2025年5月19日月曜日

2025/5/18 復活節第5主日 お説教

 

〔5月18日/復活節第5主日〕


復活祭を祝っている私たちは今日、十字架上ですべてをささげようとされておられる主イエスに出会います。十字架刑上の死があるからこそ、復活があるのです。

主イエスはまず、神の「栄光」について語られます。栄光とは、神の真の姿です。それは、私たちすべてを愛しておられる姿です。私たちを愛するがゆえに、十字架上で、苦しんでおられる姿です。十字架上の苦しみは、想像を絶する大きな苦しみです。なぜなら、神の愛は、私たちの思いを超える、大きな愛だからです。そして、この愛は、何があっても、滅びることはありません。神の愛は、永遠に続きます。主の復活とは、神の愛が、決して滅びず、永遠に生き続けるということなのです。神が私たちを、すべてのいのちを、愛し続けておられるということです。すべてのいのちを包みこんでいる、永遠の愛こそが、神の栄光なのです。

主イエスは今日、永遠に続く、この大きな愛に加わるように、私たちを招いておられるのです。「掟」という言葉が使われていますが、押しつけではありません。守らなければ救われないという脅かしでもありません。ともに愛の喜びを体験してほしいという強い願いなのです。愛し合えば幸福になれるということではなく、愛し合うことこそが、私たちの最大の幸福なのです。愛し合うことが、私たちの救いなのです。

主が私たちに与えられた掟は、「新しい」掟です。それは、日々新たにされていく掟なのです。一度決められたら絶対に変わらない掟ではなく、日々、変わっていく掟なのです。愛するという行いには、さまざまな形があります。今自分にできることを、精いっぱい行うこと。何もせず、じっと見守ること。愛情を込めた言葉で、声をかけ続けること。だれにも知られることなく、祈り続けること。「祈っています」と言葉で、励ますこと。自分ができることがなく、祈りの言葉も出てこなくても、苦しむこと。ともに苦しみ、悲しむこと。そして、ともに喜ぶこと。さまざまな形があります。人によって、置かれた状況によって、愛の掟は変わっていきます。新たにされます。毎日、新しい掟が与えられるのです。一人ひとりに、異なった掟が与えられるのです。

そして、「互いに愛し合う」とは、自分だけが一方的に愛することではありません。相手の愛、まわりの人の愛に気づき、感謝することです。自分はこんなに愛しているのに、だれも応えてくれない。そう嘆きたくなることがあります。そんな時は、自分が、どれほど多くの愛に支えられて生きているかを思い起こしたいと思います。あたりまえのように過ぎていく毎日の出来事の中に、新たな愛を発見したいと思います。まわりの人の愛に気づくことで、自分の愛を新たにしていこうと思います。新しい掟は、日々、新たな愛を発見して、自分の愛を新たにしようという招きです。互いに、愛を新たにし合いなさいという励ましです。

今日の第二朗読で、神は、「見よ、わたしは万物を新しくする」と宣言されています。神は、私たちの愛も、新しくしてくださいます。ですから、愛である神に向かって、心からの願いをささげたいと思います。私たちの愛が新たにされますように、熱心に願い求めたいと思います。愛されていないと思って、苦しんでいる人が、愛されていることに気づくことができますように祈りたいと思います。愛することができないと悲しんでいる人が、その悲しみこそ、愛の始まりだということに気づくことできますように、ともに祈りたいと思います。私たちが互いに愛し合うことによって、この世界に平和が実現しますように、あきらめずに、祈り続けたいと思います。

今年の聖年の大勅書に、フランシスコ教皇が残した、次のような言葉があります。「希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスのみ心からわき出る愛がその根本です。」私たちは、十字架上で実現したキリストの愛に満たされています。この愛によって、毎日を生きる時、生きようと願う時、生きようともがく時、私たちは、希望の巡礼者として、ともに歩んでいることになるのです。「互いに愛し合いなさいさい」という新しい掟は、私たちの希望です。私たちが、まわりの人と分かち合える希望です。愛が新たにされるように、希望も新たにされます。愛から生まれた希望を、とも宣べ伝えていきましょう。

