[復活節第6主日 お説教]
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」私たちは今日、主イエスが残してくださった平和を分かち合うために集まっています。主イエスが与えてくださった平和を、日々の生活の中で出会う人々と分かち合うために、今日も派遣されて行きます。争いが絶えない、この世界の中で、主の平和を宣べ伝えます。主が復活されたと宣べ伝えることは、主の平和を宣べ伝えることなのです。
平和とは、単に争いがないということではありません。争いがないように、力を持つ者が力を持たない人を押さえつけることで実現するものではありません。集団の中で、自由に生きることができない雰囲気を作り出して、空気を読まない人を追い出すことで得られるものではありません。私たち人間は、だれかに平和を与えることも、だれかから平和を奪うこともできません。ただ、主が与えてくださる平和を分かち合うことしかできません。
主イエスは、平和を「世が与えるように与えるのではない」と言っておられます。主が与えてくださる平和とは、「聖霊」の導きに従って生きるということなのです。聖霊は、私たちに、何が大切かを思い起こさせてくださいます。そして、まわりの人に語らせてくださいます。まわりの人を通して、大切なことが語られる時、心を開かせてくださいます。こうして、私たちが大切なことを見失わずに、ともに生きていけるようにしてくださいます。
今日の第一朗読は、最初の教会会議について伝えています。この会議で、聖霊の導きに従って、皆がともに歩んでいくためには、何が大切なことかが話し合われました。そして、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことを決め」たという結論に達しました。本当に大切なことを皆で守り、互いの生き方を尊重しながら、自由に生きていく。これこそ、主イエスが与えておられる平和なのです。そして、この平和が守られるために、主の平和が続いていくために、私たちは、何が大切かを確認し合う場、語り合い、聞き合う集まりを持ち続けなければならないのではないでしょうか。決まっていることだから、今まで続いてきたことだからという理由で、話し合いをしようとしない時、主の平和が失われていくのではないでしょうか。変わる必要がある時に変わろうとしないことは、主の平和を恐れ、受け入れないことではないでしょうか。主の平和ではなく、現状維持という平和に逃避することになるのではないでしょうか。主の平和は、十字架上で死んで、復活された主の平和です。変わるという苦しみを経て、新たに生きるようになるという平和です。
今日は、「世界広報の日」です。コミュニケーションについて考え、祈る日です。今日、大量の情報を伝達することが可能となっています。そのため、私たちは、情報の選択ができなくなっています。押しつけられた情報を、自分で選択した情報だと錯覚させられています。大切でない情報に振り回されて、争わなくてもよいことで争い、情報による分断と対立が起こっています。実際、情報が武器となり、情報の暴力が、多くの人を傷つけ、尊いいのちを奪っています。コミュニケーションという言葉の、本来の意味は、交わりを持つことです。語り合い、聞き合うことで、互いの生き方を学び、大切にし合うことです。そうした交わりによって、本当に大切なことを見い出し、ともに生きていくことです。大量の情報の奴隷とされている、私たちは、本当のコミュニケーションができなくなっています。私たちは、今日、本来の意味でのコミュニケーションができますように、祈りたいと思います。私たちのコミュニケーションを導いてくださる聖霊の働きを願い求めたいと思います。本当のコミュニケーションを続ける中で、主の平和が与えられることを信じて、熱心に祈りたいと思います。
私たちは、一人で歩む、希望の巡礼者ではありません。希望について分かち合いながら、コミュニケーションを深め、広げていく、巡礼者です。私たちの歩みが、キリストの平和を証しするものとなりますように祈りながら、この世界の中で、巡礼の旅を続けていきましょう。