2025/10/12 年間第28主日 お説教

 

[10月12日/年間28主日]


[お説教]
今月は、「世界宣教月間」です。そして、来週19日は、「世界宣教の日」です。 
希望の巡礼者である私たちは、この世界の中で、「希望の宣教者」として歩むように召されています。今年の教皇メッセージで、教皇フランシスコが述べているように、私たち「教会は、暗い影が垂れ込める世界に、再び希望を取り戻すために遣わされているのです」。 

今日の福音は、「エルサレムへ上る途中」のイエスが、「重い皮膚病を患っている十人の人」に出会う物語です。この人たちは、「遠くの方に立ち止まったまま」でした。他の人と交わることができず、生きることを奪われていました。 
人間にとって、生きるとは、交わるということなのです。主が言われるように、十人全員が清くされましたが、主のもとに「戻って来」たのは、一人だけでした。この一人の「サ
マリア人」だけが、いやされたのです。 
「いやされる」とは、どういうことでしょうか。いやされるとは、「交わり」が回復するということです。他の人とともに生きることができるということです。主に近づき、賛美と感謝ができるということです。 

福音記者ルカは、いやされた一人について、「自分がいやされたのを知って」と述べられています。この「知る」ということは、とても大切なことなのです。私たちは、いやされていることを知って、はじめていやされるのです。いやされているのに、いやされていることに気づかない人は、いやされていないのです。その意味で、他の九人は、いやされたのに、いやされたことを知らなかったのです。 

「いやされている」ということは、まわりの人、まわりのいのちとともに生きることができるということです。まわりのいのちとともに生きていると感じることができるというこ
とです。自分が困った時、まわりの人に、安心して助けを求めることができるということです。社会の中で、自分が必要とされている存在だと感じることができるということです。人と人とが顔を合わせて、笑顔で言葉をかわすことができるということです。 
今、インターネットやAIによって、すぐに答えが得られ、多くの人とつながるようになりました。しかし、私たちは、いやされているでしょうか。 

いやされたことを知ったサマリア人は、「イエスの足もとにひれ伏し」ました。ひれ伏すとは、主にすべてをささげて、主のために生きたいという願い、決心を表しています。 
主は、ひれ伏す、この人に、「立ち上がって、行きなさい。」と言われました。 

いやされるとは、ただ生きるようになるということではありません。復活して、立ち止まらず、生きていくということです。主に仕えるようになるということです。主とともに、
福音宣教の旅に出るということです。福音を宣べ伝えながら、日々出会う人に仕えるということです。こうして、今日の、私たちの集会祈願はかなえられるのです。 
私たちは、神のいやしにあらわれている愛を信じて、神に向かって心から願い求めています。
「あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。この愛に支えられるわたしたちが、いつも心から姉妹兄弟に仕えることができますように。」 

私たちキリスト者は、洗礼をはじめとするさまざまな秘跡、ミサやことばの祭儀といった共同体の祭儀によって、いやされ続けています。今日、使徒パウロが宣言しているよう
に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」
このいのちの神秘こそが、私たちのいやしてあり、希望です。 

私たちは、この希望の福音を分かち合うために、これから、この世界の中に派遣されます。
「行きましょう。主の平和のうちに」と励まし合い、希望の宣教の、新たな旅を始めます。
「神に感謝」と一緒に応えることは、いやされたサマリア人のように、希望の福音を宣べ伝えることができる喜びを、皆で分かち合うことです。 
この派遣の祈りは、とても大切です。「神に感謝」と応えずに帰ってしまうことは、いやされたことを知らなかった九人と同じことをすることになります。派遣の祝福を受けて、
はじめて祭儀に参加したことになります。 
最後まで参加できない場合は、心の中で、「これから福音を宣べ伝える、新たな歩みを始めます。私を豊かに祝福してください。神に感謝」という趣旨の祈りをして、その場を退出するようにしましょう。 
聖体拝領をしたら帰って良いという考えは、共同体の祭儀を理解していない間違った考えです。いやされたサマリア人のように、「立ち上がって、行きなさい」という、愛に満ちた言葉を受けて、希望の宣教者として出向いて行きましょう。 
日々出会う人と分かち合うための恵みをいただいたことに感謝して、「神に感謝」と応えて、希望の巡礼を続けていきましょう。

2025/10/5 年間第27主日 ことばの祭儀、お説教

 

