[説教]
私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。
洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。
一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。
今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。
この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。
ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。
ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。
この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。
この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。
そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。
私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。
主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。
「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
このみことばは、マルタの願いに応えたものです。
マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。
死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。
洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。
復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。
復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。
今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。
洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。
洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。
私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。
キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。