降誕祭が始まりました。1月11日の「主の洗礼」の祝日まで、私たちは、神のひとり子が、私たちの一人になられたことを、ともに祝います。
神のひとり子が、すべてのいのちを救ってくださったことを喜び、感謝します。今夜(昨夜の夜半)のミサの福音朗読で、救い主キリストの誕生が告げられます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日…、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この福音は、最初に、「羊飼いたち」に告げられました。
羊飼いたちは、神の「御心に適う人」たち、この地上に「平和」をもたらす人たちとされています。福音記者ルカは、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と伝えています。
羊飼いたちは、羊のそばに、いつもいて、ともに旅をし、羊のいのちを守り続けます。野宿をするとは、自分のいのちを危険にさらしても、羊のいのちを守り抜くということです。そして、羊も、人々の生活を支えるために、いのちを差し出すことになるのです。互いのいのちをケアし合う関係なのです。
羊飼いと羊のように、私たちも、互いのいのちをケアし合うならば、この世界に、真の平和が実現し、すべてのいのちが、生きている喜びで輝くのです。すべてのいのちの輝きこそ、神の栄光なのです。地上の平和が、天上の栄光となるのです。
今夜(昨夜)の福音には、住民登録を命じる、ローマ皇帝アウグストゥスが登場します。しかし、すべての住民を支配しようとする、この皇帝には、救い主誕生の福音は告げられません。
ローマ皇帝を始めとする権力者たちは、力で、暴力で、人々を支配しようとします。
権力者たちは、贅沢な生活を続けることにしか関心がありません。自分たちの生活を守るために、人々の生活を犠牲にします。人々が、自分たちの生活を守るために、権力者たちに抵抗する時、多くの場合、テロリスト扱いされて、命までも奪われることになります。
ここに、真の平和などありません。権力者たちのための平和は、偽りの平和なのです。支配されている人たちが、恐れて、沈黙を保って、おとなしくしていることは、平和ではなく、暴力と恐怖の支配なのです。
テロリズムとは、本来、こうした暴力のことなのです。こうした暴力があるところに、救いは、絶対に訪れないのです。
明日の日中(今日)のミサで、救い主の降誕のもう一つの福音が宣言されます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という福音です。神の愛が、言葉だけではなく、実行されるようになったという意味です。肉体を使って、愛が実行されるようになったという意味です。
しかし、肉体には、限界があります。できないことがたくさんあります。だから、協力し合って、愛の行いを実行します。肉体を持っているということは、一人では生きていけないということなのです。だれかにケアされて、生きているということなのです。私たちは、自分がまわりのいのちにケアされて生きていることに気づき、感謝する時、私たちが発する言葉は、愛に満ちた言葉になります。私たちの生きる姿は、神の愛をあらわすことになります。「言は肉となって」、この世界に、真の平和が実現します。そして、愛のみことばは、この世界の中に、「宿って」います。
「宿る」とは、「天幕を張る」という意味です。この世界の中を、旅をしながら、ともに生きていくということです。愛のみことばを宣べ伝え、分かち合いながら、旅をするということです。出会う人にお世話になりながら、出会う人の求めに応えて、お世話しながら、生きていくということです。お世話し合いながら、皆で愛を深め、大きくしていくことです。この歩みの中に、いのちがあるのです。希望の巡礼者である私たちは、このいのちとなって、「闇の中を歩む」人々と、希望を分かち合いながら歩んでいくように励まされているのです。
今日、すべてのいのちのために、救い主がお生まれになりました。救いとは、ともに生きているという喜びです。まわりのいのちにケアされて生きているという喜びです。肉体という限界があっても、まわりの人をケアすることができるという喜びです。ただそばにいることが、最高の愛になるという喜びです。肉体という限界があるからこそ、優しくなることができるという喜びです。あたたかい言葉を発すること、あたたかい沈黙を保つことができるという喜びです。そして、こうした喜びが、いつか、すべてのいのちを満たすという希望です。