[10月5日/年間27主日]


 [ことばの祭儀]
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[お説教]
10月は、ロザリオの月です。聖母マリアは今、すべてのいのちのために祈っています。私たちも、ロザリオの祈りをささげることによって、聖母とともに祈ります。そして、教皇レオ十四世は今月、平和のために、毎日ロザリオの祈りをささげるよう呼びかけています。この呼びかけに応えて、ともに、心を込めて、平和のために、ロザリオの祈りをささげたいと思います。

今日の福音で、弟子たちは、主イエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください。」この願いに対して、主は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と応えられます。この言葉の意味は、私たちに信仰がないという意味ではありません。私たちには、豊かな信仰の恵みが与えられているという意味です。からし種一粒ほどの信仰は、大きな可能性を持った信仰なのです。可能性ですから、何も起こらないこともあります。しかし、からし種が大きな木になっていくように、私たちの信仰も増していくのです。

神は、私たちに一人一人に、完成した信仰を与えておられません。小さな種のような信仰を与えておられるのです。この種も、水を必要とします。水は、一度注げば十分だというものではありません。何度も、それも定期的に注ぎ続けなければ、種は育ちません。信仰という種にとっての水とは、何でしょうか。信仰の種にとっての水、それは、祈りです。水を注ぎ続けるように、祈り続けるのです。そうすれば、種は、大きな木となっていくのです。信仰という種は、なかなか育たない種です。祈っても、祈っても、小さな種のままではないかと思うことがよくあります。しかし、私たちが祈っている限り、信仰という種は生きています。生きているだけでなく、確実に成長しています。

私たちが今月ささげているロザリオの祈りも、私たちの信仰を生かし続ける水です。ロザリオの祈りによって、私たちは、主イエスによって救われていることを黙想します。黙想することで、救われていることの喜びを味わいます。救われている喜びのうちに、すべてのいのちの救いを願い求めます。今月、教皇とともに願い求める「平和」こそ、すべてのいのちが救われていることです。正確に言えば、すでに救われている、すべてのいのちが、救われている喜びを得ることができることが平和なのです。ですから、平和を祈るとは、私たちの世界が、この喜びを奪う罪から解放されることを願い求めることなのです。救われているかどうかではなく、救われていることを、皆が感じているかどうかなのです。私たちは、救われているから、祈るのです。祈るから、救われるのではないのです。

今日の福音で、主イエスは、私たちが、「取るに足らない僕」であると言われます。私たちは、自分のためだけでなく、世界の平和のために祈り続けるよう命じられている僕です。私たちにとっての「畑」とは、この世界であり、この地球です。私たちにとっての「羊」とは、すべてのいのち、すべての人です。私たちが祈り続ける時、この世界は、いのちを育むところへと耕されていきます。私たちの祈りが広がっていく時、すべてのいのちが生きるようになります。祈りたい時、安心して祈ることができることこそが、本当の平和、本当に生きることなのです。祈りたい人から、祈る自由、祈る喜びを奪うことこそが、最大の暴力、最も深い罪なのです。私たちは、平和が実現していない世界で、平和の実現のために祈るよう命じられている、神の僕なのです。まわりに祈っている人がいないならば、自分から祈り始めるよう励まされている僕なのです。どのような状況に置かれても、祈ることができるということを証ししている僕なのです。祈りという希望を、祈る喜びを、この世界の中で、宣べ伝えている、希望の巡礼者なのです。

私たち一人一人の祈りは、「取るに足らない」祈りかもしれません。私たち自身も、しばしば、この世界の平和を妨げることに加担している罪人となっています。だから、聖母のとりなしを願い求めるのです。「わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください」と、謙虚な心で祈るのです。そして、私たちの願いをかなえてくださるのは、三位一体の神です。祈りという「しなければならないことをしただけです」という思いを込めて、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」という賛美をささげるのです。

私たちは、信仰という種を与えられています。そして、希望の巡礼者として、私たちも、この世界の中で、「平和と希望の種」となっていくように招かれています。最後に、今年の、「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージからの言葉を分かち合いたいと思います。

