[7月27日/年間第17主日]
2025/7/27 年間第17主日 Youtube配信ミサ、お説教
2025/7/13 年間第15主日 お説教
[7月13日/年間第15主日]
[お説教]
今日の福音で、主イエスが語られる、たとえ話は、私たちがよく知っている話です。主は、このたとえ話によって、「半殺しに」された人を助けたサマリア人のように、日々出会う人の隣人になりなさいと励ましておられます。すべての人の隣人となることで、幸せに生きなさいと励ましておられます。
このたとえ話に登場するサマリア人は、幸せなサマリア人です。最も大切なものを見つけ、その大切なものを守るために、迷うことなく、行動することができたからです。最も大切なものを守るために、自分の持ちものをささげることができたからです。
「追いはぎに襲われた人」は、「半殺しに」されていました。「半殺し」にされた人を見ただけでは、その人が生きているかどうかがわかりません。たとえ話に登場する、「ある祭司」と「レビ人」は、半殺しにされた人が、もう死んでいるのかもしれないと思ったのではないでしょうか。そして、自分も襲われて、この人のようになりたくないと恐れたのではないでしょうか。二人は、半殺しにされた人を見て、「道の向こう側」に行ってしまいました。二人は、死を恐れ、死を避けようとするあまり、いのちという、最も大切なものを見失いました。死という絶望に支配され、いのちという希望を持つことができませんでした。いのちの「向こう側」に行ってしまったのです。
サマリア人は、どうだったでしょうか。サマリア人は、半殺しにされた人を、「見て憐れに思」ったのです。まだ生きていると思ったのです。憐れに思うとは、苦しんでいるいのちを発見することです。最も大切なものを見い出すことです。他人の苦しみや悲しみを、自分の痛みや苦しみのように感じることです。感じて、ともに生きてほしいと、強く願うことです。願うだけでなく、いのちに近づき、触れることです。いのちのために、自分ができることは何でも、すること、しようとすることです。そして、ともに生きたいという希望を分かち合うことです。向こう側に行ってしまった二人は、憐れに思うことができませんでした。痛みや苦しみを、ともに感じることができませんでした。ともに生きたいという希望を持つことができませんでした。
さらに、祭司とレビ人は、死体やけが人の血に触れると汚れるという律法を思い出し、清めの儀式のために時間をかけたくないと思ったかもしれません。二人は、忙しかったのかもしれません。さまざまな務めがあり、多くの求めに応じなければならなかったのかもしれません。傷ついた人に関わる余裕がなかったのかもしれません。サマリア人は、傷ついた人を助けるために、たっぷりと時間をかけました。
今日、主の御言葉に心を傾けている私たちは、憐れに思って、足を止めたサマリア人のようになりたいと願っています。サマリア人のようになれたら、幸せだと思っています。実際、サマリア人のように、傷ついたいのちを助けたこともあります。そのために、大切な時間を費やしたこともあります。それと同時に、道の向こう側に行ってしまった祭司やレビ人のような行動をしたこともあります。憐れに思いながらも、恐くて、余裕がなくて、見て見ぬふりをして、逃げてしまったこともあります。私たちは、サマリア人であり、祭司やレビ人なのです。今日のたとえ話の中で、サマリア人も、祭司やレビ人も、同じ道を歩んでいます。この道こそ、すべての人が隣人になっていく道だと言えます。隣人になって、ともに生きることができるという希望の道だと言えます。希望の巡礼者である私たちは、サマリア人のように幸せになることができると信じて、歩み続けたいと思います。善い、幸いなサマリア人という希望を持って、隣人になっていく道を歩んでいきたいと思います。隣人になるという「永遠の命を受け継ぐ」道を歩んでいきたいと思います。今日は祭司やレビ人になってしまったが、明日は、サマリア人になろう、きっとサマリア人なれるという希望を持って、ともに歩んでいきたいと思います。
2025/7/6 年間第14主日 お説教
[7月6日/年間第14主日]
[お説教]
今日の福音が伝えている「七十二人」は、ここに集まっている私たちのことです。私たちは、この七十二人に加わり、福音を宣べ伝えるように、福音宣教の
喜びを体験するように招かれているのです。 前教皇フランシスコが、『福音の喜び』という文書の中で、はっきり言っている ように、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。」
主イエスに呼ばれて集まっている私たちは皆、「宣教する弟子」なのです。
宣教する弟子である私たちは、「収穫の主」に祈り続ける弟子です。「収穫のために働き手を送ってくださるように」、熱心に祈り続ける弟子です。私たちにとって、収穫とは、すべての人が救われることであり、ほんとうの幸いが、すべてのいのちに訪れることです。私たちは、祈ることで、この幸いが
神から与えられる恵みであることを忘れません。そして、祈りによって、自分の力だけでは、救いの福音を宣べ伝えることはできないことを、謙虚に認めます。謙虚に認めて、ともに宣教している仲間に感謝します。仲間が増えることを、心から願います。祈りがなければ、福音宣教はできません。祈ることから、福音宣教は始まるのです。
主イエスは、宣教の旅には、「財布も袋も履き物も持って行くな」と命じておられます。また、「途中でだれにも挨拶するな」と言っておられます。
これらの言葉は、大切なことを見失うなという意味ではないでしょうか。大切でないことに気をとられ、時間をとられて、何が大切かわからなくならないように注意しなさいという意味ではないでしょうか。大切なことは、福音が伝わるということなのです。皆が福音を知って、幸せになるということなのです。あまりに多くのものを持ちすぎて、最も大切な福音を、どこかに置き忘れていないでしょうか。まわりのことを気にしすぎて、空気を読みすぎて、福音が聞こえなくなっていないでしょうか。
それでは、私たちが宣べ伝える福音とは、何でしょうか。 それは、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音です。 神の国が近づいているということは、だれもが愛されていることを、心から信じることができ、安心して愛し合うことができる時が近づいているということです。
この福音を分かち合うことが、福音を宣べ伝えるということなのです。言葉だけではありません。神の国が近づいたという体験を分かち合うのです。小さな愛の行いを続けていくことで、神の国が、すでに、少しずつ、実現していることを証しするのです。
今日の福音では、主イエスが、七十二人に、「その町の病人をいや」すよう命じておられます。病人のいやしとは、神の愛を求めている人と、愛を分かち合うことです。自分は愛されていないと絶望している人と、愛されている喜び、愛することができるという希望を分かち合うことです。自分が神から愛されている、その愛によって、愛を求めている人を愛することです。神からいただいたいのちを、誰かのために生きることで、その人とともに、神のいのちを生きることです。ともに神のいのちを生きることで、福音の喜びを分かち合うことなのです。
さらに、今日の福音では、宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合える人のところに留まり、そこでの交わりを大切にするように説かれています。
「そこで出される物を食べ、また飲みなさい」という言葉は、交わりを大切にしなさいという意味ではないでしょうか。 キリストの平和に満たされた交わりこそ、福音宣教する者を支えるものです。宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合う人々の交わりから、この世界に派
遣されていきます。そして、福音宣教とは、キリストの平和に満たされた交わりが広がっていくことでもあるのです。神の国とは、キリストの平和を分かち合う交わりでもあるのです。
もう一つ、忘れてはならないことがあります。私たちが宣教するところには、後から、主イエスも来られるということです。 福音記者ルカが、七十二人について、「御自分が行くつもりのすべての町や村に
二人ずつ先に遣わされた」と伝えている通りです。 私たちが宣教したところには、後から、主御自分が来てくださるのです。私たちは、主が、後から、来られるという希望を宣べ伝えながら、希望の巡礼者
としての歩みを続けたいと思います。
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