1月11日/主の洗礼

 [説教]


今日は、降誕節の最終日です。私たちは、この日、「主の洗礼」の祝日を祝います。神の御子は、人間となって、私たちを救うために、「洗礼」を受けられたということを記念します。主イエスが、私たちのために洗礼を受けられたことに感謝します。

福音記者マタイが伝えているように、神の御子イエスは、洗礼を受けられた時、聖霊が「ご自分の上に降ってくるのを」体験されました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の言葉を受けられました。主イエスは、私たちと同じ人間です。ですから、主は、洗礼を受けられることで、私たちに人間に、聖霊といういのちが与えていること、私たちが皆、神から愛されている者であることを明らかにされました。福音書が記している、「ご覧になった」、「聞こえた」という言葉は、洗礼を受けることで明らかになったということを表しています。洗礼を受けたから、神のいのちが与えられ、神から愛される子とされたということではありません。洗礼によって、こうした恵みが明らかになったということです。

私たちは、人間である限り、洗礼を受けているか否かに関係なく、神のいのちである聖霊を与えられています。すべての人は、神に深く愛されています。洗礼によって、私たちは、神からいただいている恵みに感謝できるようになるのです。神から愛されるいることに、神に生かされていることに喜びを感じることができるようになるのです。神から大きな恵みをいただいていても、それに気づかなければ、救われているとは言えません。愛されていることを知り、感謝できる時、本当の意味で愛されていると言うことができます。人間とは、神に生かされ、愛されている存在なのです。この真理を信じることが信仰であり、この真理を喜ぶことができる時、本当に救われていることになるのです。主イエスは、ご自分が洗礼を受けられることで、人間であることの真理を明らかにされたのです。

洗礼を受けている私たちは、自分が救われていることに喜んでいれば良いのでしょうか。もし、自分が救われていることだけで満足しているならば、洗礼の恵みを十分に体験していないことになると思います。洗礼の恵みは、私たちに、この恵みをまわりの人と分かち合うように促す、励ます恵みです。神の「心に適う」生き方とは、神からの恵みに感謝し、神の恵みを分かち合いながら生きていくということなのです。そのために、まず、私たちは、祈りをささげます。すべての人が、自分が愛されていることに気づくように、祈り求めます。長い祈りでなくてもかまいません。毎日でなくてもかまいません。思うように祈れなくても、祈りたいと思い続けます。こうした思いこそが、最も尊い祈りなのです。

さらに、洗礼を受けている私たちは、日々出会う人に、一人一人が大切な存在であることを伝えるように招かれています。「あなたは神から愛されている大切な人です」と、直接、言葉で伝えることだけが、神の愛を伝えることではありません。沈黙を保つことが、愛を伝えることになることもあります。自分に語りかけてくる人に、じっと耳を傾けることは、神の愛を伝える行いです。必死になって生きている人を、静かに見守ることは、その人が気づかなくても、愛を伝えています。気づかれない愛こそ、大きな愛なのではないでしょうか。実際、私たちも、神の愛に気づかない時が多いと思います。神や隣人の愛に気づかず、自分の愛を、神は、まわりの人はわかってくれない。そのように思いこんでしまう自分のことを振り返れば、よくわかると思います。

そして、洗礼の恵みは、私たちが、洗礼を受けているか否かに関係なく、いのちのつながりの中で、支え合い、助け合いながら生きていることを、生かされていることを、私たちに思い起こさせます。洗礼を受けることは、共同体の一員になるということなのです。洗礼は、教会という共同体の中で、人類という共同体の中で、地球という共同体の中で、生きていることを思い起こさせます。洗礼の恵みとは、いのちのつながりの中で生きている喜びなのです。今、この世界では、この喜びを奪うような出来事が起こっています。だからこそ、洗礼を受けている私たちは、神の愛、いのちのつながりという愛を伝えていきたいのです。洗礼を受けた者は、自分だけが救われても幸せになれません。皆で救われことにしか、本当の幸いを見い出すことができないのです。