「イエスは、説いて教える際、しばしば種のたとえを用いて神のみ国について語られました。受難が近づくと、イエスは種をご自身に当てはめ、ご自分を、実を結ぶためには死ななければならない一粒の麦にたとえられました。種は自らを大地に引き渡すと、その場所には、自己贈与の驚異の力によって、いのちが芽吹き、まったく思いもよらない場所にさえ、新たな始まりを告げる途方もない力をたたえて芽生えるのです。たとえば、道端で伸びる花々を思い浮かべてみてください。だれが植えたわけでもないのに、たまたまその場所に落ちた種がそこで成長し、灰色のアスファルトを明るく彩り、その硬い表面をも突き破り咲いているのです。キリストにおいて、わたしたちも種なのです。」


2025/9/28 年間第26主日 ことばの祭儀、お説教

 

[9月28日/年間26主日]


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[お説教]

今日の福音のたとえ話の中で、アブラハムは言っています。 
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 
どうして、この「大きな淵」はできてしまったのでしょうか。 
この淵は、神が造られたものではありません。 
「ある金持ち」が、自分で作りあげたものなのです。
 
福音で述べられている通り、「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわ」っていました。金持ちは、ラザロのことを、よく知っていました。 
実際、名前も知っており、遠くから見ても、ラザロだとわかりました。
 
全身できものに覆われているラザロと、「紫の衣や柔らかい麻布を着」た金持ち。 
「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」ラザロと、贅沢三昧の毎日を過ごす金持ち。 
この大きな差が、大きな淵となったのです。 
金持ちは、ラザロを知っていたのに、彼の苦しみを知ろうとしませんでした。 
この無関心な態度が、淵を深くしたのです。 
金持ちは、立ち上がり、ラザロのもとに行くことができました。 
ほんの数歩の距離でした。目と鼻の先でした。 
しかし、金持ちは、立ち上がらす、歩み始めませんでした。 
金持ちの心は、ラザロから遠く離れていました。すぐ近くにいたラザロは、金持ちにとって、最も遠くにいる存在だったのです。金持ちの心の中に、ラザロは存在していなかったのです。金持ちの心の中にあったラザロとの距離が、淵を広げてしまったのです。 
金持ちは、ラザロを助けようと思えば、立ち上がって、すぐに助けに行くことができました。
しかし、助けようとしませんでした。その結果今、ラザロとアブラハムが、金持ちを助けようとしても、助けることができないのです。 

このたとえ話は、私たちに対する警告ではありません。真の幸いへの招きです。 
この世界で、私たちは、貧困やさまざまな暴力に苦しんでいる姉妹兄弟たちのことを無視して、幸せになることはできません。多くの人が苦しんでいることを知っていながら、ぜいたくな暮らしを続けることは、本当に不幸なことです。 
 
他人の苦しみを感じることができないことは、最大の不幸です。 
キリストによって集められている私たちは、幸いです。私たちは、すべてのいのちが 幸せになることを、心から願っているからです。すべての人とともに、幸せになるために努力しているからです。どうにかしたいと、日々悩んでいるからです。 
私たちは、希望の巡礼者です。希望の巡礼者は、貧困やさまざまな暴力によって苦しんでいる人たちとともに歩む巡礼者です。遠くで苦しんでいる人びとのことを、身近なこと、自分の生活の中のこととして受け止めて、毎日を生きている者です。 
世界はよくならないと、すぐにあきらめるのではなく、必ず、すべてのいのちが幸せになる日が来るという希望を持って歩む者です。 
私たちは、たとえ人を不幸にする淵ができていても、そこを渡る橋を築くことができます。
希望の巡礼とは、愛の橋を築いていく旅なのです。 
この地上を歩んでいる時、淵を渡る橋を築きましょう。この地上で生きている間に、あらゆる淵をなくしましょう。 
死んでからでは、もう遅いのです。 
今私たちが与えられている、心と体で、大きな淵のない世界を実現させていきましょう。
希望とは、ただ願うことではなく、願いを実現していくことなのです。 
必ず実現すると信じて、努力を続けていくことなのです。 

そして、日本の教会は今日、「世界難民移住移動者の日」を過ごしています。 
今年の教皇メッセージのテーマは、「移住者―希望の宣教者」です。 
このメッセージの中に、次のような言葉があります。 
「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、『定住』の誘惑に屈し、『旅する国』―天の祖国を目指して旅する神の民―であることをやめるとき、『世にある』者であることをやめ、『世に属する』者となるのです。」 
私たちは、この世界に生きていますが、この世界が、私たちの安住の地ではありません。
多くの人が幸せになっていない、この世界に留まってはならないのです。 
私たちは今日、すべてのいのちが幸せに生きられる神の国を目指して歩むよう励まされているのです。 
移住者と難民は、神の国を目指して、今まさに旅を続けているのです。神の国という希望を宣べ伝えているのです。この福音宣教の歩みを、ともに続けて行きましょう。


