2025/6/22 キリストの聖体 お説教

 [6月22日/キリストの聖体]

[お説教]

私たちは先週、三位一体と呼ばれる、愛の交わりを祝い、この深い交わりの中で生か されている喜びを分かち合いました。

今日、私たちは、「キリストの聖体」という、この世界で実現している愛を祝っています。そして、キリストのいのちを分かち合う私たちも、キリストの聖体であることを思い 起こしています。私たちは、キリストの聖体となって、この世界の中で、真の愛を宣べ伝えるよう招かれているのです。

 

今日の福音は、主イエスが、群衆の心を、愛で満たされる物語です。

この物語は、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、 一二籠もあった」という言葉で結ばれています。

この言葉は、何を伝えているのでしょうか。

主がパンを増やされたという奇跡でしょうか。

確かに、パンは増えたかもしれません。しかし、この物語のどこにも、「増やした」という言葉がありません。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ た」と伝えられているだけです。

 

賛美の祈りは、パンが神から与えられた恵みであることを、私たちに思い起こさせます。すべては、神からの恵みなのです。

パンが裂かれることで、神の恵みは、独り占めできず、必ず、分かち合うものであることが示されています。裂かれれば裂かれるほど、神の恵みが大きくなっていくのです。 パンが小さくなっていけばいくほど、愛は大きくなっていくのです。

「パンの屑」こそ、私たちに対する神の愛の大きさ、分かち合うことで大きくなっていく、 私たちの愛を表しているのです。パンの屑は、限りなく分かち合われ続ける愛なので す。パンの屑の一つ一つには、無限の愛が込められているのです。神の愛と私たち の愛が、一つになって、込められているのです。

この愛が込められたパンの屑、無限の愛そのものであるパンの屑こそが、まさに、 キリストの聖体なのです。群衆は、この愛で、心が満たされるのです。 残ったパンの屑は、群衆の愛を表しています。群衆の愛は、自分たちの中で終わる、 閉ざされた愛ではなく、すべての人と分かち合われる、開かれた愛となっています。

 

そして、群衆にパンを配る弟子たちは、今日、こうして集まっている、私たちの姿です。私たちは、主イエスから渡された愛を、毎日の生活の中で出会う人に配る使命を 受けています。

キリストの聖体をいただいた私たちは、まわりの人を愛することで、聖体を配ります。

キリストの愛で、まわりの人を愛することが、愛を配ることなのです。私たちの愛は、パンの屑のように、小さい愛、時として気づかれない愛です。しかし、間違いなく、キリストの愛です。そして、「パンの屑」のような、私たち一人一人の小さな愛も、「集めると、一二籠」になります。一二籠を満たす、この愛こそ、キリストの聖体なのです。 共同体として、一つになって、キリストのように愛している、愛そうとしている私たちこそ、キリストの聖体なのです。

 

私たちは、キリストの聖体です。私たちは、キリストの愛を知っています。そして、 キリストの愛が、教会という枠を越えて広がっていることを知っています。

今日の福音は、主イエスが「神の国について語」られたと伝えています。

神の国は、教会共同体を越えて広がっています。神の国では、すべてのいのちが神の愛によって生きています。すべてのいのちが、互いのいのちを大切にし合っています。弱い立場に置かれたいのちが、小さないのちが、一番大切にされています。

どんな小さな愛も、見過ごされることなく、喜ばれ、感謝されています。キリストの聖体である私たちは、神の国を知っています。神の国が来ていることを知っています。

ここに、あそこに、神の国が来ているという福音を宣言することができます。パンの屑のような小さな愛を、必死になって生きている人を見い出すことができます。

何があってもあきらめずに、愛そうとしている人を励ますことができます

 

そして、今年、キリストの聖体である私たちは、希望の巡礼者として歩んでいます。

使徒パウロは、聖体が、キリストの死であると説いています。

キリストは、人間の自己中心的な思いが引き起こす暴力の犠牲となって、十字架上で亡くなられました。しかし、この死こそ、神の愛そのものでした。そして、主は復活され、十字架上の死によってもたらされた愛は、今、生きています。