私たちの救い主は、洗礼を受けられることで、いのちのつながりという共同体の一員になられ、今も、今こそ、私たちとともに生きておられます。私たちも、明日から、主イエスとともに、神の愛を宣べ伝えていきたいと思います。洗礼の恵みを喜びを分かち合いながら、ともに歩んでいきたいと思います。

1月4日/主の公現

[説教]


私たちは今、降誕祭を祝っています。そして、「主の公現」の祭日である今日、さまざまな違いを越えて、すべての人が、主の降誕の喜びに満たされることを祈っています。すべての人が、私たちの喜びの分かち合いに加わることを願っています。

今日の福音に登場する「占星術の学者たち」は、救い主に会いたいという、大きな望みを抱いて旅をしている人たちです。この人たちを歩みを、「あの方の星」が導きます。この星は、学者たちの救い主に会いたいという願いと、その願いに応えられる神の導きを表しています。救い主を求めている人たちを救い主のもとに導くしるしです。この星は、決して大きな、すぐに見える星ではなかったと思います。
むしろ、細心の注意を払わないと見えない、ごく小さな星だったと思います。救い主を求めている学者たちは、この星を発見して、どのような苦労も厭わず、旅を続けているのです。そして、救い主に会うことができ、「喜びにあふれ」ます。学者たちが献げたた三つに贈り物は、この大きな喜びを表しています。自分たちの願いがかなえられたことへの感謝を表しています。

この星は、誰にでも見えるわけではありません。実際、福音記者マタイが伝えているように、救い主を求めていないヘロデ王たちには、この星が見えません。救い主に会うことを心から願って、空を見上げさえすれば、すぐに見えるはずなのに、そうしないのです。祭司長たちや律法学者たちも、ただ書かれたものを調べているだけで、外に出て、空を見上げようとしません。ベツレヘムに行けば良いとわかっても、そこに出かけようとしません。すぐ近くなのに、動こうとしません。ここに救いはないのです。

占星術の学者たちは、救い主に会うという願いがかなえられた後も、「別の道を通って」、旅を続けます。新たな旅を始めます。学者たちの旅は、決して終わることはないのです。この新たな旅は、旅の中で出会う人々に、救い主がお生まれになったという福音を宣べ伝える旅です。人々と喜びを分かち合う旅です。そして、人々とともに、救い主との新たな出会いを求めるたびです。

今日、主の公現を祝っている私たちは、占星術の学者たちの旅に加わるように招かれています。福音書は、学者たちが三人であったとは伝えていません。学者たちが何人であってもかまわないのです。救い主を求めて、日々旅をしている者は、救い主と会えた喜びを分かち合っている者は、すべて、「占星術の学者たち」なのです。今日、使徒パウロは、私たち教会が、「福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを…受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者」であると宣言しています。私たち教会は、ともに、旅を続けている「占星術の学者たち」なのです。

そして、占星術の学者たちは、小さなものに、注意深く目を向けている者たちです。天を見上げ、闇に中でも、小さな星を見出し、しっかりと見つめる者たちです。小さな星は、実際は、巨大な星で、私たちから遠く離れているところにあるから、小さく見えるのです。小さな星は、すべてのいのちを包み込む神の大きな愛のような、大きな星なのです。占星術の学者たちは、私たちは、この大きな星に近づこうとしているのです。そして、神は、私たちのところに、光よりも速いスピードで、来られたのです。今日の福音は、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と伝えています。光よりも速いスピードで、私たちのところに来られた救い主の姿を伝えています。

目立たない、小さな家の中におられる、幼子。母マリアがそばにいなければ生きていけない、救い主イエス・キリスト。この小さないのちこそ、すべてのいのちを包み込む、大きな愛です。今は、この愛が小さく、頼りないと思えるかもしれません。そう思うのは、私たちが、まだ、この愛から遠く離れているからなのです。だから、今、占星術の学者たちのように、この愛を求めて、新たな旅を始めたいと思います。日々、「別の道」が用意されている旅を、新たな気持ちで始めたいと思います。今は、小さな愛しか思えないけど、旅を続けていけば、大きな愛であることがわかる。これが、私たちの希望です。この希望を抱いて、希望の巡礼者として歩んでいきたいと思います。今の世界は、闇の中にあると言いたいほどの、酷い状況です。しかし、だからこそ、小さな星の光、希望の光が、はっきりと見えるのではないでしょうか。この希望の星に導かれて、これからも、ともに歩んでいきましょう。

