[6月29日/使徒聖ペトロ聖パウロ使徒]
2025/6/29 聖ペトロ聖パウロ使徒 お説教
2025/6/27 イエスのみ心 お説教
[6月27日/イエスのみ心]
この祈りは、前教皇フランシスコが、祖母から教えられた祈りとして、紹介してくださった祈りです。
私たちは、今、この祈りを、熱心にささげるように求められています。
イエスのみ心とは、イエスの心臓のことです。
いのちが苦しんでいるのを知った時、その苦しみを感じる心臓です。
傷ついているいのちの痛みを感じる心臓です。
感じるだけでなく、いっしょに傷つく心臓です。
そして、すべてのいのちを愛する時、このみ心が熱くなるのです。炎が燃え上がるよう熱くなるのです。イエスのみ心とは、イエスの、生きている愛のことなのです。
私たちも皆、心臓が与えられています。
生きているとは、心臓が動いていることです。だから、心臓を大切にします。
しかし、私たちの心臓は、本当に動いているでしょうか。まわりのいのちが苦しんでいるのを知って、たくさんの人が傷つき苦しんでいるのを知って、心臓に痛みを感じているでしょうか。今日の世界の状況は、私たちの心臓に激痛をもたらすような状況です。
そして、私たちの心臓は、熱くなっているでしょうか。熱い思いをもって、まわりのいのちを愛しているでしょうか。熱い思いをもって、まわりの人と関わろうとしているでしょう
か。
自分の心臓だけを守ることだけに必死になって、まわりの人も皆、心臓を持っていることを忘れていないでしょうか。自分の身を守ることだけに必死になって、まわりの人の心臓が傷ついていても、その痛みを感じないようにしていないでしょうか。
ここで、イエスのみ心の祭日である今日、私たち教会が、特に今、考え、取り組まなければならないことをお伝えしたいと思います。
教会は今、性虐待やハラスメントといった暴力のない教会をめざしています。
虐待やハラスメントといった暴力は、それを受けた人に大きな傷を残します。
その傷の痛みは、多くの場合、生涯続きます。
力を持っている者が、力を持たない、抵抗できない人に及ぼす暴力は、取り返しのつかない傷をもたらし、暴力を受けた人は、生きることが困難になります。心臓が止まり
そうになります。愛を感じることができない心臓になってしまうことがあります。
私たち教会は、今、この傷の痛みを感じるように求められています。
自分の心臓だけを守るために、暴力を振るわないということではありません。
自分の身を守るために、暴力に加担しないということではありません。
私たち教会の皆が、安心して、愛の炎を燃え立たせることができる心臓を持ち続けることができるために、あらゆる暴力から解放されたいのです。そして、教会という枠を越えて、日々出会う人と、愛の炎を分かち合っていきたいのです。
「イエスよ、わたしの心を、あなたのみ心に似たものにしてください。」
この祈りを、これから、ささげ続けたいと思います。
私たち教会の心が、熱い愛に満たされることを願ってささげ続けたいと思います。
そして、私たちの心臓の熱が、冷めている心臓を温めることができるように、私たちの心臓の愛の炎を、ますます燃え立たせたいと思います。
この世界では、たくさんの心臓が、冷めてしまっています。多くの人は、心臓が冷めていても、生きていけると思い込んでいます。
私たち教会は、そうは思っていません。心臓は、熱く燃えている時、本当に生きている。熱く燃えて、愛という血液を送り出す時、生きている。そう確信しています。
イエスよ、私の心を、私たち教会の心を、世界中の人々の心を、あなたの、熱い愛の炎に燃えている、み心に似たものにしてください。
暴力を引き起こす心ではなく、苦しみや痛みを、深く感じている、あなたのみ心そのものに変えてください。
2025/6/22 キリストの聖体 お説教
[6月22日/キリストの聖体]
[お説教]
私たちは先週、三位一体と呼ばれる、愛の交わりを祝い、この深い交わりの中で生か されている喜びを分かち合いました。
今日、私たちは、「キリストの聖体」という、この世界で実現している愛を祝っています。そして、キリストのいのちを分かち合う私たちも、キリストの聖体であることを思い
起こしています。私たちは、キリストの聖体となって、この世界の中で、真の愛を宣べ伝えるよう招かれているのです。
今日の福音は、主イエスが、群衆の心を、愛で満たされる物語です。
この物語は、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、 一二籠もあった」という言葉で結ばれています。
この言葉は、何を伝えているのでしょうか。
主がパンを増やされたという奇跡でしょうか。
確かに、パンは増えたかもしれません。しかし、この物語のどこにも、「増やした」という言葉がありません。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ
た」と伝えられているだけです。
賛美の祈りは、パンが神から与えられた恵みであることを、私たちに思い起こさせます。すべては、神からの恵みなのです。
パンが裂かれることで、神の恵みは、独り占めできず、必ず、分かち合うものであることが示されています。裂かれれば裂かれるほど、神の恵みが大きくなっていくのです。
パンが小さくなっていけばいくほど、愛は大きくなっていくのです。
「パンの屑」こそ、私たちに対する神の愛の大きさ、分かち合うことで大きくなっていく、 私たちの愛を表しているのです。パンの屑は、限りなく分かち合われ続ける愛なので す。パンの屑の一つ一つには、無限の愛が込められているのです。神の愛と私たち の愛が、一つになって、込められているのです。
この愛が込められたパンの屑、無限の愛そのものであるパンの屑こそが、まさに、 キリストの聖体なのです。群衆は、この愛で、心が満たされるのです。 残ったパンの屑は、群衆の愛を表しています。群衆の愛は、自分たちの中で終わる、 閉ざされた愛ではなく、すべての人と分かち合われる、開かれた愛となっています。
そして、群衆にパンを配る弟子たちは、今日、こうして集まっている、私たちの姿です。私たちは、主イエスから渡された愛を、毎日の生活の中で出会う人に配る使命を
受けています。
キリストの聖体をいただいた私たちは、まわりの人を愛することで、聖体を配ります。
キリストの愛で、まわりの人を愛することが、愛を配ることなのです。私たちの愛は、パンの屑のように、小さい愛、時として気づかれない愛です。しかし、間違いなく、キリストの愛です。そして、「パンの屑」のような、私たち一人一人の小さな愛も、「集めると、一二籠」になります。一二籠を満たす、この愛こそ、キリストの聖体なのです。
共同体として、一つになって、キリストのように愛している、愛そうとしている私たちこそ、キリストの聖体なのです。
私たちは、キリストの聖体です。私たちは、キリストの愛を知っています。そして、 キリストの愛が、教会という枠を越えて広がっていることを知っています。
今日の福音は、主イエスが「神の国について語」られたと伝えています。
神の国は、教会共同体を越えて広がっています。神の国では、すべてのいのちが神の愛によって生きています。すべてのいのちが、互いのいのちを大切にし合っています。弱い立場に置かれたいのちが、小さないのちが、一番大切にされています。
どんな小さな愛も、見過ごされることなく、喜ばれ、感謝されています。キリストの聖体である私たちは、神の国を知っています。神の国が来ていることを知っています。
ここに、あそこに、神の国が来ているという福音を宣言することができます。パンの屑のような小さな愛を、必死になって生きている人を見い出すことができます。
何があってもあきらめずに、愛そうとしている人を励ますことができます
そして、今年、キリストの聖体である私たちは、希望の巡礼者として歩んでいます。
使徒パウロは、聖体が、キリストの死であると説いています。
キリストは、人間の自己中心的な思いが引き起こす暴力の犠牲となって、十字架上で亡くなられました。しかし、この死こそ、神の愛そのものでした。そして、主は復活され、十字架上の死によってもたらされた愛は、今、生きています。
キリストの愛は、永遠です。キリストの聖体は、永遠の愛であり、私たちの希望です。
キリストの愛という希望を証しする、キリストの聖体として、希望の巡礼の道を歩んでいきましょう。
2025/6/15 三位一体の主日 お説教
[6月15日/三位一体の主日]
[お説教]
今日は、愛の祭日です。「三位一体」とは、愛そのものだからです。 愛こそ、神のいのち、私たちのいのちだからです。私たちは今日、三位一体という愛 に賛美と感謝をささげるために、こうして集まっています。愛といういのちを分かち合う ために、共同体として、集まっています。
今日の福音で、主イエスは言っておられます。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」 父である神が持っておられるものとは、何でしょうか。神は、たくさんのものを持ってお られるのでしょうか。 御父が持っておられるものは、愛だけです。愛が、持ちもののすべてです。 私たちは、つくられたものすべてが、神のものであることを信じています。それは、 神がすべてのものを思い通りにされるということではありません。 神は、つくられたものすべてを愛しておられるということなのです。 神は、愛することしかおできになりません。