2025/9/21 年間第25主日 ことばの祭儀、お説教

 

[9月21日/年間25主日]


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[お説教]

聖年についての教皇文書、「希望は欺かない」の中で、「聖年は、地上の財は限られた特権的な人たちのためではなく、すべての人のためにあるということを思い起こさせます」と述べられています。そして、私たちは今、「すべてのいのちを守るための月間」を歩んでいます。この地球が、すべてのいのちのためにあることを思い起こして、回心の道を歩んでいます。自分さえ無事に生きることができれば、後はどうなってもかまわないという考えを改めて、どうしたら、すべてのいのちがともに生きることができるかを真剣に考えています。未来のいのちのために、私たちは今、何ができるかを悩んでいます。あまりにも多くのいのちが傷つき、生きることを奪われている現実を目のあたりにして、心を痛めています。自分もいのちを傷つけていることに加担していることを思い起こして、いたたまれない思いに駆られています。いのちの破壊に加担することはできても、いのちを守ることができない、無力な自分に気づかされています。

今日の福音で、主イエスは、「不正な管理人」のたとえ話を分かち合ってくださいます。この人は、金持ちの主人の財産管理をしていましたが、管理の仕事を取り上げられることになります。この人は、金持ちの財産を守る仕事を失おうとしています。仕事を失うことは、不幸なことです。しかし、管理の仕事を失うことは、金持ちが財産を増やすことに加担することから解放されることです。そして、この管理人は、主人に借りのある人たちに、証文を書き直させます。返さなければならない借りの量を減らします。金持ちの下で生きることができなくなっても、生きる希望を失いません。「自分を家に迎えてくれるような者たち」を得て、ともに生きていこうとします。主人に借りのある人たちと、ともに生きていくという道を選びます。自分だけが生き残る道ではなく、まわりの人も生きることができるようにします。ともに生きようとします。主人に返さなければならない量が減ることは、生きることができるようになる、生きやすくなるということです。

そして、今日の福音で、「不正にまみれた富」という言葉が出てきます。たとえ話に登場する金持ちは、多くの財産を持っています。だから、管理人が必要であり、他人に貸すことができます。この財産が、「不正にまみれた富」なのです。この財産が大きくなっていく時、富める者と貧しい者を生み出すからです。富める者が貧しい者を虐げるようになるからです。富める者は、貧しい者から奪うことで、富を蓄えているのです。富める者の、貧しい者への貸付けは、ほとんどの場合、虐げになっているのです。富める者たちは、自分の富を守るために、防衛費という名のもとに無駄遣いをしているのです。だから、主イエスは、「不正でまみれた富で友達を友達を作りなさい」と言われます。それは、「富を、だれかを虐げる手段ではなく、皆がともに生きていくための、神から恵みとして用いなさい」という意味なのです。さらに、主は今日、この地球で生きている私たちが、「自分の仲間に対して、…賢くふるま」うように求めておられます。私たちに与えられた富を、すべてのいのちを守るために用いるよう求めておられます。私たちは、神に仕えるために、すべてのいのちに仕えるために、富を用いるように求められているのです。神によって造られたものはすべて、この地球で、ともに生きていく仲間なのです。希望の巡礼者である私たちは、すべてのいのちという仲間とともに、歩んでいるのです。

教皇フランシスコは、最初に紹介した文書、「希望は欺かない」の中で、心からの願いとして、富裕国に向けて、次のように訴えています。「およそ返済が不可能な国の債務を免除する決断をしてください。それは、寛大さである以上に正義の問題です。…聖書が教えているように、大地は神に属しており、わたしたちは皆、そこに『寄留し、滞在する者』として生きているのです。わたしたちが、世界に平和への道を準備したいと真に望むなら、不正義の根本的な原因を正すよう尽力し、不公正で返済不能な債務を帳消しにし、飢えている人々の空腹を満たすことです。」この願いは、教皇個人の願いではありません。私たち教会の、希望の巡礼者の願いとしなければならないのです。使徒パウロが、「まず第一に勧め」ているように、今日、この願いを「すべての人々のためにささげ」ましょう。

