今日は、「喜びの主日」です。
主イエスが、すでに来られたことの喜び、今、私たちとともにおられることの喜び、再び来られることの喜びを分かち合う日です。
希望の巡礼者は、どのような時も喜びを失いません。主が与えてくださる喜びを分かち合いながら、この世界を歩み続ける巡礼者です。
救い主イエスが来られる喜びとは、どのような喜びでしょうか。
今日の福音で、主ご自身が、この喜びについて、はっきりと宣言しておられます。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
主イエスが、二千年前にこの世界に来られた時、この喜びがもたらされました。この喜びの時が始まりました。そして、主が再び来られる時、すべてのいのちが、すべての人がこの喜びを得ることになります。
では、今、私たちはこの喜びを、どう生きていけばよいのでしょうか。
毎年、主の降誕を祝えば、それで十分なのでしょうか。主が再び来られると、宣言し、ただ待っていれば、主が来られる喜びを宣べ伝えていることになるのでしょうか。
違うと思います。私たちは、日々の生き方によって、愛の行いによって、主が来られる喜びを実現していくように励まされているのです。
主が今、ともに生きておられる喜びを実現するように励まさているのです。
私たちの愛の行いは、立ち止まることから始まります。
私たちは、日常の生活の中で、よく走っていないでしょうか。何かから取り残されないように、走らされていないでしょうか。
そこで、走ることを止めて、ゆっくり歩いてみたいと思います。ゆっくり歩こうとする時、私たちは、急いで走っている人たちに恐怖を感じると思います。初めて訪れる大都市の中で、方向を見失い立ち止まる時、まわりの速い動きが暴力のように感じると思います。このように感じることこそ、さまざまな理由で、走ることができない人に生きにくさをもたらしているのではないでしょうか。そして、走ることを止め、立ち止まり、じっくりとまわりの様子を見て、まわりの音を聞く時、私たちは気づくはずです。
走っていた時、自分こそが見えていなかった、聞こえていなかったと。
立ち止まるという自由を、足が失っていたことを。そして、走らず、ゆっくり歩いて生きていけることこそが、喜びであることに気づくはずです。
走りたくても走れない人の気持ちがわかる時、まわりの人の苦しみや悲しみが感じることができる時、生きていることを実感できるはずです。走らされていた時は死んでいたが、立ち止まっている今こそ、生きていることに気づくはずです。本当の意味で、生きていることに、深い喜びを感じるはずです。
愛の行いとは、互いの弱さや貧しさを知り、支え合うことです。愛とは、ともに、弱く、貧しくなっていくことです。愛とは、強い者が弱い者に、何かをしてあげることではありません。富んでいる者が貧しい者に、何かを恵んでやることではありません。貧しさと弱さを分かち合うことです。私たちは、貧しく、弱いからこそ、分かち合い、愛し合えるのです。このことこそ、貧しい人の福音なのです。貧しい人は、福音を知らされていると同時に、福音を告げ知らせているのです。
この世界では、貧しくなることが、日々の生活が困難となることになっています。貧しいことが、避けるべきこと、恥ずかしいこととなっています。貧しさを免がれるために、まわりと争わなければならなくなっています。
主イエスが来られる時、天の国が来る時、貧しさは、愛されている喜び、愛し合える喜びとなるのです。天の国が完成しても、私たちの貧しさはなくなりません。私たちは皆貧しいからこそ、ともに生きることができるようになるのです。
私たちが、愛の行いを実行することで、救い主イエスが来られたことを証しすることができます。主が今、私たちとともに生きておられることで告げ知らせることができます。そして、主が再び来られるという希望を分かち合うことができます。
私たちの愛の行いは、この世界において、報われないことが多いです。しかし、報われないからこそ、愛であると言うことができます。
使徒ヤコブは、「主が来られるときまで忍耐しなさい」と言って、私たちを励ましています。忍耐して、愛の行いを続けていきたいと思います。弱く、貧しい私たちは皆、「天の国で最も小さな者」ですが、「洗礼者ヨハネより偉大な者」です。天の国が完成すること信じて、愛の行いを続けているからです。
希望の巡礼者として、私たちの希望、主が再び来られるまで、忍耐して、愛の行いを続けていきましょう。イザヤが預言しているように、荒れ野を、喜びながら、歩んでいきましょう。人間としての弱さと貧しさという福音を分かち合いながら、主の降誕を迎える準備を進めていきましょう。
12月14日 待降節第3主日
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