キリストの愛は、永遠です。キリストの聖体は、永遠の愛であり、私たちの希望です。

キリストの愛という希望を証しする、キリストの聖体として、希望の巡礼の道を歩んでいきましょう。


2025/6/15 三位一体の主日 お説教

[6月15日/三位一体の主日]

[お説教]

 今日は、愛の祭日です。「三位一体」とは、愛そのものだからです。 愛こそ、神のいのち、私たちのいのちだからです。私たちは今日、三位一体という愛 に賛美と感謝をささげるために、こうして集まっています。愛といういのちを分かち合う ために、共同体として、集まっています。


今日の福音で、主イエスは言っておられます。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」 父である神が持っておられるものとは、何でしょうか。神は、たくさんのものを持ってお られるのでしょうか。 御父が持っておられるものは、愛だけです。愛が、持ちもののすべてです。 私たちは、つくられたものすべてが、神のものであることを信じています。それは、 神がすべてのものを思い通りにされるということではありません。 神は、つくられたものすべてを愛しておられるということなのです。 神は、愛することしかおできになりません。  


御子イエスも、同じ愛を持っておられます。御子の愛は、御父の愛と、まったく同じな のです。御父と御子は、一体なのです。一体となって、愛し続けられるのです。 御子も、愛することしかおできになりません。だから、十字架につけられても、愛し続 けられたのです。この愛が変わることなく、今も続いているからこそ、今も、十字架に つけられているのです。苦しんでいるいのちがある限り、一人でも苦しんでいる限り、 十字架の上で、ともに苦しみ続けられるのです。教会に置かれている十字架は、 御父と御子が一体となって、私たちを愛しておられることを告げ知らせているのです。  


そして、聖霊は、私たちのうちに、私たち一人一人のうちに、こうして集まっている共同 体のうちに生きておられます。聖霊は、御父と御子の「ものを受けて」おられます。 「神の愛」そのものを受けて、私たちに、神の愛を告げられます。御父と御子が一体と なって、私たちを愛しておられることを悟らせてくださいます。愛が最も大切であること を思い起こさせてくださいます。そして、私たちが、愛することができるように導いてく ださいます。三位一体の神が愛するように愛したいと願うように、私たちを駆り立てて くださいます。


もちろん、私たちの愛は、三位一体の愛と同じ愛ではありません。私たちの愛は、 不完全です。私たちの不完全な愛ゆえに、この世界は、苦難に満ちたものとなってい ます。 皆が、本当に愛し合えたら、戦争も、あらゆる暴力も、貧困や環境破壊もなくなるの に。そう思いながら、苦しい毎日を過ごしています。いのちが傷つく出来事を知り、 悲しみを感じています。無力な愛に、怒りさえ感じています。愛することなど無理だと、 あきらめてしまうことがあります。愛することで傷つくことを恐れて、愛から逃げてしま うことがあります。 


しかし、私たちは、愛することなしに、人間として生きていくことはできません。不完全 な愛は、たとえ不完全でも、間違いなく愛です。むしろ、不完全だからこそ、愛であると 言えます。自分の愛は不完全だと認めるからこそ、愛であり続けるとさえ言えます。 自分の愛が完全だと思う時、必ずと言って良いほど、相手の愛が不完全に思えてき ます。自分の愛を完全なものにしようとして、愛の範囲を狭くしてしまうことがありま す。自分の気に入った人だけを大切にして、他の人のことには無関心になってしまう ことがあります。 だから、愛は不完全で良いのではないでしょうか。自分の愛は不完全だと認め、愛を 深め、広げていきたいと望む。これこそ、三位一体の神からいただいている愛、開か れた愛ではないでしょうか。愛を閉ざすことで、苦難から逃れるのではなく、苦しくて も、開かれた、不完全な愛を生きていく。これこそ、愛ではないでしょうか。


父と子と聖霊は、完全な愛で、愛し合っておられます。 しかし、三位一体の愛は、完結した、閉ざされた愛ではありません。すべての人に、 すべてのいのちに向けられている、開かれた愛です。 すべてのいのちが、この愛に応えて、真に喜ぶ時、神の愛は完成します。 私たちの愛も、三位一体の愛に包まれ、満たされて、完成します。これこそ、私たちの 希望です。そして、この「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 三位一体という愛を信じて、開かれた愛の道を、ともに歩んでいきましょう。 希望の巡礼者として、歩んでいきましょう。 