2025/9/14 十字架称賛 ことばの祭儀、お説教

[9月14日/十字架称賛] 


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十字架称賛 ことばの祭儀










[お説教]

明日、15日は「敬老の日」です。 

日本の教会は、これに合わせて、今日、14日に「祖父母と高齢者のための世界祈願日」を過ごしています。この日のために、毎年、教皇メッセージが出されています。 

今年のテーマは、「希望を失うことのない人は、幸いだ」です。 

今年のメッセージ中で、教皇レオ十四世は、次のように述べています。 


「シラ書は、『希望を失うことのない人は、幸いだ』と述べます。 

これは、わたしたちが人生の中で―とくに人生が長い場合に―、未来に向かうよりも後ろを振り向きがちであることを示唆しています。 

しかし、教皇フランシスコが最後の入院中に書き記したとおり、『わたしたちのからだは弱いものですが、たとえそうであっても、何も、わたしたちが愛し、祈り、自分をささげ、信仰において互いに希望の輝くしるしとなることを妨げることはできません』。わたしたちは、どんな困難も奪うことのできない自由をもっています。すなわち、愛し、祈る自由です。すべての人は、つねに、愛し、祈ることができます。」 


そして、今日は、「十字架称賛」の祝日でもあります。 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」このみことばは、福音の核心であり、神の愛を、最も簡潔に、はっきりと宣言しています。

親である神は、ご自身以上に大切な存在である独り子を、教会だけではなく、教会を含む、この世界にお与えになったのです。これから与えるということではなく、もうお与えになったのです。この世界が拒否しても、与え続けておられるのです。 


では、「与える」とは、どういうことでしょうか。独り子がこの世に与えられたということは、神の独り子が、いつも、私たちとともにおられるということです。私たちとともにおられる、神の独り子イエスは、今、何をしておられるでしょうか。神の独り子は、今、十字架につけられておられるのです。十字架につけられて、愛し、祈っておられるのです。この世界を愛し、この世界のために祈っておられるのです。特に、苦しんでいるいのちを、この上なく愛し、その苦しみを、深く感じながら、すべてのいのちの、真の幸いを祈っておられるのです。 

 

この世界にある苦しみには、さまざまな暴力がもたらす苦しみがあります。 

戦争、貧困、差別などによってもたらされる苦しみがあります。しかし、信じたくても信じられない苦しみ、愛したくても愛せない苦しみ、他人のために何かしたくても、自分のことしか考えられないという苦しみがあります。 

欲しいものが手に入れば入るほど、便利になればなるほど、大きくなっていく苦しみがあります。十字架につけられている独り子は、すべての苦しみを、ともに苦しんでおられるのです。すべてのいのちが、すべての苦しみから解放されるよう、愛を込めて、熱心に祈っておられるのです。 


愛とは、問題を解決することではありません。何かを与えることでもありません。何かをしてあげることでもありません。 

愛とは、その人のことをいつも思い起こして、ともに生きることです。その人のために祈ることです。何もできないと失望することなく、祈り続けることです。病床にあっても、身体が思い通りに動かなくても、愛することはできます。何も活動ができなくても、まわりの人、すべてのいのちの幸いを、心から願うことこそ、最も大きな愛なのです。 

神の独り子イエスは、十字架上で何もできませんでした。だからこそ、愛し、祈り続けられたのです。 


高齢になるということは、いつも愛し、祈れるようになるということです。 

できなくなることが増えれば増えるほど、祈りの時間が増えるということです。愛する時間が、愛することを願う時間が増えるということです。 

私たちの本当の幸せは、何ができるということではありません。だれかより、上手に、早くできるということでもありません。私たちの本当の幸せとは、主イエスのように、十字架上で、愛し、祈り続けるということなのです。 

教会は、高齢の皆様の、愛と祈りに感謝しています。身体が思い通り動かず、教会に来れなくても、教会のことを大切に思い、祈り続けてくださる皆様に支えられています。 

そして、高齢の皆様こそ、希望の巡礼の道を先頭で歩んでおられます。 

何があっても、どこにいても愛することができるという希望を証ししておられるからです。何もできないと思われる時、祈りという、最もすばらしい愛の業を実行できるという希望を分かち合ってくださるからです。 