私たち希望の巡礼者は、この希望に満たされて、これからも、歩み続けたいと思います。
12月25日/主の降誕
12月21日/待降節第4主日
私たちは今日、「インマヌエル」という福音を分かち合っています。
待降節と降誕節は、この福音を分かち合い、宣べ伝える時であると言えます。
「インマヌエル」という言葉は、「我々と共に」という意味の「インマヌ」と、「神」を意味する「エル」という言葉からなっています。ですから、「インマヌエル」という言葉は、さまざまな意味を持っているということができます。
「神は、私たちと共におられた」と意味で捉えれば、神は私たちと共におられたという、私たちの救いの歴史を感謝し、賛美する言葉となります。
「神は、今、私たちと共におられる」という意味に取れば、私たちは救われているという、救いの宣言、喜びの宣言となります。「神は、私たちすべてのいのちと共におられるようになる」という意味を見い出す時、この言葉は、希望の福音となります。
希望の巡礼者である私たちの福音となります。
そして、「神が、私たちと共にいてくださいますように」という祈りの言葉にもなります。私たちが、苦難の時に叫ぶ祈りとなります。
苦難に満ちた世界に生きている私たちは、神が共におられることを忘れてしまいます。神が共に苦しみ、悲しんでおられることを信じることができなくなります。神が共に生きてくださっていることを否定してしまいます。
しかし、神は、私たちから、すべてのいのちから離れることはなさいません。離れることは、決しておできにならないのです。
「インマヌエル」とは、神が、すべてのいのちと約束されたことであり、この約束を、神は破ることがおできにならないのです。
私たち人間は、何度でも、約束を破ることができますが、神は、決して、おできにならないのです。ですから、私たちの祈りは、「私たちが、神が共におられることを忘れませんように」という祈り、「私たちの信仰を支えてください」という意味の祈りになると言えます。私たちは皆、救われていますが、救いを受け入れることができないのです。だから、祈りが必要なのです。
さらに、「インマヌエル」という救いを信じることで、今まであたりまえだったことに、疑問を持たなければならなくなります。今までの生き方を変えなければならなくなります。今日の福音に登場するヨセフは、この経験をしました。結婚前に身ごもったマリアと縁を切ることは、当時の社会であたりまえのことでした。しかし、「インマヌエル」の実現のために、マリアを自分のパートナーとして受け入れるよう求められたのです。
社会の常識に反することを行うように求められたのです。
マリアは、「聖霊によって身ごもってい」ました。聖霊こそ、「インマヌエル」です。
聖霊は、人間の思いを超えて、神の救いをもたらすのです。私たちの考えや生き方を変えることで、私たちを救うのです。ですから、私たちは、「神が共におられることで、私たちの生き方が変えられますように」と祈るように励まされているのです。
「私たちが変えられていく時、神が共におられるという喜びをお与えください」と祈るように励まされているのです。
私たちは、希望の巡礼を歩みながら、主の降誕を迎えます。今、救い主イエスは、弱く、小さいいのちの姿で、マリアの胎内におられます。私たち、すべてのいのちを包み込む、無限大の愛を、この世界にもたらすために、無限小のいのちとなっておられます。
この地球上に生きる、一つ一つのいのちが、かけがえのない存在であることを示すために、小さないのちである「インマヌエル」が、私たちのところに、もうすぐ来られます。分数の分子が、小さな数でも、分母が無限に小さくなり、ゼロに限りなく近づけば、その分数の値は無限大になります。このように、すべてのいのちの価値を無限大にする、無限小のいのちこそ、「インマヌエル」である御子の愛です。
希望の巡礼者である私たちは、この無限小のいのちに込められた無限の愛を証ししていきたいと思います。
見えないほどの小さないのちこそ、大きな希望であると宣言しながら、歩み続けたいと思います。
「インマヌエル」という希望の福音を宣べ伝えていきたいと思います。
12月14日 待降節第3主日
今日は、「喜びの主日」です。
主イエスが、すでに来られたことの喜び、今、私たちとともにおられることの喜び、再び来られることの喜びを分かち合う日です。
希望の巡礼者は、どのような時も喜びを失いません。主が与えてくださる喜びを分かち合いながら、この世界を歩み続ける巡礼者です。
