2025/8/17 年間第20主日 ことばの祭儀、お説教

 

[8月17日/年間第20主日]


 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。











[お説教]

教皇フランシスコは、今年の聖年についての文書、「希望は欺かない」の中で、次のように述べています。「希望の最初のしるしは、世界の平和といいうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨劇を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています。この人たちに、どんな苦しみがさらに必要だというのでしょうか。」

フランシスコ教皇のこの言葉は、今日の福音の、主イエスの言葉と重なります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、どんなに苦しむだろう。」

主イエスによって投じられた火とは、私たちの心を燃え立たせる火です。どのような困難があっても、世界の平和という希望を失わせない火です。すべての人と平和を分かち合いたいという愛へと駆り立てる火です。世界の平和は必ず実現すると信じる続けさせる火です。この平和の火は、平和旬間に燃やせば良いという火ではありません。主は、この火をいつも燃やし続けるように求めておられるのです。そして、この火を、私たち一人一人の心に投じ続けておられるのです。

平和の火を燃やし続けるために、私たちは過去を忘れないようにしたいと思います。過去のことは忘れて、未来に向かって、前向きに生きていこう。過去のことをあれこれ言っても過去を変えることなどできないのだから、これからのことだけを考えよう。私たちは、このような思いに駆られることがあります。しかし、過去を忘れて、未来を築いていくことはできません。あまりにも多くの人に苦しみをもたらした過去の惨劇を忘れて、平和な未来を望むことはできません。過去の惨劇を知ってこそ、心から、同じ惨劇を繰り返してはならないと思えるのです。多くの人が苦しんだことを知ってこそ、これ以上苦しむ人が出ないでほしいと、本当に願うことができるのです。これ以上の苦しみは必要ないという熱い思いがこみ上げるのです。

私たちは、平和の火を燃やし続けるために、今、この世界で苦しんでいる人々のことを忘れないようにしたいと思います。今、この世界では、自分さえ、自分の身内さえ、自分の国さえ平和であればよいという思いが広がっています。私たちは、自分たちだけの平和を守ろうとする時、自分たちに属さない人のことに無関心になります。自分たちに入っていない人の苦しみは、自分たちには関係がないこととして、無視され、忘れ去られます。主イエスは今日の福音で、はっきりと、ご自分が、「地上に平和をもたらすために来た」のではないと言われます。ここで言われている「平和」とは、自分たちだけの平和のことであると言えます。主は、「分裂」という言葉を用いて、こうした、自己中心的な平和に対して挑戦されます。自分たちだけの平和が、分裂をもたらし、多くの人を苦しめていることを思い起こさせます。実際、自分たちだけの平和を守ることが、世界の平和を実現困難にしているのです。平和を守るためという理由で始められた戦争が、多くの人から、平和という希望を奪っているのです。

私たちは、ただ忘れないということで満足できません。愛の火は、私たちが、苦しんでいる人々とともに苦しむように駆り立てているのです。今日の福音で、主イエスは、「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言っておられます。ここで、主が言われる洗礼とは、主の受難と復活です。そして、私たちが受けた洗礼でもあります。私たちにも、受けなければならない洗礼があるのです。「洗礼」は、救いの恵みです。しかし、自分だけが救われる恵みではありません。すべてのいのちが救われるために、ともに苦しむことができるという恵みです。苦しんでいるいのちとともに、すべてのいのちの平和を目指すことができるという恵みです。愛の火に生かされる恵みです。私たちを清める水は、苦しんでいる人の、悲しみの涙なのです。世界の平和が実現した時流される、喜びの涙なのです。

平和旬間は、もう終わっています。しかし、希望の巡礼者である私たちは、世界の平和という希望を抱いて歩み続けていきます。私たちが歩んでいる巡礼の道は、主イエスによって投じられた火によって照らされている道なのです。自分たちだけの平和を守るために、途中で立ちどまる道ではないのです。すべてのいのちの平和という希望に燃えて、日々、ともに歩み続ける道なのです。

2025/8/15 聖母マリアの被昇天 お説教

[8月15日/聖母マリアの被昇天] 


[お説教]