高齢の皆様は、教会の、世界の希望です。どうか、私たちの希望の巡礼を、高齢という恵みを分かち合いながら、導いてください。 



2025/9/7 年間第23主日 ことばの祭儀、お説教

 [9月7日/年間第23主日]


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[お説教]

私たちは、10月4日まで、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごします。そして今日は、「被造物を大切にする世界祈願日」です。

今年の、この日のための教皇メッセージのテーマは、「平和と希望の種」です。この中で、教皇レオ十四世は、すべてのいのちがともに暮らしている地球の危機について、次のように述べています。「世界各地で、わたしたちの地球が荒廃に向かっていることはもはや明らかです。至るところで生じている不正義、国際法違反、民族の権利侵害、格差、そしてそれらを生み出す貪欲が、森林破壊、環境汚染、生物多様性の喪失を引き起こしています。人間の行動がもたらした気候変動によって、極端な自然現象は頻発し、劇化しています。さらに、武力紛争が加える人間と生態系の破壊の中長期的な影響はいうまでもありません。自然破壊による打撃は、すべての人に同じように作用しているわけではない〔のです。〕正義と平和を踏みにじることは、いちばん貧しい人、もっとも隅に追いやられた人、排除された人が、もっともしわ寄せを被るのです。」私たちは今日、このことばを、自分に関わることとして、真剣に受け止めるように求められています。

主イエスは、今日の福音で言っておられます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」主は、自分や自分の身内だけを大切にする人は、キリスト者ではないと言っておられるのです。そして、「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるように招いておられます。「自分の十字架」とは、自分が抱えている苦難や苦労だけではありません。地球が荒廃に向かっていることに、激しい痛みを感じることです。人間の貪欲による、あらゆる暴力や自然破壊によって苦しめられている人びととともに苦しむことです。すべてのいのちの苦しみや悲しみが、自分の苦しみや悲しみになることです。イエスのもとに行くこととは、十字架につけられたイエスのもとに行くことなのです。イエスとともに歩むということは、イエスとともに、十字架を背負って、歩むことなのです。しかし、十字架を背負って歩む道は、滅びや死への道ではありません。救いといのちへの道です。希望の巡礼者である私たちにとって、十字架の道は、希望の道です。正義と平和を踏みにじられて、苦しんでいる人びととともに、正義と平和の回復を目指して歩む道だからです。十字架の後には、すべてのいのちが生きるようになる復活があるからです。

この地上では、ほんの一部の者が、あまりにも多くのいのちを犠牲にして、自分たちの欲望を満たそうとしています。決して満たされることのない欲望、満たそうとすればするほど大きくなる、欲望の奴隷となり、自然と人間の破壊の道を突き進んでいます。
破壊し尽くされたガザを思い起こす時、そう思わずにはいられません。天上への道、復活への道は、破壊への道と正反対の道です。自分のいのちを、すべてのいのちのためにささげながら、生きていく道です。すべてのいのちが、平和のうちに生きてほしいと、心から願いながら歩んでいく道です。自分だけが幸せになりたいという欲望に駆られて、先を競いながら走る道ではありません。すべてのいのちが、ともに生きる日が来るという希望を分かち合いながら、一歩一歩歩んでいく道です。だれもとり残されないように、ゆっくりと歩んでいく道です。私たち希望の巡礼者が歩んでいる道です。

今日の第二朗読は、「フィレモンへの手紙」からです。この手紙を通して、使徒パウロは、私たちに、今まで愛することができなかった人を、愛するように招いています。愛することができない人を愛することは、大きな苦しみです。十字架です。しかし、愛が広がることは喜びです。パウロは、この喜びを味わうように励ましています。今は、愛を広げることができないかもしれません。しかし、私たちは、十字架につけられたキリストのように、すべてのいのちを愛したいという希望を持つように励まされています。この希望は、十字架の道を歩むことで、必ず実現します。すべてのいのちを愛せるようになるということが、復活の恵みなのです。

最後に、前教皇フランシスコのことばを分かち合いたいと思います。「飽きられるほど繰り返し申し上げている二つの確信を、今一度述べたいと思います。ー『すべてはつながっています』、そして、『だれも独りでは救われません』。」フランシスコの、このことばを心にとめて、「すべてのいのちを守るための月間」の歩みを続けていきたいと思います。すべてのいのちが、ともに救われるという希望を分かち合いながら、希望の巡礼を続けたいと思います。

