4月5日/復活の主日・日中のミサ

 [説教]

復活祭が始まりました。私たちは、5月24日の聖霊降臨の主日までの五十日間、主イエスの復活を喜び、ともに祝います。


私たちはまず、主イエスの復活について、次のことを確認したいと思います。すべての福音が伝えているように、主イエスの復活を最初に体験したのは、女性たちだったということです。彼女たちは、主を深く愛していました。主の十字架上の死は、彼女たちに絶望をもたらしたのではなく、主への確固とした愛をもたらしました。だから、彼女たちは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」、主の墓を訪れたのです。彼女たちにとって、権力を持つ男性たちに無残に殺された主は、敗者ではなく、愛する主なのです。私たちは今日、彼女たちの深い愛から学びたいと思います。そして、この女性たちが、他の弟子たちに、復活の出来事を伝えたのです。女性たちの主への深い愛が、主の復活の福音を広げていきます。


今日の福音で、マグダラのマリアは、二人の男性の弟子に伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」このメッセージは、主が墓におられないから、いっしょに探しましょうという招きのメッセージです。しかし、二人の男性は、主が墓の中におられないことを確認しただけです。彼らは、墓まで走りますが、その後は走らなくなり、家に帰ってしまいます。私たちも今日、主が墓の中におられないことを知りました。私たちは、どうすればよいでしょうか。どこに行けばよいでしょうか。何をすればよいでしょうか。主が復活されたということ、墓におられないということは、私たちへの問いかけとなるのです。私たちは、これからどう生きていくかという問いかけとなるのです。この問いかけへの答えを探して歩み続けることが、私たちの復活なのではないでしょうか。復活とは、生き返ることではありません。生きていることの意味を問いかけながら、毎日を生きていくことなのです。


そして、主の復活は、時間がかかる出来事でした。福音記者ヨハネは伝えています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてあった。」主は、目覚めて、すぐに墓の外に出ていかれたわけではありません。起き上がり、一歩を踏み出すために、体を包み、顔を覆っていた布を解かなければなりませんでした。ですから、歩き始めるまでに、時間がかかったことでしょう。さらに、墓の出口は、石でふさがれていました。この世界への入口が、ふさがれていたのです。この石を取りのけるためにも、時間がかかったはずです。私たちの復活も、同じように時間がかかります。私たちも、さまざまな布で包まれて、動けなくなっています。顔を覆われて、見えなくなっています。行きたいところがあっても、大きな石が立ちふさがって、歩みを進めることができません。しかし、私たちは、こうした布や石をここちよいものとして感じていないでしょうか。動けないこと、まわりが見えないこと、進むことができないことに、安住していないでしょうか。私たちの復活とは、たとえ時間がかかっても、墓から出ることなのではないでしょうか。墓は、じっとしていればよいところです。だれかに傷つけられることもありません。だれかを愛そうとして傷つくこともありません。しかし、墓の中では、まわりの人とともに生きることはできません。だから、私たちは、墓から出たいのです。墓から出て、主イエスと出会い、まわりの人とともに生きたいのです。そして、生きている喜び、復活の喜びを、皆で分かち合いたいのです。


時間がかかっても、墓から出ましょう。そして、復活された主を探す旅を始めましょう。ともに旅をしながら、生きている喜びを、復活の喜びを分かち合いましょう。私たちが復活の喜びを分かち合う時、その分かち合いに、復活された主が加わってくださるのです。主イエスは、復活して、今、生きておられるのです。


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