために十字架にとどまるのです。王であるキリストは、愛をもって、すべてのいのちに仕える王です。
私たちも、この愛につながって、ともに歩んでいきましょう。
そして、今日は、「世界青年の日」です。
教皇レオ十四世は、この日のメッセージの中で、若い人たちに、キリストの友となって、キリストの愛を証しするように励ましています。
私たちは、世界中の若い人たちのために、心を込めて祈りたいと思います。若い人たちとともに、希望の巡礼を歩み続けたいと思います。
ともに、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈りながら。

11月16日 年間第33主日 お説教

日は、「貧しい人のための世界祈願日」です。
この日のための教皇メッセージで、次のように述べられています。
「地上の富、物質的な現実、この世の快楽、経済的な繁栄は、それらがいかに重要であっても、心を幸福にするには不十分です。富はしばしば人を惑わし、悲惨な貧困の状態をもたらします。それは、何よりも、神の必要性を認めず、神から独立して人生を歩もうとする貧困です。」
私たちは今日、思い起こし、謙虚に認めなければなりません。私たちは皆、貧しい者であることを。ですから、今日の祈願日は、まず第一に、私たち自身のために祈る日なのです。貧しい私たちに、良いものを与え続けてくださる神に、心からの感謝をささげる日なのです。
神からいただいているものを分かち合っていない罪、隣人に貧しさを押しつけ、自分だけが豊かになろうとする罪を認める日なのです。本当の豊かさを願い求める日なのです。豊かさを分かち合う勇気と知恵を祈る日なのです。
私たちに与えられている豊かさはすべて、神の恵みです。私たちは、この恵みを分かち合う時、本当の意味で豊かになるのです。この恵みを奪い合おうとする時、多くの尊いいのちが失われ、地球といういのちが傷つくのです。
私たちは、神から離れて生きていけません。私たちは、隣人と、貧しさと豊かさを分かち合わなければ、不幸になるだけなのです。
今日の福音で、主イエスは、戦争、暴動、災害、飢饉、疫病などが起こっても、「世の終わり」ではないと言っておられます。むしろ、「証しをする機会となる」と、私たちを励ましておられます。私たちが証しすること、それは、神の愛です。地上のものに危機が訪れる時こそ、神の愛により頼む時だと、私たちを励ましておられるのです。
しかし、多くの人は、神の愛を忘れ、「惑わされ」ます。愛なんて当てにせず、争いに勝つしか道はないと思い込まされます。
そうして、争いが起こります。自分の国や自分の家族を守ることに必死になります。

自分の生きている世界を閉ざすようになります。外から入ってくるものをすべて、脅威と見なします。何かが自分と違うだけで、関わろうとしなくなります。
外で起こっていることに、無関心になります。自分の世界に属するものだけが大切なもの、善で、外にあるものはどうでもよいもの、悪であると見なすようになります。
こうして、他人の喜びをねたみ、まわりの人の悲しみや苦しみを感じなくなります。
自分が攻撃されていると感じると、過剰に反撃します。
すべては、自分が、今、持っている豊かさを守るためです。そこに、喜びも感謝もなく、怒りや不平不満があるだけです。ともに祈ることはなくなり、集まれば、そこにいない人の悪口だけが語られるようになります。そして、そうした時にあっても、神の愛を信じ、愛を宣べ伝え、愛し続ける人は、迫害されます。
今、迫害が起こっています。この迫害は、愛を深める殉教をもたらしません。この迫害の恐ろしさは、愛がなくても、楽しく生きていけると思わせる快適さなのです。互いを大切にし合いながら、苦労して何かを得る必要などないと思わせる便利さなのです。
そして、この快適さや便利さは、お金さえ払えば、だれでも手に入れることができるという誘惑なのです。
こうして、世の終わりが訪れ、すべてが滅びるのでしょうか。断じて、そうではありません。世の終わりとは、滅びではありません。世の終わりは、いのちです。
主イエスは今日、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と励ましておられます。「何があっても、祈り、愛し、皆が生きるようになりなさい」という意味です。
「神の愛の豊かさを分かち合うために、今は、神の愛を渇き求める貧しさを分かち合いなさい」という励ましです。「自分が神からいただいた、よいものを、隣人と分かち合うことで、隣人とともに豊かになりなさい」という、真の幸いへの、愛に満ちた招きです。
この励まし、招きは、私たちの希望です。
希望の巡礼者にとって、世の終わりとは、愛です。神の前での貧しさと、神からの豊かさを分かち合う愛です。
最後に、始めに引用した教皇レオ十四世の言葉の続きを分かち合いたいと思います。聖スウグスティヌスの言葉です。
「いっさいの希望を神に置きなさい。神が必要だと感じなさい。それは、神によって満たされるためです。神がいなければ、あなたが所有するいかなるものも、あなたをいっそう空虚にするだけだからです」(『詩篇講解』)