2025年5月13日火曜日

2025/05/11 復活節第4主日 お説教

  〔5月11日/復活節第4主日〕


主イエスは、ご自分に従う私たちに、「永遠の命を与える」と約束してくださいました。そして、主が復活された今、私たちには、永遠の命が与えられています。今日は「世界召命祈願の日」です。召命とは、私たちが今生きている、この地上で、永遠のいのちを生きていくようにという呼びかけです。

 永遠のいのちを生きていくとは、どのように生きていくことでしょうか。先月21日に帰天した教皇フランシスコは、一昨年2023年10月に出された、地球の気候危機についての文書の中で、次のような言葉を残しています。「飽きられるほど繰り返し申し上げている二つの確信を、今一度述べたいと思います。ー『すべてはつながっています』、そして『だれも独りでは救われません』。」私たちは今日、再び、この言葉を分かち合いたいと思います。教皇の確信を、私たち自身の確信にしたいと思います。

 永遠のいのちとは、いのちのつながりです。神のいのちと、私たちのいのちのつながりです。主イエスは今日、「わたしと父とはひとつである」と宣言されています。御子のいのちと御父のいのちがつながり、ひとつになっているということです。そして、私たちも、このいのちにつながっているのです。このいのちのつながりを、毎日、生きていくように呼びかけられているのです。

 このいのちのつながりは、神によって造られ、大切にされている、私たち同士の、いのちのつながりでもあります。地球上のすべてのいのちのつながりです。だれも独りでは救われないとは、このいのちのつながりを表していると言えます。だれも、独りでは幸福になれないのです。この世界では、あまりにも多くの人が、幸福を感じることができない生活を強いられています。数えきれない人が、常にいのちの危機にさらされています。虐待や差別によって、人生という、いのちを生きる力を奪われている人がいます。こうした人びとの多くは、沈黙を強いられ、声を上げることもできません。こうした世界の中にあって、いのちのつながりを考えずに、自分だけの幸福を求めることは、最大の不幸です。まわりの人の悲しみ、まわりのいのちの苦しみを感じることができないことほどの不幸はないのです。まわりの人のことを考える余裕がないということは、それほど忙しいということは、不幸なことであり、救われていないということなのです。

 召命とは、神と、すべてのいのちと、まわりの人とつながって生きていくようにという招きです。みんなで救われたい、ともに幸せになりたいという願いであり、みんなで幸せになることができる、ともに幸せになる日が来るという希望です。希望の巡礼者である私たちは、この願い、希望を分かち合うよう呼びかけられています。希望を宣べ伝えることは、すべての人の召命なのです。

 ここで、天上のいのちについても考えたいと思います。私たちは、天上にいる人たちの執り成しを願います。天上のいのちと地上のいのちは、祈りによってつながっています。天上にいる人たちは、私たちと苦しみや悲しみをともにしています。苦しみや悲しみをともにしているからこそ、私たちのために祈っているのです。天上の人たちは、祈りという召命を生きているのです。そして、地上で生きている私たちも、祈ることができます。自分の救い、自分の幸福だけでなく、すべての人の幸福のために祈ることができます。祈ることも、すべての人の召命なのです。私たち人間は、祈るために、ともに祈るために、祈りを分かち合うために、永遠のいのちを与えられているのです。祈り続ける時、永遠のいのちを生きているのです。

 フランシスコ教皇は、3月の入院中に出した、今年の世界召命祈願の日のメッセージの中で、次のように述べでいます。「召命とは、神が心に授けてくださる尊いたまものであり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るようにという呼びかけです。」だれかを愛するとは、その人の、本当の幸福を願いながら、その人ととも生きることです。何が、この人にとって一番良いことなのだろう。そんな問いかけをしながら、ともに生きることです。こうした願いや問いかけは、私たちを、自分の中心の生き方から解放します。私たちの生き方は、ともに幸せになろうという生き方、みんなで救われようという生き方へと変えられていきます。「自分自身の殻から出る」ということは、このように生き方が変えられていくことではないでしょうか。愛という召命は、愛によって私たちが変えられていくことだと言えます。

