12月7日/待降節第2主日


[説教]
私たちは、待降節第2主日である今日、「荒れ野で叫ぶ者の声」に加わるよう招かれています。希望の巡礼者である私たちは、洗礼者ヨハネとともに、荒れ野を歩むように励まされています。
「荒れ野」とは、どのようなところでしょうか。
荒れ野は、悪の力が働いているところです。そして、神がおられるところです。
私たちは、荒れ野にいると、悪の力を感じることができます。そして、悪の力を感じるからこそ、神がともにおられることを願います。そして、神がともにおられるからこそ、自分が罪人であることに気づくことができます。荒れ野にいるから、「悔い改め」ることができます。
荒れ野は、悪の力から解放され、「天の国」を目指す、旅そのものであると言えます。私たちは、荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という招きに応えて、旅を続けるように励まされているのです。
天の国は、もう来ています。主イエスは、もう来ておられます。
天の国に、主に近づくのは、私たちなのです。この世界なのです。
私たちが生きている、この世界は、荒れ野でしょうか。
この世界では、強い者が弱い者を虐げています。富んでいる者がますます富んでいき、貧しい者が、ますます貧しくなっています。悪の力が働いており、その意味で、荒れ野です。
しかし、神がともにおられることが、願われているでしょうか。悔い改めが真剣に行われているでしょうか。
今、この世界では、悪の力が、正義のように見なされています。経済成長が絶対化され、一部の者たちへの富の集中と、あまりにも多くの人々の貧困が、正当化されています。自分の、目先の安全や利益のことしか考えられず、そうした自己中心的な考え方が、戦争や環境破壊を引き起こしています。自分だけが正義だという思い込みが、インターネット上での、言葉による暴力の拡大をもたらしています。
今のこの世界は、悪の力の支配にとどまっています。天の国を目指す歩みを止めています。

荒れ野は、旅をするところです。旅を止めれば、死が訪れるところです。この世界は今、天の国ではなく、死に近づいているのです。
今日の福音は、「荒れ野で叫ぶ声」として、預言者イザヤの言葉を伝えています。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉です。
荒れ野には、道がありません。私たちが歩むところが、荒れ野の道になります。
私たちは、この道筋を、どのように知ることができるでしょうか。
使徒パウロは今日、その答えを示しています。パウロは、「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」と述べています。
私たちは、聖書から、「主の道」を学ぶことができます。聖書が示す道、天の国への道は、忍耐を持って歩まなければならない道です。
間違いや失敗もあります。しかし、主の道は、決められた道ではありません。いつでも、方向を変更することができます。道幅を変えることもできます。この道を、互いに気遣いながら、ともに祈りながら、歩む時、必ず、天の国にたどり着くのです。
私たちの前に、決められた道はありません。私たちが祈りながら、ともに歩む道が、
主の道となっていくのです。このような道を歩むことなどできないと、嘆き、絶望することはありません。私たちが歩む道が、必ず、主の道になると希望を持って歩む時、
そこに、主の道ができあがるのです。そこで、主イエスに出会うのです。
今は、主の顔を見ることができません。私たちは、背中を追いかけて歩むしかありません。しかし、主と、顔と顔を合わせる日が、必ず来ます。その時、天の国は完成するのです。時間はかかりますが、主の道を歩み続ける限り、天の国は、必ず完成するのです。
預言者イザヤは今日、天の国がどのようなところかを示しています。
「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」
イザヤの預言は、天の国が完成した時、あらゆる暴力が無くなると宣言しています。すべてのいのちが、ともに生きるようになると宣言しています。
今の世界に生きている私たちにとって、イザヤの言葉は、実現不可能な、戯言に聞こえてしまいます。しかし、この預言が実現することを信じて、希望を持って歩む時、
私たちは、荒れ野を歩んでいることになるのです。荒れ野で叫ぶ声になるのです。
希望の巡礼者として、ともに、荒れ野の道を歩んで行きましょう。