今日の福音で、聖母マリアは、救いの希望を分かち合うために、エリサベトを訪れます。マリアは、希望の巡礼者です。私たちも今日、この分かち合いに加わります。 

希望の分かち合いを広げていきます。 

聖母マリアの被昇天という希望を、まわりの人と分かち合います。被昇天とは、すべてのいのちが、マリアのように救われるということなのです。 


では、マリアがエリサベトと分かち合った救いの希望とは、どのような希望でしょうか。

それは、すべてのいのちが、ともに救われるという希望です。 

すべてのいのちが、「ともに天の栄光に上げられ」るという希望です。 

「天の栄光」とは、神に大切にされている、きわめてよい存在として、輝くということです。それでは、喜びに満ちて、救いの希望を宣言するマリアの預言に心の耳を傾けましょう。


すべてのいのちが、きわめてよい存在として、輝くために、主は、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」ます。 

思い上がる者とは、神に生かされていることを忘れ、隣人に支えられていることに感謝しない者のことです。自分がいつも正しいと思い込み、祈りを怠り、隣人に耳を傾けない者のことです。 

神は、こうした者たちを回心へと招かれます。祈りがなければ生きていけない、まわりの助けがあるから生きていけるという気づきを与えられます。そして、権力ある者を、まわりの人を自分の思い通りにするという暴力を振るうことから解放して、神と隣人に仕える喜びを与えてくださいます。祈りと感謝を忘れず、喜んで仕える人こそ、救われている人、輝いている人なのです。 


マリアはさらに、「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と宣言します。 

神の前では、すべての人が尊い存在です。私たちが優れているから尊い存在なのではなく、神に愛されているから、皆尊い存在なのです。 

マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言って、神を賛美しています。マリアは、神の恵みの大きさ、神の愛の深さを賛美しているのです。 


私たちは、自分の貧しさ、自分の弱さを、謙虚に認める時、神に愛されていることを体験し、すべてが恵みであることに気づき、感謝するようになるのです。すべてのよいものを、まわりの人と分かち合うようになるのです。神から与えられたものすべてを、 皆で分かち合うことで、すべてのものが、きわめてよいものになるのです。 

分かち合うから、飢えた人が豊かさを味わい、富める者が貧しい人の苦しみを知るのです。天の栄光に上げられる人は、すべてのいのちと、神の恵みを分かち合うのです。神の愛の深さに、隣人への愛で応えるのです。 


6日に始まった平和旬間は、今日が最終日です。 

平和とは、すべてのいのちが、尊い存在として、天の栄光で輝くことだと言えます。 

すべてのいのちが、良いものを分かち合えることだと言えます。 

今の世界では、この分かち合いが実現していません。実現していないどころか、すべてのいのちが、最も悪いものによって、滅亡するかもしれないという危機的状況にあります。 

最も悪いものの一つは、核兵器です。希望の巡礼者である私たちは、「核による抑止力」に希望を見い出すことはできません。「核なき世界」こそが、私たちの希望です。 


先週の9日に出された「長崎平和宣言」の中で、次のように述べられています。 


「『人類は核兵器をなくすことができる』。強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に『地球市民』という言葉が根付きました。 

この言葉には、人種や国境などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。 

この『地球市民』の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。」 


マリアとエリサベトの希望の分かち合いは、「地球市民」の分かち合いです。 

希望の巡礼者である私たちも、この分かち合いに加わり、この地上を、「地球市民」として歩んでいきたいと思います。 

すべてのいのちが、きわめてよい存在として、輝くことを願って、仕え合いながら、ともに歩んでいきたいと思います。


2025/8/10 年間第19主日 ことばの祭儀、お説教

 [8月10日/年間第19主日]

 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。











[お説教]

主イエスは今日、主に呼ばれて集まっている私たちに、次のように語りかけて、私たち一人一人を励ましておられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

平和旬間を歩んでいる私たちにとって、「神の国」とは、真の平和です。私たちは、この平和を、主イエスからいただいています。私たちは、ミサやことばの祭儀の時、「主の平和」と言って、互いにあいさつをします。このあいさつによって、私たちは、神から与えられた平和を分かち合います。私たちが真の平和をいただいているということを、確認し合います。そして、この平和を、毎日の生活の中で、宣べ伝えていこうと励まし合います。