2025/11/9 ラテラノ教会の献堂 ミサお説教

説教]
「ラテラノ教会の献堂」を記念している今日、私たちは、すべての教会が神にささげられていることを思い起こしています。神にささげられているから、聖堂と呼ばれているのです。
私たちは今日、神にささげられているとはどういうことかについて、祈りのうちに考えるように招かれているのです。
   今日の福音で、主イエスは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われます。主は、商売という営みをおとしめているのではありません。商売を行う人がいなければ、私たちは生きていくことができません。商売に従事している人たちは、私たちの生活を支えるために、休むことなく働いています。私たちの求めに、笑顔で応えています。私たちは、商売という尊い仕事をしている人たちに、心から感謝したいと思います。商売の尊さを確認した上で、なぜ、神の家である聖堂で商売をしてはならないのかを考えてみたいと思います。
     商売とは、商品とされたものを売ることです。そして、商品となったものは、お金を払わないと、自分が所有するものにすることができません。私たちのまわりは、さまざまな商品であふれています。かつては商品でなかったものが、商品となっています。例えば、水がそうです。主イエスは、商品に囲まれて生きている私たちに、はっきりと言っておられるのです。「商品にしてはいけないものがある」と。
    神にささげられたものは、神に属するものです。主は、神に属するものを商品とすることを、厳しく禁止しておられるのです。ですから、聖堂は商品ではありません。聖堂の中にあるものも、商品ではありません。聖堂に集まる人びとも、絶対に商品となってはならないのです。
今日の第二朗読で、使徒パウロは、はっきりと宣言されています。「神の神殿は聖なるもの…です。あなたがたはその神殿なのです。」パウロが言っているように、私たち一人一人も、聖なる神殿であり、神にに属するものとされているのです。私たちは皆、聖なるものなのです。私たちのうちに、「神の霊が…住んで」おられるのです。 

 

2025/10/26 年間第30主日 お説教

 

[10月26日/年間30主日]


[お説教]
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 
主イエスは今日、この祈りこそが正しい祈りであると宣言しておられます。 

私たちは皆、罪人です。 
私たちはよく、「私のような罪人など、神の前で祈る資格などない」と思うことがあります。主イエスは今日、そんな思いを抱く必要はないと言っておられるのです。 
私たちは、罪人だからこそ、神に呼ばれているのです。罪人だからこそ、神に近づき、熱心に祈るのです。だから、私たちは、ミサやことばの祭儀の時、まず、「父の子と聖霊のみ名によって」と宣言し、神に近づきます。近づくだけでなく、三位一体の神の愛の交わりの中に加わります。 
神のみ名とは、神の愛、神の愛の交わりなのです。 
愛の交わりは、すべての人に開かれた交わりなのです。 
私たちは、愛の交わりに入ることを拒否できます。しかし、神は、愛の交わりに入って来る人を追い出すことはできないのです。 
愛の交わりは、だれかが追い出された時に、愛の交わりでなくなるのです。愛の交わりには、鍵のかかる扉はないのです。扉そのものがないのです。
 