 私たちはすでに、いのちのつながりという、永遠のいのちを与えられています。このいのちを、日々、感じながら、感謝しながら、ともに歩んでいきたいと思います。私たちの生きる姿が、まわりの人に希望を与えることを願って、信じて、希望の巡礼者の歩みを続けていきたいと思います。


2025年5月2日金曜日

2025/05/04 復活節第3主日 お説教

 〔5月4日/復活節第3主日〕


今週の福音も、復活のキリストに出会う弟子たちの姿を伝えています。復活祭を、今祝っている私たちも、復活の主に出会います。そして、復活のいのちをいただきます。


 今日の福音が伝えている通り、弟子たちは、「漁に行」きました。弟子たちにとって、漁は、日常生活を意味します。弟子たちは、「その夜は何もとれなかった」のです。私たちの日常生活は、喜びばかりではありません。むしろ、思い通りにならないことばかりです。努力しても報われず、何のために生きているのかわからなくなることがあります。

 

復活され、今生きておられるキリストは、そのような時こそ、私たちのところに、私たちの日常生活の真っただ中に来られます。私たちの毎日の生活は、復活の主との出会いの場なのです。そして、復活の主は、私たちに、生きる力を与えてくださいます。福音書に登場する弟子たちは、復活の主に、「ありません」と答えました。弟子たちには、自分たちだけで生きていく力は「ありません」でした。弟子たちが、主の前で、自分たちの無力を認める時、主の力が働きました。私たちの生きる力も同じです。主の力の働きによって、毎日を生きることができること、これこそ、本当の意味で、生きる力ではないでしょうか。復活の主がともに生きておられることを感じながら、日々を生きていくことが、復活のいのちを生きていくことではないでしょうか。

 

今日の福音は、「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った」と伝えています。「主だ」という、この言葉は、主がともに生きて、ともに働いておられるという気づきの言葉です。喜びの言葉です。復活のいのちに満たされた、力強い言葉です。私たちも、毎日の生活の中で起こっている出来事を思い起こしてみましょう。あの時、私が出会ったのは、復活の主だ。あの時、私に語りかけてくださったのは、今生きておられる主だ。私の心が叫びをあげた時、耳を傾けてくださったのは、ともにおられる主だ。不安や怒りの中にあった時、私の心に平和を与えてくださったのは、主だ。今、私を愛してくださっているのは、主だ。そんな気づきが、私たちの生きる力なのです。何があっても、生き続けようという、生きる希望なのです

 

そして、「主だ」という気づきは、日常の、ごく普通の、小さな出来事の中で得られるのです。今日の福音で、弟子たちが、「陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」と伝えられています。このような、毎日の生活の中で、誰かが行う、他の人のための小さな心遣いこそ、「主だ」と叫びたくなる出来事なのではないでしょうか。小さな出来事の中に復活の主がおられることに気づくことこそが、本当の意味で、生きることであり、生きる力であり、復活のいのちなのではないでしょうか。そう考えると、私たちのまわりは、復活のいのち、復活の希望に満ちていると言えます

 

復活のいのちは、「行きたいところへ行」くためのいのちではありません。「行きたくないところへ連れて行かれる」ためのいのちです。復活し、今生きておられる主は、私たち一人一人に、「わたしに従いなさい」と言っておられます。主が私たちを連れて行かれるところは、多くの場合、「行きたくないところ」です。しかし、主に従って、行きたくないところに行くことができる時、私たちは、復活のいのちを体験することができます。復活のいのちを生きるとは、神と隣人を愛するがゆえに、「行きたくないところに」行くことなのです

 

私たちは今、希望の巡礼者として歩んでいます。希望の巡礼者は、主に従って歩んで行く巡礼者です。主が望まれるならば、「行きたくないところ」にも向かって、歩み続ける巡礼者です。その歩みこそが復活であるということを信じて歩み続ける巡礼者です。そうして、真のいのち、復活のいのちという希望を証する巡礼者です。このいのちの巡礼を、復活の喜びのうちに、ともに歩んで行きましょう。