主イエスが言われるように、私たちは、「小さな群れ」です。お金も力もありません。小さな愛の業しかできません。今日の福音で、「ともし火」という言葉が出てきますが、ともし火とは、私たちが実行している、小さな愛の業です。小さな愛の業を実行している私たちが、ともし火です。小さな群れですから、小さなともし火しかありません。主は今日、私たちに、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言っておられます。「自分ができる小さな愛の業で、まわりの人に仕えなさい」という意味です。小さな愛の業で、喜んで、互いに仕え合うことが、神の国であり、私たちが求めている平和であると言えます。

今日の福音のたとえ話には、「僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」主人が登場します。この主人は、仕えておられる主イエスのことです。主こそ、私たちに、すべてのいのちに仕えておられる方なのです。私たちが、まわりに仕えている時、ともに仕えてくださる方なのです。私たちが仕える時、キリストが仕えておられるのです。教会は、キリストの生きている姿です。私たち教会は、今、この世界で、すべてのいのちに仕えるキリストとなるように招かれているのです。実際、仕えるキリストとなっているのです。なろうとして、日々祈り、努力しているのです。キリストのように仕えることで、真の平和を証ししているのです。

今日の福音で、主イエスは、「恐れるな」と言っておられます。恐れがある限り、真の平和は訪れません。恐れがあるところに、神の国は実現していません。人は、恐れを抱く時、自分を守ろうとするからです。自分を守るために、壁を築き、武器を手にするからです。壁や武器は、私たちを恐れから解放しません。さらに高い壁、さらに強力な武器をもたらし、恐れが大きくなっていくだけです。そして、壁に遮られて、ともし火は見えなくなり、武器を持つ手は、ともし火を持てなくなります。壁や武器は、私たちから、愛であるともし火を奪います。恐れがある限り、愛は成り立ちません。核兵器を始めとする大量破壊兵器は、人間の恐れが作り出したものです。恐れから解放されるために、恐れを大きくしているのです。

平和旬間を過ごしている私たちは、この世界から、愛を妨げる壁が取り除かれ、あらゆる武器がなくなることを願っています。一人一人が安心して、愛のともし火をともせる日が、必ず来るという希望を抱いて、希望の巡礼者の道を歩んでいます。そして、2021年に始まったシノドスの歩みも続いています。シノドスとは、神の国の完成、真の平和を目指して、ともに歩むことです。私たちは、この歩みに加わる人が増えていくことを望んでいます。小さな群れが、シノドスの群れになるという希望を持っています。

教皇レオ14世は、今年の5月8日に、最初の祝福を祈った時、次のように述べています。「わたしたちはシノドス的な教会になることを望んでいます。それは、道を歩む教会、常に平和を求め、常に愛の業を求め、とくに苦しむ人に常に寄り添うことを求める教会です。」常に愛と平和を求めて、ともに歩んでいきましょう。一人一人のともし火が消えないように、大切に守り合いながら、ゆっくりと歩んでいきましょう。神の愛に希望を置いて、隣人の愛を信頼して、互いの歩みを気遣いながら、一歩一歩、歩んでいきましょう。

2025/8/3 年間第18主日 ことばの祭儀、お説教

 [8月3日/年間第18主日]

 [ことばの祭儀]
 以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。










[お説教]

今週の水曜日、主の変容の祝日である6日から、聖母マリアの被昇天の祭日である15日まで、私たちは、平和旬間を過ごします。希望の巡礼を歩んでいる私たちは、この10日間、世界に真の平和が訪れることを、熱心に祈り、日々の生活の中で、平和のために働く決意を新たにします。希望の巡礼を、真の平和を目指す巡礼として、ともに歩みます。

戦後80年を迎えた今年、日本カトリック司教団から、「平和を紡ぐ旅-希望を携えて」という平和メッセージが発表されています。その中で、「真の平和」について、次のように述べられています。「聖書が語る『平和』は、もともと『欠けたところのない状態』という意味をもつことばです。その意味で、平和は、単に戦争や争いがない状態なのではなく、この世界が神の前に欠けるところのない状態、すなわち神がきわめてよいものとして造られたこの世界のすべてが、それぞれ尊重され、調和のうちにある状態のことだといえるでしょう。」