救い主イエスが来られる喜びとは、どのような喜びでしょうか。
今日の福音で、主ご自身が、この喜びについて、はっきりと宣言しておられます。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
主イエスが、二千年前にこの世界に来られた時、この喜びがもたらされました。この喜びの時が始まりました。そして、主が再び来られる時、すべてのいのちが、すべての人がこの喜びを得ることになります。
では、今、私たちはこの喜びを、どう生きていけばよいのでしょうか。
毎年、主の降誕を祝えば、それで十分なのでしょうか。主が再び来られると、宣言し、ただ待っていれば、主が来られる喜びを宣べ伝えていることになるのでしょうか。
違うと思います。私たちは、日々の生き方によって、愛の行いによって、主が来られる喜びを実現していくように励まされているのです。
主が今、ともに生きておられる喜びを実現するように励まさているのです。
私たちの愛の行いは、立ち止まることから始まります。
私たちは、日常の生活の中で、よく走っていないでしょうか。何かから取り残されないように、走らされていないでしょうか。
そこで、走ることを止めて、ゆっくり歩いてみたいと思います。ゆっくり歩こうとする時、私たちは、急いで走っている人たちに恐怖を感じると思います。初めて訪れる大都市の中で、方向を見失い立ち止まる時、まわりの速い動きが暴力のように感じると思います。このように感じることこそ、さまざまな理由で、走ることができない人に生きにくさをもたらしているのではないでしょうか。そして、走ることを止め、立ち止まり、じっくりとまわりの様子を見て、まわりの音を聞く時、私たちは気づくはずです。
走っていた時、自分こそが見えていなかった、聞こえていなかったと。
立ち止まるという自由を、足が失っていたことを。そして、走らず、ゆっくり歩いて生きていけることこそが、喜びであることに気づくはずです。
走りたくても走れない人の気持ちがわかる時、まわりの人の苦しみや悲しみが感じることができる時、生きていることを実感できるはずです。走らされていた時は死んでいたが、立ち止まっている今こそ、生きていることに気づくはずです。本当の意味で、生きていることに、深い喜びを感じるはずです。
愛の行いとは、互いの弱さや貧しさを知り、支え合うことです。愛とは、ともに、弱く、貧しくなっていくことです。愛とは、強い者が弱い者に、何かをしてあげることではありません。富んでいる者が貧しい者に、何かを恵んでやることではありません。貧しさと弱さを分かち合うことです。私たちは、貧しく、弱いからこそ、分かち合い、愛し合えるのです。このことこそ、貧しい人の福音なのです。貧しい人は、福音を知らされていると同時に、福音を告げ知らせているのです。
この世界では、貧しくなることが、日々の生活が困難となることになっています。貧しいことが、避けるべきこと、恥ずかしいこととなっています。貧しさを免がれるために、まわりと争わなければならなくなっています。
主イエスが来られる時、天の国が来る時、貧しさは、愛されている喜び、愛し合える喜びとなるのです。天の国が完成しても、私たちの貧しさはなくなりません。私たちは皆貧しいからこそ、ともに生きることができるようになるのです。
私たちが、愛の行いを実行することで、救い主イエスが来られたことを証しすることができます。主が今、私たちとともに生きておられることで告げ知らせることができます。そして、主が再び来られるという希望を分かち合うことができます。
私たちの愛の行いは、この世界において、報われないことが多いです。しかし、報われないからこそ、愛であると言うことができます。
使徒ヤコブは、「主が来られるときまで忍耐しなさい」と言って、私たちを励ましています。忍耐して、愛の行いを続けていきたいと思います。弱く、貧しい私たちは皆、「天の国で最も小さな者」ですが、「洗礼者ヨハネより偉大な者」です。天の国が完成すること信じて、愛の行いを続けているからです。
希望の巡礼者として、私たちの希望、主が再び来られるまで、忍耐して、愛の行いを続けていきましょう。イザヤが預言しているように、荒れ野を、喜びながら、歩んでいきましょう。人間としての弱さと貧しさという福音を分かち合いながら、主の降誕を迎える準備を進めていきましょう。
12月7日/待降節第2主日
[説教]
