[説教]
私たちは今、「年間」という時を過ごしています。この期間は、私たち、主イエスから派遣されて、毎日の生活の中で福音を宣べ伝える時です。
私たちが宣べ伝える福音は、「天の国は近づいた」というよい知らせです。「天の国」とは、場所ではありません。生きている喜びです。神に生かされている喜びです。まわりのいのちと共にに生きている喜びです。神とまわりのいのちに支えられて生かされていることに感謝できる喜びです。ここに集まっている私たちは今日、この喜びが、「近づい」ていることを宣べ伝えるよう励まされているのです。「近づい」ているとは、天の国が始まっているということです。そして、まだ完成していないということです。私たちの喜びは、まだ本物ではないということです。多くの人が、喜びを感じていないということです。喜びでないことを喜びと思い込んで、その場限りの満足を得ているということです。
今日の福音は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と伝えています。飼い主のいない羊は、どこに向かえばよいかわからなくなります。危険や危機が来ても気づきません。そして、動けなくなります。私たちも、飼い主のいない羊になっていないでしょうか。生きている意味を見い出しているでしょうか。将来のことなど考えたくない。今さえよければいい。自分の幸せを考えるのが精一杯で、まわりの人のことなど考える余裕などない。今のままでいいから、変わりたくない。こうした思いが起こるのが悪いということではありません。こうした思いが起こる時、私たちは、「弱り果て、打ちひしがれている」自分に気づきたいと思います。そして、強がらず、弱音を吐きたいと思います。祈りとは、賛美と感謝だけではなく、神に、安心して弱音を吐くことです。弱音を吐き終わった後の賛美と感謝こそ、本当の祈りなのです。神に弱音を吐くだけでなく、互いに弱音を吐き合いたいと思います。教会は、安心して、弱いままでいることができるところです。強くなければいられないとしたら、そこは教会ではありません。
人間は強くないのです。弱い自分を認めて、神に祈るしかないのです。弱り果て、打ちひしがれている私たちが祈る時、主イエスは、「深く憐れ」んでくださるのです。そして、弱く、貧しい私たちが、共に祈る時、互いを深く憐れむことができるのです。互いの幸せを、心から願うことができるのです。共に祈る仲間に感謝することができ、共に生きるようになるのです。弱い自分のままで、安心して、神に祈り、まわりの仲間と共に祈ることができる。祈りながら、共に生きることができる。これこそが、生きる喜びであり、生きる意味ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。
主イエスは、弱く、さまざまな限界を抱えている私たちを、「呼び寄せ」、福音宣教のために、派遣されます。私たちは、派遣される時、「汚れた霊に対する権能」を授けられます。この権能は、祈りの力です。祈りこそ、悪に対する力です。悪霊が望んでいることは、私たちが祈らなくなることです。私たちが祈っている限り、誰も、私たちを神から引き離すことはできません。福音宣教とは、この祈りの力を、日々出会う人と分かち合うことです。祈りの力を分かち合って、共に祈るようになることです。共に祈る喜びを分かち合うことです。そして、主は、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます。こうした業をを行われるのは主ご自身です。私たちはこうした苦しんでいる人のために祈ります。他にできることがあっても、まず祈ります。苦しんでいる人とともに祈ります。この祈りの力を「ただで受けたのだから」、喜んで分かち合います。ここに、天の国が実現しています。
主イエスは使徒たちに、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。福音宣教のために、遠くに行く必要はありません。まず、近くにいる人と、「天の国は近づいた」という福音を分かち合いましょう。近くにいる「弱り果て、打ちひしがれている」人と分かち合いましょう。この分かち合いは、その人のために祈ることから始まります。祈りとは、主の「深く憐れ」む心をもって、苦しむ人と共に苦しむことです。共に苦しむということは、共に生きているということです。そんな共に生きることの広がりが、少しずつ大きくなっていくことが、主が言われる「収穫」ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。主は、「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫の主に願いなさい」と言っておられます。収穫の主に願いながら、「天の国は近づいた」と宣べ伝えていきましょう。