2025/6/8 聖霊降臨の主日 お説教

 〔6月8日/聖霊降臨の主日〕


今日は、復活節の最終日です。私たちは、この復活節を通して、復活されたキリストから、多くの恵みをいただきました。主イエスが復活して、今、生きておられるという福音を体験しました。皆で分かち合いました。そして今、教会の中で分かち合っている福音を、世界の中で宣べ伝える時が来たのです。聖霊降臨は、教会の誕生の日でもあります。この世界の中で誕生した教会は、この世界の中で生きていくのです。福音宣教という生命活動を続けていくのです。教会は、建物や組織ではありません。こうして、主のみ名によって集まっている、私たちなのです。私たちが、福音を宣べ伝えるのです。

福音宣教は、教会の生命活動です。生命活動には、いのちが必要です。聖霊といういのちが必要です。使徒言行録は、「一つになって集まっている」弟子たちの姿を伝えています。聖霊は、皆で分かち合ういのちなのです。一つになって集まって、願い求めないと与えられない、一つのいのちなのです。この一つのいのちを分かち合うことこそ、すでに、福音宣教そのものなのです。いのちは、争って、取り合うものではなく、分かち合うものであるという福音なのです。争いばかりを繰り返している、この世界に、今最も伝えなければならない福音なのです。

「聖霊に満たされ」ると、私たちは、福音を語るようになります。語る言葉は異なっても、表現の仕方は違っても、「神の偉大な業を語っている」人はだれでも、福音を宣べ伝えていることになります。だれが語っているかという問いではなく、何が語られているかという問いが、大切なのです。さらに、福音は、真剣に聞く人がいる限り、必ず、広がっていきます。私たちは、まわりで語られている福音を、謙虚に聞いているでしょうか。聞こうとしているでしょうか。聞くことも、福音宣教です。むしろ、聞くことから、福音宣教が始まります。私たちは、まわりの人を通して、主から聞いた福音を語っているのです。まわりの人と福音のやりとりをする。これこそ、福音宣教という生命活動なのです。

ヨハネによる福音で、主イエスは、聖霊降臨について、次のように語っておられます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」私たちは、主のことを大切にしています。だから、主の呼びかけに応えて、こうして集まっています。他に、やりたいこと、行きたいところがあっても、主に会うために、今、ここに、来ています。そして、主の言葉を心におさめ、主の言葉に従って、毎日を生きようとしています。そして、生きることができた時、私たちは、主に感謝をささげます。生きることができなかった時、「主よ、いつくしみを」と祈ります。こうしたことを繰り返すことが、主を愛し、主の言葉を守ることです。聖霊といういのちを受けた私たちの、私たち教会の生命活動なのです。ここで、私たちは、さまざまな理由で、教会という集まりに参加できない人のことを思い起こしたいと思います。思い起こして、祈りたいと思います。私たちが祈ることで、教会に来ることができない人も、離れていても、教会に加わることになります。教会の生命活動の中で生きることになります。祈りは、すべてを摂りこむ、教会の呼吸なのです。

そして、私たちが、こうした生活をしている時、神は、私たちを愛され、私たちとともに歩んでくださるのです。私たちが繰り返している、この愛といのちの体験こそが、聖霊降臨なのです。神がともに生きてくださることこそが、私たちの生命活動なのです。私たちが宣べ伝える福音なのです。私たちは、今日、聖霊降臨を祝っていますが、今日だけが、聖霊降臨を体験できる日だからではありません。聖霊降臨が、毎日の生活の中で、繰り返し起こっていることを思い起こすために、いのちの祝祭である復活節の最後に、この祭日を祝っているのです。

復活節が終わっても、聖霊降臨は続きます。聖霊降臨が続く時、福音に、心の耳が傾けられます。「弁護者」である聖霊が、主の福音を、「思い起こさせてくださ」り、私たちは、福音を守ることができます。福音に従って生きることを望みます。今、生きることができなくても、生きることができる日が来るという希望を持って歩みます。この、希望の歩みが、この世界に、希望をもたらします。この希望の福音を、聖霊に満たされて、ともに、宣べ伝えていきましょう。