私たちは、待降節第2主日である今日、「荒れ野で叫ぶ者の声」に加わるよう招かれています。希望の巡礼者である私たちは、洗礼者ヨハネとともに、荒れ野を歩むように励まされています。
「荒れ野」とは、どのようなところでしょうか。
荒れ野は、悪の力が働いているところです。そして、神がおられるところです。
私たちは、荒れ野にいると、悪の力を感じることができます。そして、悪の力を感じるからこそ、神がともにおられることを願います。そして、神がともにおられるからこそ、自分が罪人であることに気づくことができます。荒れ野にいるから、「悔い改め」ることができます。
荒れ野は、悪の力から解放され、「天の国」を目指す、旅そのものであると言えます。私たちは、荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という招きに応えて、旅を続けるように励まされているのです。
天の国は、もう来ています。主イエスは、もう来ておられます。
天の国に、主に近づくのは、私たちなのです。この世界なのです。
私たちが生きている、この世界は、荒れ野でしょうか。
この世界では、強い者が弱い者を虐げています。富んでいる者がますます富んでいき、貧しい者が、ますます貧しくなっています。悪の力が働いており、その意味で、荒れ野です。
しかし、神がともにおられることが、願われているでしょうか。悔い改めが真剣に行われているでしょうか。
今、この世界では、悪の力が、正義のように見なされています。経済成長が絶対化され、一部の者たちへの富の集中と、あまりにも多くの人々の貧困が、正当化されています。自分の、目先の安全や利益のことしか考えられず、そうした自己中心的な考え方が、戦争や環境破壊を引き起こしています。自分だけが正義だという思い込みが、インターネット上での、言葉による暴力の拡大をもたらしています。
今のこの世界は、悪の力の支配にとどまっています。天の国を目指す歩みを止めています。
荒れ野は、旅をするところです。旅を止めれば、死が訪れるところです。この世界は今、天の国ではなく、死に近づいているのです。
今日の福音は、「荒れ野で叫ぶ声」として、預言者イザヤの言葉を伝えています。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉です。
荒れ野には、道がありません。私たちが歩むところが、荒れ野の道になります。
私たちは、この道筋を、どのように知ることができるでしょうか。
使徒パウロは今日、その答えを示しています。パウロは、「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」と述べています。
私たちは、聖書から、「主の道」を学ぶことができます。聖書が示す道、天の国への道は、忍耐を持って歩まなければならない道です。
間違いや失敗もあります。しかし、主の道は、決められた道ではありません。いつでも、方向を変更することができます。道幅を変えることもできます。この道を、互いに気遣いながら、ともに祈りながら、歩む時、必ず、天の国にたどり着くのです。
私たちの前に、決められた道はありません。私たちが祈りながら、ともに歩む道が、
主の道となっていくのです。このような道を歩むことなどできないと、嘆き、絶望することはありません。私たちが歩む道が、必ず、主の道になると希望を持って歩む時、
そこに、主の道ができあがるのです。そこで、主イエスに出会うのです。
今は、主の顔を見ることができません。私たちは、背中を追いかけて歩むしかありません。しかし、主と、顔と顔を合わせる日が、必ず来ます。その時、天の国は完成するのです。時間はかかりますが、主の道を歩み続ける限り、天の国は、必ず完成するのです。
預言者イザヤは今日、天の国がどのようなところかを示しています。
「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」
イザヤの預言は、天の国が完成した時、あらゆる暴力が無くなると宣言しています。すべてのいのちが、ともに生きるようになると宣言しています。
今の世界に生きている私たちにとって、イザヤの言葉は、実現不可能な、戯言に聞こえてしまいます。しかし、この預言が実現することを信じて、希望を持って歩む時、
私たちは、荒れ野を歩んでいることになるのです。荒れ野で叫ぶ声になるのです。
希望の巡礼者として、ともに、荒れ野の道を歩んで行きましょう。
11月30日/待降節第一主日
〔11月30日/待降節第1主日〕