今日の福音のたとえ話に、「徴税人」が登場しています。 
徴税人は、「罪人」と見なされていました。この徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」、この祈りをささげました。徴税人は、神に近づくことができませんでした。天に向かって祈ることができませんでした。しかし、はっきりと、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことができたのです。胸を打ちながら、つまり、心の底から言葉を絞り出すように、祈ることができたのです。 
徴税人が祈ることができたのは、彼がすでに、神の愛の交わりの中に入っていたからです。神は、私たちが遠くにいれば、すぐ近くに来てくださいます。私たちが目を上げなければ、私たちより低いところに来てくださいます。「神様」と呼びかければ、私たちの、一番近くに来てくださいます。そこは、私たちの叫びが生じる心の中です。 
祈りを聞いてくださる神が、私たち一人一人の心の中で、私たちとともに祈ってくださるのです。ですから、私たちは、「主よ、いつくしみをわたしたちに」と祈る時、神の愛の交わりの中で、祈っていることになるのです。 
 
たとえ話のもう一人の登場人物である「ファリサイ派の人」は、祈っていません。 
自分が罪人であることを認めず、ほかの人と違うことを強調しているからです。 
まわりの人を罪人だと決めつけ、自分だけが正しいと思い込んでいるからです。 
私たちは、まわりの人と同じ罪人だと、謙虚に認める時、祈ることができるのです。 
さらに、このファリサイ派の人と徴税人の二人は、「祈るために神殿に上った」のです。
ファリサイ派の人は、徴税人とともに祈るべきでした。徴税人のために祈るべきでした。
しかし、このファリサイ派の人は徴税人を、祈りの場から排除したのです。徴税人を遠くに追いやり、目を上げさせなかったのは、ファリサイ派の人なのです。 
自分が心地よく祈るために、ほかの人が祈ろうとするのを妨げること、それは罪です。
私たちも、同じ罪を犯していないでしょうか。祈りに、上手下手はありません。優劣もありません。 
心からの祈りは、すべて、尊い、美しい祈りです。ですから、すべての祈りを大切にしたいと思います。すべての祈りに感謝しながら、ともに祈りたいと思います。祈り合いたいと思います。ともに祈る、罪人の共同体となって歩み続けたいと思います。 

私たちは今、希望の巡礼の旅を続けています。 
祈りがあるところに、希望があります。 
自分が罪人であることを認めることは、希望の始まりです。 
私たちは、自分が罪人であることを認める時、自分がわかるようになります。自分が立っている位置がわかるようになります。自分がこれから進むべき道が見えてきます。
希望の道です。日々新たになっていく道です。より良い未来へと通じる道です。 
永遠のいのちへと続く道です。 
自分が正しいと思い込む時、私たちの歩みは止まります。 
今の自分がすべてとなります。希望とは、日々歩み続けることです。 
神から憐れみを受けて、新たに生まれ変わることです。日々、生まれ変わることです。 
私たちは、希望の巡礼者として、この希望の道を、ともに歩んでいるのです。 
「神様、罪人のわたしたちを憐れんでください」と祈りながら、ともに歩んでいきましょう。
そして、本当の意味で、正しい者とされて、主が迎えてくださる「家に帰」りましょう。 


2025/10/19 年間第29主日 ことばの祭儀、お説教

 

主イエスは今日、私たちに、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを」思い起こさせてくださいます。 
私たちが、気を落とさずに祈り続ける時、そこに神の国が来ているのです。どのような悲惨な状況であっても、そこに祈る人がいる限り、神の国が始まっているのです。 
希望の国としての神の国が実現しているのです。そして、今日は、「世界宣教の日」です。
この日のための教皇メッセージの中で、教皇フランシスコは、次のように述べています。
 
「祈ることによって、神がわたしたちの内にともされた希望の炎を燃やし続けることができます。それは大きな炎となって、祈りに促された具体的な行動や姿勢によっても、周りにいるすべての人を照らし温めることができるでしょう。」
 
しかし、私たちは、ただ祈れば良いということではありません。 
今日のたとえ話に登場する「やもめ」は、熱心に祈っています。 
「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願っています。この祈りは、やもめの個人的な願いではありません。 
聖書に現れる「やもめ」は、社会の中で弱い立場に置かれた人を表しています。 
ですから、やもめを「守る」ということは、正義を実現するということです。やもめを苦しめる相手を「裁く」ということは、あらゆる不正を許さないということです。 
そう考える時、やもめの祈りは、社会の不正を取り除き、正義の実現を求める祈りということになります。私たちも、個人的な願いだけでなく、この世界に、真の正義が実現することを願うように求められているのです。 