2025/8/31 年間第22主日 ことばの祭儀、お説教

[8月31日/年間第22主日]


 [ことばの祭儀]
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[お
説教]

明日から、「すべてのいのちを守るための月間」が始まります。この月間は、2019年に教皇フランシスコが訪日したことを記念して、翌2020年から設けられています。フランシスコ教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でした。今日の福音で、主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言っておられます。このみことばは、すべてのいのちを守るために心にとめておきたい福音であると言えます。

すべてのいのちを守ることとは、まず、すべてのいのちを知ることです。すべてのいのちの尊さ、すばらしさを知ることです。自分といういのちが、すべてのいのちの一部であることを知ることです。自分が、まわりのいのちにつながっていなければ、まわりのいのちに支えられなければ、一瞬でも生きることができないということを知ることです。そして、私たちの神が。すべてのいのちを大切にしておられることを忘れないことです。

主イエスが言われる「高ぶる者」とは、いのちとは何かを知らない者のことです。自分を支えてくれている、まわりのいのちに気づこうとしない者のことです。だれの世話にもなっていないし、なりたくないという思いを抱いている者のことです。高ぶる者に、まわりのいのちへの感謝はないのです。高ぶる者は、「上席」に着き、自分を偉く見せることしかできないのです。「上席」に着き、神が、今、ここに、おられることに気づこうとしないのです。

「へりくだる者」とは、いのちのつながり、いのちの支え合いを知っている者のことです。自分一人では生けていけないことを悟っている者のことです。いつも、いのちを与えておられる神に、まわりのいのちに、いつも感謝している者のことです。へりくだる者は、「末席」に着き、まわりのいのちへの気づかいを忘れません。「末席」に着き、まわりのいのちに奉仕しています。

すべてのいのちを守るために、私たちは、回心します。私たちは、さまざまな「関係」の中で生きています。神との関係、隣人との関係、自然環境との関係の中で生きています。回心とは、こうした関係を見直すことです。神に、心からの感謝と賛美をささげながら生きているかと問いかけることです。まわりの人、まわりの自然環境に支えられていることを忘れていないかと問いかけることです。まわりの人、まわりのいのちを大切にしているか、自分といういのちを大切にしているかを問いかけることです。問いかけて、神との関係、まわりのいのちとの関係が歪められていると知ったならば、良い関係を回復することです。回復する努力をすることです。努力を続けていくことです。「低くされ」るということ、
「高められる」ということは、だれかが否定されるということではありません。関係が逆転するということでもありません。ともに生きるという関係になるということです。いのちの関係が回復するということです。

私たちは今、聖年を過ごしています。聖年は、神との関係、すべてのいのちとの関係を回復するための時です。いのちの関係を回復して、すべてのいのちが、生かされていることを、ともに生きていることを喜び、祝う時です。いのちの神に賛美と感謝をささげながら、ともに祝う時です。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ことで、ともに祝う時なのです。

そして、聖年の祝祭は、神の国の宴会を証しするものです。神の国の宴会が始まっていることを宣言するものです。今日の福音で、この神の国の宴会について、主イエスは、はっきりと言っておられます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」私たちは、確かに幸いな者となります。この宴会を通して、この地上の物のやりとりによる欲望の満足ではなく、神から与えられている、いのちの喜びが得られるからです。いのちの分かち合いの喜びが味わえるからです。私たちは、希望の巡礼者です。見える物ではなく、見えないいのちに希望を見い出します。目先の経済的な利益、自分だけの平和ではなく、すべてのいのちがともに生きるようになる未来に希望を見い出すのです。希望を見い出して、日々、回心しながら歩んでいきます。いのちの道を歩んでいきます。いのちを否定する出来事が毎日のように起こっていますが、いのちという名の希望をもって、ともに歩んでいきましょう。明日からの「すべてのいのちを守るための月間」を、希望を分かち合いながら、ともに歩んでいきましょう。希望は欺きません。

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※ 2025年すべてのいのちを守るための月間
ラウダート・シ部門 担当司教メッセージ


















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2025/10/12 年間第28主日 お説教

  [10月12日/年間28主日] [お説教] 今月は、「世界宣教月間」です。そして、来週19日は、「世界宣教の日」です。  希望の巡礼者である私たちは、この世界の中で、「希望の宣教者」として歩むように召さ れています。今年の教皇メッセージで、教皇フランシスコが述べているように、...

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