11月30日/待降節第一主日

〔11月30日/待降節第1主日〕
[説教]
待降節は、希望を新たにする時です。希望を分かち合う時です。
今、希望の巡礼者として歩んでいる私たちにとって、今年の待降節は、特別な時です。私たちの希望、それは、主イエス・キリストです。主イエスが、私たちのところに来られるということです。待降節に、私たちは、主が再び来られるという信仰と希望を深めながら、主がすでに来られたことを祝う、主の降誕祭の準備をします。
主イエスが来られた時、この世界に平和が訪れました。主イエスが再び来られる時、この平和は完全なものとなります。
預言者イザヤは、主がもたらす平和について、次のように預言しています。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/
槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
自分のいのちを守るために、武器を手にする人がいなくなり、すべてのいのちを守るために、皆が手を取り合う。そのような平和が、私たちの希望です。
この世界で、私たちの希望が実現することを願いながら、私たちは、希望の巡礼を続けています。待降節は、世界の平和という希望を宣べ伝える時なのです。すでに訪れている平和を、すべてのいのちと分かち合うように努力する時なのです。
主イエスが再び来られ、平和を完全にしてくださるのだから、私たちが努力をする必要はないと思いたくなります。主だけが完全にすることがおできになるのだから、人間が努力しても無駄だと考えたくなります。
しかし、主が再び来られるという希望があるからこそ、私たちは、完全な平和のために努力することができるのです。主が最後に完全にしてくださるからこそ、今の私たちの努力は、決して無駄にならないのです。そして、主が再び来られる時完全になるということは、私たちの行うことが完全ではないということです。希望を持つということは、
謙虚になるということなのです。
さらに、真の平和の本当の価値は、平和のために努力する人にしかわからないのです。努力する人だけが、希望することの喜びを得ることができるのです。

私たちは、真の平和が完成するために、今何をするように励まされているのでしょうか。今日の福音で、主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言っておられます。
私たちは、いつも目を覚まして、自分のまわりを、しっかりと見るように励まされているのです。この世界で起こっていることに関心を持つように求められています。そして、平和を妨げていることに加担することを止めるように求められています。真の平和の実現のために行われていることに、積極的に加わるように求められています。
私たちが生きている世界は、わかりにくい、あまりにも複雑な世界です。平和の実現のために、何が良いことで、何が悪いことか、簡単に答えを出すことができません。
だから、一人で考え、すぐに答えを出さず、時間をかけて、皆で、ともに考えたいと思います。さまざまな見方や意見を尊重しながら、ともに考えること。自分の考えと違う考えだからこそ、真剣に耳を傾け、学ぼうとすること。目を覚まして、時間をかけて、
耳の傾け合い、学び合いを続けていくこと。こうしたことが、私たちができる、平和の実現、平和の完成のための努力ではないでしょうか。
主イエスは、さらに言われます。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
主は、世の終わりに、再び来られるだけではありません。私たちの毎日の生活の中に来られます。日々の出来事を通して、この世界の中で出会う人を通して、私たちに語りかけておられます。この語りかけを逃さないように、私たちは用意します。まわりの人に、耳を傾け、心を開き、用意します。
「主よ、語ってください」と祈りながら、用意します。主が再び来られる時、平和が完全になる時を待ち望みながら、主がいつ来られてもよいように用意します。
私たちは、希望の巡礼者です。キリストの平和の完成を信じて、心を開き、耳を傾け合いながら、時間をかけて、ともに歩んでいる巡礼者です。
この世界の中で、真の平和という希望を分かち合いながら歩んでいる、巡礼者です。この歩みを続けていきましょう。この待降節という恵みの時、希望の巡礼の時を歩んでいきましょう。