たとえ話の「不正な裁判官」は、やもめの訴えに耳を傾けなければ、「さんざんな目に遭わ」されることに気づきます。 
さんざんな目とは、やもめがもたらす災難ではありません。やもめの願いである正義が実現していないことによる災難です。 
私たちが正義の実現を求めるのは、貧しい人や苦しんでいる人がかわいそうだからではありません。不正がはびこっている社会の中で、自分の幸せだけを考えていることこそが、最も不幸なことだからです。正義を求める心を失っていることこそが、取り除かなければならない貧困なのです。 
 
真の正義が実現しなければ、だれも幸せになれないのです。不正に満ちた、この世界で、不正に加担しなければ生きていけないと思わされていることこそが、「さんざんな目に遭わ」されているということなのです。 
だから、私たちは、正義が実現していないことによる貧しさが、この世界からなくなるように、気を落とさずに、祈り続けるように励まされているのです。真の正義がもたらす豊かさを求めるように、主イエスは今日、私たちを励ましておられるのです。 

真の豊かさ、それは、生きとし生けるものすべてが幸せであって欲しいと、心から願える心を持っていることです。自分が貧しくなっても、まわりの人が支えてくれるという安心感です。自分も、まわりの人を支えていると思えるということです。自分が支えてもらう時、何も疑わず、心から感謝できるということです。そして、安心して貧しくなることができるということです。私たちは皆、貧しくなっていきます。貧しくなることで、支え合うようになります。皆で貧しくなっていくことが、支え合いの豊かさとなっていきますように、気を落とさずに絶えず祈りたいと思います。 

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見い出すだろうか。」 
主イエスが残された、今日の福音の最後の言葉です。私たちは今、何を信じるように求められているのでしょうか。主を信じるとは、主の福音を信じるとは、どういうことなのでしょうか。ここで、先々週に発表された、教皇レオ十四世の使徒的勧告『わたしはあなたを愛した』の一節を分かち合いたいと思います。 

「主への愛は、貧しい人々への愛と一つです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイ26章11節)と語られるイエスはまた、弟子たちにこう約束されます。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)。私たちはさらに、主の次の言葉も思い出します。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイ25章40節)。これは単なる人間的な優しさのことではなく、啓示の一つなのです。―へりくだった人々、力のない人々と関わることこそ、歴史の主と出会う根本的な道なのです。貧しい人々の中で、主は今も、私たちに語りかけ続けておられます。」 

主イエスは今日、私たちが、この「啓示」を信じて、この地上で生きていくよう招いておられるのではないでしょうか。 
主が示された愛を信じ、生きることで、「世界宣教の日」である今日、私たちに与えられている、使徒パウロの励ましに応えたいと思います。 

「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」

2025/10/12 年間第28主日 お説教

 

[10月12日/年間28主日]


[お説教]
今月は、「世界宣教月間」です。そして、来週19日は、「世界宣教の日」です。 
希望の巡礼者である私たちは、この世界の中で、「希望の宣教者」として歩むように召されています。今年の教皇メッセージで、教皇フランシスコが述べているように、私たち「教会は、暗い影が垂れ込める世界に、再び希望を取り戻すために遣わされているのです」。 

今日の福音は、「エルサレムへ上る途中」のイエスが、「重い皮膚病を患っている十人の人」に出会う物語です。この人たちは、「遠くの方に立ち止まったまま」でした。他の人と交わることができず、生きることを奪われていました。 
人間にとって、生きるとは、交わるということなのです。主が言われるように、十人全員が清くされましたが、主のもとに「戻って来」たのは、一人だけでした。この一人の「サ
マリア人」だけが、いやされたのです。 
「いやされる」とは、どういうことでしょうか。いやされるとは、「交わり」が回復するということです。他の人とともに生きることができるということです。主に近づき、賛美と感謝ができるということです。 