1月1日/神の母聖マリア(降誕の八日目)

 [説教]

私たちは今、降誕祭を祝っています。「降誕の八日目」である今日、羊飼いたちは、「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。天使は、羊飼いたちに福音を告げました。それは、すべてのいのちのために、「今日…救い主がお生まれになった」という喜びの福音であり、「地には平和、御心に適う人にあれ」という平和の福音です。「世界平和の日」である今日、私たちは、羊飼いたちが分かち合う福音に耳を傾けるよう招かれています。私たちは今日、聖家族とともに、聖家族として、主のご降誕がもたらした平和を分かち合うのです。


「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」が、私たちの平和です。目の前で寝ている乳飲み子想像してみましょう。乳飲み子を前にして、私たちは争いを起こそうとするでしょうか。そんなことは、決してしないと思います。できないと思います。私たちは皆、自然と優しくなるはずです。優しいまなざしで、優しい声で、乳飲み子に語りかけるはずです。どう接したら良いかわからなければ、かける言葉が見つからなければ、こわがらせないように、安心して寝ていることができるように、細心の注意を払うはずです。そして、乳飲み子のそばにいる私たちは、語り合うはずです。「かわいいね。あっ、笑った。この子が、ずっと笑顔でいられる世の中であってほしいね。うあっ、泣きそうだ。だいじょうぶだよ、こわくないよ。みんな、あなたのことが大好きなんだだから。」この乳飲み子に、私たちは何をあげようとするでしょうか。欲しいモノをなんでも手に入れることができるようにと、お金をあげるでしょうか。自分の身を守ることができるようにと武器を与えるでしょうか。高収入が得られる職業を得ることができるようにと、勉強を教え始めるでしょうか。そんな愚かなことをする人は、一人もいないはずです。もし、乳飲みの手に、お金や武器を握らせようとしたら、ひどい暴力となり。決して容認できない虐待となります。私たちができること、それは、この子に愛を伝えることだけです。小さな手をそっと握って、「幸せになってね。みんなに愛されてね」と言葉をかけることぐらいしかできないと思います。そう祈ることしかできないと思います。これが、私たちに与えられる、キリストの平和なのです。この平和を、この優しい心を、誰もが持ち続けることができる時、乳飲み子の前での優しい語り合いが、安心してできる時、世界平和は実現するのです。


今日の福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と伝えています。マリアが心に納めて、思い巡らしていたこととは、目に前で実現しているキリストの平和です。私たちも今日、マリアとともに、キリストの平和を心に納めて、思い巡らしたいと思います。私たちの日常生活の中で実現している平和を見い出し、大切にしたいと思います。そして、身近で実現している、小さな平和を大きくしていきたいと思います。聖家族が幼子イエスを、養い育てたように、私たちも、キリストの平和を育てていきたいと思います。


今年の「世界平和の日」の教皇メッセージで、教皇レオ十四世は次のように述べています。


「『平和を所有したいなら、平和はそこにある。われわれの手の届くところにある。われわれは何の労苦もなしにそれを手に入れることができる』。平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」


平和はもう、この世界に与えられています。不可能なことでも、遠い理想でもありません。マリアのように、羊飼いたちのように、キリストの平和を、喜んで受け取れば良いだけです。この世界が、幼子がもたらした平和を、感謝のうちに受け取りますように、今日、心から、ともに祈りましょう。


12月28日/聖家族

[お説教] 

「聖家族」の祝日は、すべての家族が、神に愛されていることを祝う日です。聖家族とは、神に愛されている家族のことであり、すべての家族は神に愛されています。だから、すべての家族が、聖家族なのです。 