2025/04/27 復活節第2主日 お説教

 


〔4月27日/復活節第2主日〕

[説教]

今日は、神のいつくしみの主日です。今日の答唱詩篇で、「神のいつくしみは絶えることがない」という賛美の言葉があります。この言葉通り、「神のいつくしみ」とは、何があっても絶えることがない愛のことです。私たちが信じている神は、永遠の神です。そして、すべてのいのちを永遠に愛してくださる神なのです。復活祭は、愛が永遠に続くことを祝う時なのです。

今日、私たちは、復活の主イエスに出会います。復活の主の姿を見ます。復活された主の体には、十字架上で負った深い傷が、そのまま残っています。傷跡ではなく、傷そのものが残っています。福音記者ヨハネが伝える、この傷ついた体は何を意味するでしょうか。主の傷ついた体は、十字上の愛が、復活後も続いていることを意味しているのです。主の復活とは、十字架上で示された愛が、永遠に続くということなのです。ただ、神の愛は永遠だということではありません。十字架上で示された愛が、永遠だということなのです。

そして、今日の福音は、弟子たちが、「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と伝えています。弟子たちが、恐れていたことは、愛することです。誰かを愛して、自分が傷つくことです。だから、愛さなくてもよいように、誰とも関わらなくてもよいように鍵をかけていました。私たちも、愛することを恐れて、心に鍵をかけていないでしょうか。

復活された主は、鍵をかけている弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」ます。復活の主は、弟子たちを恐れから解放し、愛することの喜びをお与えになります。「平和」とは、愛されていること、愛することを喜べることです。安心して、まわりの人と愛し合えるになることが、平和になるということなのです。平和を与える主は、キリストの弟子である私たちに、「手と脇腹とをお見せに」なります。復活の主は、すべてのいのちへの愛、決して絶えることがない愛を、私たちに、お見せになるのです。主の手と脇腹の大きな傷は、主の大きな愛なのです。私たちは今、この大きな傷を、主の大きな愛を見つめるよう招かれています。この愛を見つめ、愛されている喜びを味わうことが、私たちの復活体験なのです。

さらに、復活の主は、弟子たちに、「聖霊」を与えられます。この霊こそ、愛の霊です。この愛の霊を与えられて、私たちは、神とすべてのいのちを愛せるようになります。喜んで、愛せるようになります。愛さなければならないという義務感ではなく、愛したいという願いになります。今は愛せなくても、いつか愛せるようになるという希望になります。こうした愛の体験こそが、私たちの復活体験なのです。

愛の霊を与えられる私たちは、まわりの人の罪をゆるすことができるようになります。罪のゆるしとは、罪を容認することではありません。忘れたり、なかったことにすることではありません。見て見ぬふりをすることではありません。ともに、罪に向き合うことです。罪を犯さずに生きる道を、ともに模索することです。神に愛されている者として、ともに生きていくことです。罪を犯した人のために祈ることです。罪を犯した人を愛することです。顔を見たくなくても、愛することです。復活された主の手と脇腹とを思い起こして、愛することです。自分も罪人であることを思い起こし、愛し合うことです。ゆるしは、愛なのです。ゆるす者とゆるされる者が分かち合う愛なのです。ゆるしこそ、十字架上で示された愛で、絶えることのない、神のいつくしみなのです。

いつくしみという愛を実行することは、極めて困難なことです。しかし、まったく不可能だということではありません。そして、この愛を実行できれば、私たちは、本当に幸せになれます。皆がいつくしみの愛を実行できれば、この世界に平和が、真の平和が、実現します。困難なことであるが、不可能ではなく、皆が心から望んでこと。それは、希望と呼ばれています。私たちは今年、希望の巡礼者として、毎日を生きています。復活という希望、いつくしみという希望、罪のゆるしという希望を持って、これからもともに歩んでいきましょう。十字架上の大きな愛を分かち合いながら、復活の主に従って、希望の巡礼の道を歩んでいきましょう。


 

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2025/5/18 復活節第5主日 お説教

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