福音記者ルカは、いやされた一人について、「自分がいやされたのを知って」と述べられています。この「知る」ということは、とても大切なことなのです。私たちは、いやされていることを知って、はじめていやされるのです。いやされているのに、いやされていることに気づかない人は、いやされていないのです。その意味で、他の九人は、いやされたのに、いやされたことを知らなかったのです。 

「いやされている」ということは、まわりの人、まわりのいのちとともに生きることができるということです。まわりのいのちとともに生きていると感じることができるというこ
とです。自分が困った時、まわりの人に、安心して助けを求めることができるということです。社会の中で、自分が必要とされている存在だと感じることができるということです。人と人とが顔を合わせて、笑顔で言葉をかわすことができるということです。 
今、インターネットやAIによって、すぐに答えが得られ、多くの人とつながるようになりました。しかし、私たちは、いやされているでしょうか。 

いやされたことを知ったサマリア人は、「イエスの足もとにひれ伏し」ました。ひれ伏すとは、主にすべてをささげて、主のために生きたいという願い、決心を表しています。 
主は、ひれ伏す、この人に、「立ち上がって、行きなさい。」と言われました。 

いやされるとは、ただ生きるようになるということではありません。復活して、立ち止まらず、生きていくということです。主に仕えるようになるということです。主とともに、
福音宣教の旅に出るということです。福音を宣べ伝えながら、日々出会う人に仕えるということです。こうして、今日の、私たちの集会祈願はかなえられるのです。 
私たちは、神のいやしにあらわれている愛を信じて、神に向かって心から願い求めています。
「あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。この愛に支えられるわたしたちが、いつも心から姉妹兄弟に仕えることができますように。」 

私たちキリスト者は、洗礼をはじめとするさまざまな秘跡、ミサやことばの祭儀といった共同体の祭儀によって、いやされ続けています。今日、使徒パウロが宣言しているよう
に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」
このいのちの神秘こそが、私たちのいやしてあり、希望です。 

私たちは、この希望の福音を分かち合うために、これから、この世界の中に派遣されます。
「行きましょう。主の平和のうちに」と励まし合い、希望の宣教の、新たな旅を始めます。
「神に感謝」と一緒に応えることは、いやされたサマリア人のように、希望の福音を宣べ伝えることができる喜びを、皆で分かち合うことです。 
この派遣の祈りは、とても大切です。「神に感謝」と応えずに帰ってしまうことは、いやされたことを知らなかった九人と同じことをすることになります。派遣の祝福を受けて、
はじめて祭儀に参加したことになります。 
最後まで参加できない場合は、心の中で、「これから福音を宣べ伝える、新たな歩みを始めます。私を豊かに祝福してください。神に感謝」という趣旨の祈りをして、その場を退出するようにしましょう。 
聖体拝領をしたら帰って良いという考えは、共同体の祭儀を理解していない間違った考えです。いやされたサマリア人のように、「立ち上がって、行きなさい」という、愛に満ちた言葉を受けて、希望の宣教者として出向いて行きましょう。 
日々出会う人と分かち合うための恵みをいただいたことに感謝して、「神に感謝」と応えて、希望の巡礼を続けていきましょう。

2025/10/5 年間第27主日 ことばの祭儀、お説教

 [お説教]

10月は、ロザリオの月です。聖母マリアは今、すべてのいのちのために祈っています。私たちも、ロザリオの祈りをささげることによって、聖母とともに祈ります。そして、教皇レオ十四世は今月、平和のために、毎日ロザリオの祈りをささげるよう呼びかけています。この呼びかけに応えて、ともに、心を込めて、平和のために、ロザリオの祈りをささげたいと思います。

今日の福音で、弟子たちは、主イエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください。」この願いに対して、主は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と応えられます。この言葉の意味は、私たちに信仰がないという意味ではありません。私たちには、豊かな信仰の恵みが与えられているという意味です。からし種一粒ほどの信仰は、大きな可能性を持った信仰なのです。可能性ですから、何も起こらないこともあります。しかし、からし種が大きな木になっていくように、私たちの信仰も増していくのです。