御子イエスも、同じ愛を持っておられます。御子の愛は、御父の愛と、まったく同じな のです。御父と御子は、一体なのです。一体となって、愛し続けられるのです。 御子も、愛することしかおできになりません。だから、十字架につけられても、愛し続 けられたのです。この愛が変わることなく、今も続いているからこそ、今も、十字架に つけられているのです。苦しんでいるいのちがある限り、一人でも苦しんでいる限り、 十字架の上で、ともに苦しみ続けられるのです。教会に置かれている十字架は、 御父と御子が一体となって、私たちを愛しておられることを告げ知らせているのです。
そして、聖霊は、私たちのうちに、私たち一人一人のうちに、こうして集まっている共同 体のうちに生きておられます。聖霊は、御父と御子の「ものを受けて」おられます。 「神の愛」そのものを受けて、私たちに、神の愛を告げられます。御父と御子が一体と なって、私たちを愛しておられることを悟らせてくださいます。愛が最も大切であること を思い起こさせてくださいます。そして、私たちが、愛することができるように導いてく ださいます。三位一体の神が愛するように愛したいと願うように、私たちを駆り立てて くださいます。
もちろん、私たちの愛は、三位一体の愛と同じ愛ではありません。私たちの愛は、 不完全です。私たちの不完全な愛ゆえに、この世界は、苦難に満ちたものとなってい ます。 皆が、本当に愛し合えたら、戦争も、あらゆる暴力も、貧困や環境破壊もなくなるの に。そう思いながら、苦しい毎日を過ごしています。いのちが傷つく出来事を知り、 悲しみを感じています。無力な愛に、怒りさえ感じています。愛することなど無理だと、 あきらめてしまうことがあります。愛することで傷つくことを恐れて、愛から逃げてしま うことがあります。
しかし、私たちは、愛することなしに、人間として生きていくことはできません。不完全 な愛は、たとえ不完全でも、間違いなく愛です。むしろ、不完全だからこそ、愛であると 言えます。自分の愛は不完全だと認めるからこそ、愛であり続けるとさえ言えます。 自分の愛が完全だと思う時、必ずと言って良いほど、相手の愛が不完全に思えてき ます。自分の愛を完全なものにしようとして、愛の範囲を狭くしてしまうことがありま す。自分の気に入った人だけを大切にして、他の人のことには無関心になってしまう ことがあります。 だから、愛は不完全で良いのではないでしょうか。自分の愛は不完全だと認め、愛を 深め、広げていきたいと望む。これこそ、三位一体の神からいただいている愛、開か れた愛ではないでしょうか。愛を閉ざすことで、苦難から逃れるのではなく、苦しくて も、開かれた、不完全な愛を生きていく。これこそ、愛ではないでしょうか。
父と子と聖霊は、完全な愛で、愛し合っておられます。 しかし、三位一体の愛は、完結した、閉ざされた愛ではありません。すべての人に、 すべてのいのちに向けられている、開かれた愛です。 すべてのいのちが、この愛に応えて、真に喜ぶ時、神の愛は完成します。 私たちの愛も、三位一体の愛に包まれ、満たされて、完成します。これこそ、私たちの 希望です。そして、この「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 三位一体という愛を信じて、開かれた愛の道を、ともに歩んでいきましょう。 希望の巡礼者として、歩んでいきましょう。
2025/6/8 聖霊降臨の主日 お説教
〔6月8日/聖霊降臨の主日〕
2025/6/1 主の昇天 お説教
[主の昇天 お説教]
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[主の昇天 お説教 ] 「主の昇天」の祭日は、希望の巡礼者である私たちにとって、とても大切な日です。今日は、私たちが、すべてのいのちが、希望に満たされる日です。 福音記者ルカは、主の昇天について、次のように伝えています。「イエスは…手を上げて祝福された。そして、祝福しながら〔弟...
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[6月15日/三位一体の主日] [お説教] 今日は、愛の祭日です。「三位一体」とは、愛そのものだからです。 愛こそ、神のいのち、私たちのいのちだからです。私たちは今日、三位一体という愛 に賛美と感謝をささげるために、こうして集まっています。愛といういのちを分かち合う ために、...
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〔5月4日/復活節第3主日〕 今週の福音も、復活のキリストに出会う弟子たちの姿を伝えています。復活祭を、今祝っている私たちも、復活の主に出会います。そして、復活のいのちをいただきます。 今日の福音が伝えている通り、弟子たちは、「漁に行」きました。弟子たちにとって、漁は...