今日の第二朗読で、使徒パウロは、希望の巡礼者である私たちに、「上にあるものを求めなさい」と呼びかけています。上にあるものとは、真の平和のことではないでしょうか。パウロは、「キリストが神の右の座に着いておられます」言っていますが、その意味は、真の平和が実現しているということではないでしょうか。キリストが尊い存在とされているということは、すべてのいのちが尊い存在とされているということです。キリストは、私たちのいのちだからです。そして、すべてのいのちが、互いを尊い存在とし、大切にし合っていることが、真の平和なのです。私たちは今、上にある、真の平和に「心を留め」、地上のものを奪い合うことに「心を引かれないように」するように励まされているのです。私たちは、上にある、キリストの平和を、私たちが生きている、この地上に実現したいのです。私たちは、天上に逃げることも、地上から逃げることもできません。天上の平和を目指して、この地上を、一歩一歩歩んでいくしかないのです。平和という希望の道を、キリストの愛に生かされて、歩んでいくしかないのです。この歩みこそ、希望の巡礼者の歩みなのです。

今日の福音で、主イエスは、ここに集まっている私たちと、「ある金持ち」のたとえ話を分かち合ってくださいます。この金持ちは、畑が豊作となり、自分の財産を蓄えるための倉を、新たに建てようとします。財産を蓄えるための倉を大きくしようとします。自分だけが、「食べたり飲んだりして楽し」むために、自分の財産だけを守ろうとします。金持ちは、財産のことに「心を引かれ」て、いのちのことに「心を留め」なくなります。倉を大きくすることが、最優先のことになります。金持ちたちは、倉を大きくすることを競うようになります。いのちを養うはずの穀物は、倉を満たすための、倉を大きくするための、大きくし続けるための手段になります。いのちを支えるためのはずだった、穀物の倉が、いのちを、人びとの生活を犠牲にして大きくなっていきます。倉が、いのちを脅かすようになります。

司教団は今年、平和メッセージとともに、「核兵器廃絶宣言2025」を発表しています。この宣言の中で、「核兵器の存在は、神がきわめてよいものとして造られたこの世界と人間の尊厳をおとしめるものであり、すべてのいのちを脅かす深刻な脅威です」と明言されています。核兵器は、大きくなっていく倉と同じです。一部の者たちの財産を守るために、あまりに多くのいのちを犠牲にするものです。さらに、倉が大きくなっていく時、倉を建てた者は、自分だけで生きていくことができるという誤った考えをもつようになります。大きくなった倉の中に留まり、倉の外にいる人と関わらなくなります。倉の外にいる人が、自分の脅威になります。倉の外にいる人が飢えていても、気にならなくなります。倉を建てた者の関心事は、倉の中の穀物の蓄えが増えていくこと、他の倉より、大きな倉を建てることだけになります。倉を大きくするために、穀物の豊作を望むようになります。いのちのことなど、どうでも良いよいことになります。核兵器も同じです。人びとから、対話をしようという姿勢を失わせ、自分たちだけを守るシェルターに閉じ込め、外の人のいのちに関心を持たないようにします。

司教団は、「わたしたちは、キリストの福音に従い、対話を通じた平和の実現を目指し、すべての人の生命と尊厳を守るために、核兵器を完全廃絶するよう強く求めます」と宣言しています。希望の巡礼者である私たちも、すべての希望を奪う核兵器の完全廃絶を求めていきたいと思います。


 以下のリンクからカトリック中央協議会のページに移動します。




このブログを検索

2025/8/17 年間第20主日 ことばの祭儀、お説教

  [8月17日/年間第20主日]   [ ことばの祭儀 ]  以下のリンクからことばの祭儀(Youtube)に移動します。 年間第20主日 ことばの祭儀 [お説教] 教皇フランシスコは、今年の聖年についての文書、「希望は欺かない」の中で、次のように述べています。「希望の最初のし...

ブログ アーカイブ