神は、私たちに一人一人に、完成した信仰を与えておられません。小さな種のような信仰を与えておられるのです。この種も、水を必要とします。水は、一度注げば十分だというものではありません。何度も、それも定期的に注ぎ続けなければ、種は育ちません。信仰という種にとっての水とは、何でしょうか。信仰の種にとっての水、それは、祈りです。水を注ぎ続けるように、祈り続けるのです。そうすれば、種は、大きな木となっていくのです。信仰という種は、なかなか育たない種です。祈っても、祈っても、小さな種のままではないかと思うことがよくあります。しかし、私たちが祈っている限り、信仰という種は生きています。生きているだけでなく、確実に成長しています。

私たちが今月ささげているロザリオの祈りも、私たちの信仰を生かし続ける水です。ロザリオの祈りによって、私たちは、主イエスによって救われていることを黙想します。黙想することで、救われていることの喜びを味わいます。救われている喜びのうちに、すべてのいのちの救いを願い求めます。今月、教皇とともに願い求める「平和」こそ、すべてのいのちが救われていることです。正確に言えば、すでに救われている、すべてのいのちが、救われている喜びを得ることができることが平和なのです。ですから、平和を祈るとは、私たちの世界が、この喜びを奪う罪から解放されることを願い求めることなのです。救われているかどうかではなく、救われていることを、皆が感じているかどうかなのです。私たちは、救われているから、祈るのです。祈るから、救われるのではないのです。

今日の福音で、主イエスは、私たちが、「取るに足らない僕」であると言われます。私たちは、自分のためだけでなく、世界の平和のために祈り続けるよう命じられている僕です。私たちにとっての「畑」とは、この世界であり、この地球です。私たちにとっての「羊」とは、すべてのいのち、すべての人です。私たちが祈り続ける時、この世界は、いのちを育むところへと耕されていきます。私たちの祈りが広がっていく時、すべてのいのちが生きるようになります。祈りたい時、安心して祈ることができることこそが、本当の平和、本当に生きることなのです。祈りたい人から、祈る自由、祈る喜びを奪うことこそが、最大の暴力、最も深い罪なのです。私たちは、平和が実現していない世界で、平和の実現のために祈るよう命じられている、神の僕なのです。まわりに祈っている人がいないならば、自分から祈り始めるよう励まされている僕なのです。どのような状況に置かれても、祈ることができるということを証ししている僕なのです。祈りという希望を、祈る喜びを、この世界の中で、宣べ伝えている、希望の巡礼者なのです。

私たち一人一人の祈りは、「取るに足らない」祈りかもしれません。私たち自身も、しばしば、この世界の平和を妨げることに加担している罪人となっています。だから、聖母のとりなしを願い求めるのです。「わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください」と、謙虚な心で祈るのです。そして、私たちの願いをかなえてくださるのは、三位一体の神です。祈りという「しなければならないことをしただけです」という思いを込めて、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」という賛美をささげるのです。

私たちは、信仰という種を与えられています。そして、希望の巡礼者として、私たちも、この世界の中で、「平和と希望の種」となっていくように招かれています。最後に、今年の、「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージからの言葉を分かち合いたいと思います。

「イエスは、説いて教える際、しばしば種のたとえを用いて神のみ国について語られました。受難が近づくと、イエスは種をご自身に当てはめ、ご自分を、実を結ぶためには死ななければならない一粒の麦にたとえられました。種は自らを大地に引き渡すと、その場所には、自己贈与の驚異の力によって、いのちが芽吹き、まったく思いもよらない場所にさえ、新たな始まりを告げる途方もない力をたたえて芽生えるのです。たとえば、道端で伸びる花々を思い浮かべてみてください。だれが植えたわけでもないのに、たまたまその場所に落ちた種がそこで成長し、灰色のアスファルトを明るく彩り、その硬い表面をも突き破り咲いているのです。キリストにおいて、わたしたちも種なのです。」


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11月23日 / 王であるキリスト

  年間の最後の主日である今日、私たちは、「王であるキリスト」に出会います。 そして、キリストが王として治める国、神の国で生きている喜びを分かち合います。 王であるキリストは今日、十字架につけられています。何も身につけていません。 すべてを奪われています。私たちの王は、無力です。...

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