[説教]
待降節は、希望を新たにする時です。希望を分かち合う時です。
今、希望の巡礼者として歩んでいる私たちにとって、今年の待降節は、特別な時です。私たちの希望、それは、主イエス・キリストです。主イエスが、私たちのところに来られるということです。待降節に、私たちは、主が再び来られるという信仰と希望を深めながら、主がすでに来られたことを祝う、主の降誕祭の準備をします。
主イエスが来られた時、この世界に平和が訪れました。主イエスが再び来られる時、この平和は完全なものとなります。
預言者イザヤは、主がもたらす平和について、次のように預言しています。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/
槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
自分のいのちを守るために、武器を手にする人がいなくなり、すべてのいのちを守るために、皆が手を取り合う。そのような平和が、私たちの希望です。
この世界で、私たちの希望が実現することを願いながら、私たちは、希望の巡礼を続けています。待降節は、世界の平和という希望を宣べ伝える時なのです。すでに訪れている平和を、すべてのいのちと分かち合うように努力する時なのです。
主イエスが再び来られ、平和を完全にしてくださるのだから、私たちが努力をする必要はないと思いたくなります。主だけが完全にすることがおできになるのだから、人間が努力しても無駄だと考えたくなります。
しかし、主が再び来られるという希望があるからこそ、私たちは、完全な平和のために努力することができるのです。主が最後に完全にしてくださるからこそ、今の私たちの努力は、決して無駄にならないのです。そして、主が再び来られる時完全になるということは、私たちの行うことが完全ではないということです。希望を持つということは、
謙虚になるということなのです。
さらに、真の平和の本当の価値は、平和のために努力する人にしかわからないのです。努力する人だけが、希望することの喜びを得ることができるのです。
私たちは、真の平和が完成するために、今何をするように励まされているのでしょうか。今日の福音で、主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言っておられます。
私たちは、いつも目を覚まして、自分のまわりを、しっかりと見るように励まされているのです。この世界で起こっていることに関心を持つように求められています。そして、平和を妨げていることに加担することを止めるように求められています。真の平和の実現のために行われていることに、積極的に加わるように求められています。
私たちが生きている世界は、わかりにくい、あまりにも複雑な世界です。平和の実現のために、何が良いことで、何が悪いことか、簡単に答えを出すことができません。
だから、一人で考え、すぐに答えを出さず、時間をかけて、皆で、ともに考えたいと思います。さまざまな見方や意見を尊重しながら、ともに考えること。自分の考えと違う考えだからこそ、真剣に耳を傾け、学ぼうとすること。目を覚まして、時間をかけて、
耳の傾け合い、学び合いを続けていくこと。こうしたことが、私たちができる、平和の実現、平和の完成のための努力ではないでしょうか。
主イエスは、さらに言われます。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
主は、世の終わりに、再び来られるだけではありません。私たちの毎日の生活の中に来られます。日々の出来事を通して、この世界の中で出会う人を通して、私たちに語りかけておられます。この語りかけを逃さないように、私たちは用意します。まわりの人に、耳を傾け、心を開き、用意します。
「主よ、語ってください」と祈りながら、用意します。主が再び来られる時、平和が完全になる時を待ち望みながら、主がいつ来られてもよいように用意します。
私たちは、希望の巡礼者です。キリストの平和の完成を信じて、心を開き、耳を傾け合いながら、時間をかけて、ともに歩んでいる巡礼者です。
この世界の中で、真の平和という希望を分かち合いながら歩んでいる、巡礼者です。この歩みを続けていきましょう。この待降節という恵みの時、希望の巡礼の時を歩んでいきましょう。
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