福音記者マタイは、救い主イエスが、いのちの危険を免れるために、ヨセフとマリアに守られて、エジプトに逃げなければならなかったことを伝えています。ヘロデは、すべてのいのちを救うために来られた方を殺そうとしたのです。いつの時代にも、必ずと言ってよいほど起こることですが、人間は、権力や富を得ると、まわりのいのちを犠牲にしても、自分が得たものを守ろうとします。富や権力が大きくなればなるほど、犠牲にするいのちを増やしていきます。今日の福音朗読では省略されていますが、聖家族がエジプトに逃れた後、ヘロデが、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺したと伝えられています。テロリストがいるかもしれないという理由で、何の罪もないいのちが殺されていきます。多くの聖家族の生活が破壊されます。その結果、憎しみなど抱いていなかった人たちの心に憎しみが生まれ、新たなテロリストが誕生します。すべての家族を愛しておられる神は今、私たちに、自分の利益を守るのではなく、すべてのいのちを守るように命じておられます。すべての家族の愛を守るように命じておられます。愛されている喜び、愛する喜びが守られている限り、テロリストが生まれることはないのです。聖家族から、テロリストが生まれることは、決してないのです。 


ヘロデは、聖家族を殺すことができませんでした。ヨセフは、寝ている時に、「起きて、幼子とその母を連れて」旅をするようにと告げられました。このお告げは、ヨセフにとって、神の愛の言葉でした。ヨセフは、神の愛を信じて、忠実に従いました。疑わず、反論せず、神から命じられたことを、すぐに実行しました。しかし、考えてみれば、「幼子とその母」とともに旅をすることは、大変な困難がともないます。住み慣れた土地を離れて、見知らぬ土地で生活をしなければならないことは、多くの場合、苦痛です。楽しい旅行ではないのです。生活をしなければならないのです。不安定な生活を強いられるのです。一所懸命に努力すれば、必ず報われる、とは言えないのが現実なのです。そして、今現在も、多くの聖家族が、困難な旅や不安定な生活を強いられているのです。すべての家族を愛しておられる神は、私たちに、まず、現代の聖家族の困難や苦労を理解する努力をするように求めておられるのです。私たちは、理解しようとしているでしょうか。物事を完全に理解することはできません。しかし、理解しようと努力することはできます。謙虚な気持ちになることはできます。理解しようとしていれば、優しくなれるはずです。自分のことを理解してほしいと思ってばかりいるから、まわりに優しくなれないのです。怒りがこみあげてくるのです。もっと、理解し合う努力をして、優しくなりましょう。優しくなっていくことから、すべてが始まるのです。優しい心でまわりを見る時、すべての家族が聖家族に見えるはずです。嬉しそうにしている家族を目にしたら、自然と笑顔になれるはずです。困難を抱えている家族のことを知ったら、涙が出てきて、祈りたくなるはずです。教会は、祈る人々の集まりです。祈る人とは、優しい心を持っている人なのです。 


聖年の歩みが、終わろうとしています。しかし、希望の巡礼者に歩みは終わりません。聖家族が、希望の巡礼者だからです。ヨセフは、どのような困難をも受け入れて、旅を続けました。希望があったからです。今日の、自分の苦労が、すべてのいのちのための、より良い未来につながるという希望があったからです。私たちも、救い主の家族と同じです。私たちは、希望があるから、祈り続けます。希望があるから、教会に集まっています。私たちがささげているミサは、希望の祭儀です。希望の祭儀では、希望の歌が歌われ、希望のみことばが分かち合われます。私たちがささげる祈りはすべて、希望の、力強い宣言です。私たちが分かち合うパンは、私たちの希望であるキリストのからだです。一つのパンを分かち合う私たちも、キリストのからだとなります。聖家族となります。そして、私たちは、この世界の中で、毎日の生活を通して、希望の福音を宣べ伝えるために派遣されます。私たちは、これからも、聖家族として、希望の巡礼を続けていきたいと思います。希望は、私たちを欺きません。


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