2025/6/1 主の昇天 お説教

[主の昇天 お説教]


「主の昇天」の祭日は、希望の巡礼者である私たちにとって、とても大切な日です。今日は、私たちが、すべてのいのちが、希望に満たされる日です。

福音記者ルカは、主の昇天について、次のように伝えています。「イエスは…手を上げて祝福された。そして、祝福しながら〔弟子たち〕を離れ、天に上げられた。」主の昇天とは、神の祝福なのです。祝福が、今も、続いていることなのです。私たちはよく、「神様の祝福がありますように」と祈ります。自分のためだけでなく、まわりの人のために祈ります。洗礼を受けているかどうかに関係なく、むしろ、洗礼を受けていない人のためにこそ、熱心に、祝福を願い求めます。この祈りに応えて、主イエスは、今も、天から、すべてのいのちを祝福し続けておられるのです。どのような時も、天からの祝福は絶えることがない。これこそ、地上で生きている私たちの希望なのです。私たちが、「天を見上げ」る時、そこには、希望があるのです。

神の祝福をいただくと、私たちは、神の恵みに満たされます。神の恵みに満たされると、喜びを感じます。今日の福音で、祝福をいただいた弟子たちが、「大喜び」であったことが伝えられています。そして、弟子たちは、この大きな喜びを、「絶えず…神をほめたたえ」ることで表します。天に上げられた、主イエスは、私たちを祝福し続けておられ、私たちは、大喜びで、祈り続ける。これこそ、主の昇天という、私たちの救いなのです。私たちは、祈るから救われるのではありません。もう救われているからこそ、祈ることができるのです。救われているからこそ、祈りたいと思い、祈れないことに悲しみを感じることができるのです。この祈りたいのに祈れないという思い、それは、大きな希望のしるしなのです。

大きな喜びのうちに祈ることができるならば、それに越したことはありません。しかし、私たちの毎日は、下を向いて、スマホの画面を見ながら、急いで歩いているというのが現実です。SNSのメッセージに応えることに時間をとられ、天からの祝福によって生かされいることを忘れがちになっています。スマホに表示されるメッセージに生かされているかのように、行動しています。そんな私たちに、天に上げられたイエスは、今日、語りかけておられます。「足を止めて、天を見上げなさい」と。天を見上げて、私たちの毎日を支えている祝福、私たちを生かしている希望を思い起こしましょう。

足を止めて、ゆっくりと空を見上げる時、私たちは、使徒言行録が伝える、天使の言葉も思い起こします。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」主イエスは、私たちを祝福しながら、私たちのところに、またおいでになるのです。主の昇天とは、主が再び来られることの始まりなのです。主は、再び来られる時も、私たちを祝福しながら来られるのです。主が再び来られる時も、祝福の時、すべてのいのちが恵みに満たされる時なのです。私たちにとって、世の終わりとは、恵みの時なのです。今、下を向いて、急いで歩いている人が、足を止め、上を見上げて、恵みを、大喜びでいただき、神に感謝する時なのです。私たちが今抱いている希望が、完全に実現する時なのです。

私たちは、主イエスが再び来られることを待ち望んでいます。主が、一日も早く、来られ、すべてのいのちを祝福してくださることを、心から待ち望んでいます。祝福とは、自分だけがいただいて満足するものではありません。祝福とは、分かち合うものです。神の祝福を分かち合って、神の恵みに生かされて、ともに生きるようになる。その時、私たちの救いが、本当に完成するのです。この大きな希望を分かち合いながら、ともに、希望の巡礼を歩み続けましょう。時々、足を止めて、希望の源である天を見上げて、祝福をいただき、また歩み始めましょう。希望の巡礼者として、この地上を歩みながら、天という希望を宣べ伝えていきましょう。


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2025/6/22 キリストの聖体 お説教

  [6月22日/キリストの聖体] [お説教] 私たちは先週、三位一体と呼ばれる、愛の交わりを祝い、この深い交わりの中で生か されている喜びを分かち合いました。 今日、私たちは、「キリストの聖体」という、この世界で実現している愛を祝っています。そして、キリストのいのちを分かち合う...

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