11月23日 / 王であるキリスト

 年間の最後の主日である今日、私たちは、「王であるキリスト」に出会います。
そして、キリストが王として治める国、神の国で生きている喜びを分かち合います。
王であるキリストは今日、十字架につけられています。何も身につけていません。
すべてを奪われています。私たちの王は、無力です。自分の命さえ守ることができません。肉体的、心理的、精神的、霊的暴力を受けても、報復することはできません。
そして、孤独です。王であるキリストは今、ただ十字架にとどまっているのです。
この王に対して、
「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、
「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といった言葉が浴びせられます。
確かに、この世界の王ならば、多くの場合、自分を第一に考えて、自分の富や権力を守ります。自分を守るために、自分の支配下にある人々を犠牲にします。
国の安全のため、秩序の維持のため、経済的利益を守るためにという理由で、多くの人の平穏な生活を犠牲にします。
王であるキリストのまわりにいた者たちは、キリストに、この世界の王として振る舞うように求めているのです。
それでは、主キリストが本当に、この世界の王として振る舞われたら、私たちはどうなるでしょうか。
私たちは皆、滅びることになります。滅びないとしたら、私たちは、だれかを十字架につけ続けるでしょう。だれかを十字架につけることで、自分は正しいと思い続けることになるでしょう。永遠に回心できないことこそ、滅びなのかもしれません。
王であるキリストは、何も持っておられません。私たちに、すべてを与え尽くされたからです。十字架上のキリストは、いのちを傷つける力を持っておられません。
私たち皆に生きる力を与えておられるのです。そして、十字架にとどまっておられます。私たち皆を愛しておられるからです。イエスが十字架にとどまることは、神が私たちを愛しておられるということなのです。
今日の福音で、ただひとり、王であるキリストに出会った人がいます。イエスとともに十字架にかけられている犯罪人一人です。この人は、はっきりと言います。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と。

王であるキリストに出会った人は、自分が罪人であることに気づきます。罪人である自分が、何も悪いことをしていない人を十字架につけていることに気づきます。
そして、だれかを十字架につけることをやめて、自分も十字架の上にとどまります。
回心して、主とともに、十字架という愛にとどまります。
王であるキリストに出会った人にとって、十字架は希望となります。主イエスとともに十字架にとどまることで、救いの希望に満たされます。
犯罪人の一人の言葉、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉は、聖書の中で、最も力強い、希望の表明なのです。
「思い出してください」という言葉は、ただ単に、「覚えていてください」という意味ではありません。「あなたの御国で、今のように、近くにいさせてください」という意味です。
今日、希望の巡礼者として集まっている私たちは、犯罪人の、この希望の言葉を、
皆で分かち合いたいと思います。この希望の言葉を歌いながら、巡礼を続けていきたいと思います。
希望の巡礼者は、罪人です。罪人だからこそ、神の国という希望を持ちます。自分が正しいと思う者は、この世界にしがみつきます。自分が罪人だと認める人は、愛がすべてとなる御国を目指します。
この希望は、私たちを欺きません。
王であるキリストは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っておられるのです。
十字架にとどまることは、苦しいことであり、すぐに逃げ出したくなることです。しかし、十字架にとどまることは、イエスとともに、愛にとどまることです。この世界で苦しんでいる人びとと、ともに生きることです。
私たちは、死ぬために十字架にとどまるのではありません。愛するために十字架にとどまるのです。王であるキリストは、愛をもって、すべてのいのちに仕える王です。
私たちも、この愛につながって、ともに歩んでいきましょう。
そして、今日は、「世界青年の日」です。
教皇レオ十四世は、この日のメッセージの中で、若い人たちに、キリストの友となって、キリストの愛を証しするように励ましています。
私たちは、世界中の若い人たちのために、心を込めて祈りたいと思います。若い人たちとともに、希望の巡礼を歩み続けたいと思います。
ともに、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈りながら。

11月16日 年間第33主日 お説教

今日は、「貧しい人のための世界祈願日」です。
この日のための教皇メッセージで、次のように述べられています。
「地上の富、物質的な現実、この世の快楽、経済的な繁栄は、それらがいかに重要であっても、心を幸福にするには不十分です。富はしばしば人を惑わし、悲惨な貧困の状態をもたらします。それは、何よりも、神の必要性を認めず、神から独立して人生を歩もうとする貧困です。」
私たちは今日、思い起こし、謙虚に認めなければなりません。私たちは皆、貧しい者であることを。ですから、今日の祈願日は、まず第一に、私たち自身のために祈る日なのです。貧しい私たちに、良いものを与え続けてくださる神に、心からの感謝をささげる日なのです。
神からいただいているものを分かち合っていない罪、隣人に貧しさを押しつけ、自分だけが豊かになろうとする罪を認める日なのです。本当の豊かさを願い求める日なのです。豊かさを分かち合う勇気と知恵を祈る日なのです。
私たちに与えられている豊かさはすべて、神の恵みです。私たちは、この恵みを分かち合う時、本当の意味で豊かになるのです。この恵みを奪い合おうとする時、多くの尊いいのちが失われ、地球といういのちが傷つくのです。
私たちは、神から離れて生きていけません。私たちは、隣人と、貧しさと豊かさを分かち合わなければ、不幸になるだけなのです。
今日の福音で、主イエスは、戦争、暴動、災害、飢饉、疫病などが起こっても、「世の終わり」ではないと言っておられます。むしろ、「証しをする機会となる」と、私たちを励ましておられます。私たちが証しすること、それは、神の愛です。地上のものに危機が訪れる時こそ、神の愛により頼む時だと、私たちを励ましておられるのです。
しかし、多くの人は、神の愛を忘れ、「惑わされ」ます。愛なんて当てにせず、争いに勝つしか道はないと思い込まされます。
そうして、争いが起こります。自分の国や自分の家族を守ることに必死になります。

自分の生きている世界を閉ざすようになります。外から入ってくるものをすべて、脅威と見なします。何かが自分と違うだけで、関わろうとしなくなります。
外で起こっていることに、無関心になります。自分の世界に属するものだけが大切なもの、善で、外にあるものはどうでもよいもの、悪であると見なすようになります。
こうして、他人の喜びをねたみ、まわりの人の悲しみや苦しみを感じなくなります。
自分が攻撃されていると感じると、過剰に反撃します。
すべては、自分が、今、持っている豊かさを守るためです。そこに、喜びも感謝もなく、怒りや不平不満があるだけです。ともに祈ることはなくなり、集まれば、そこにいない人の悪口だけが語られるようになります。そして、そうした時にあっても、神の愛を信じ、愛を宣べ伝え、愛し続ける人は、迫害されます。
今、迫害が起こっています。この迫害は、愛を深める殉教をもたらしません。この迫害の恐ろしさは、愛がなくても、楽しく生きていけると思わせる快適さなのです。互いを大切にし合いながら、苦労して何かを得る必要などないと思わせる便利さなのです。
そして、この快適さや便利さは、お金さえ払えば、だれでも手に入れることができるという誘惑なのです。
こうして、世の終わりが訪れ、すべてが滅びるのでしょうか。断じて、そうではありません。世の終わりとは、滅びではありません。世の終わりは、いのちです。
主イエスは今日、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と励ましておられます。「何があっても、祈り、愛し、皆が生きるようになりなさい」という意味です。
「神の愛の豊かさを分かち合うために、今は、神の愛を渇き求める貧しさを分かち合いなさい」という励ましです。「自分が神からいただいた、よいものを、隣人と分かち合うことで、隣人とともに豊かになりなさい」という、真の幸いへの、愛に満ちた招きです。
この励まし、招きは、私たちの希望です。
希望の巡礼者にとって、世の終わりとは、愛です。神の前での貧しさと、神からの豊かさを分かち合う愛です。
最後に、始めに引用した教皇レオ十四世の言葉の続きを分かち合いたいと思います。聖スウグスティヌスの言葉です。
「いっさいの希望を神に置きなさい。神が必要だと感じなさい。それは、神によって満たされるためです。神がいなければ、あなたが所有するいかなるものも、あなたをいっそう空虚にするだけだからです」(『詩篇講解』)

2025/11/9 ラテラノ教会の献堂 ミサお説教

[説教]
「ラテラノ教会の献堂」を記念している今日、私たちは、すべての教会が神にささげられていることを思い起こしています。神にささげられているから、聖堂と呼ばれているのです。
私たちは今日、神にささげられているとはどういうことかについて、祈りのうちに考えるように招かれているのです。
   今日の福音で、主イエスは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われます。主は、商売という営みをおとしめているのではありません。商売を行う人がいなければ、私たちは生きていくことができません。商売に従事している人たちは、私たちの生活を支えるために、休むことなく働いています。私たちの求めに、笑顔で応えています。私たちは、商売という尊い仕事をしている人たちに、心から感謝したいと思います。商売の尊さを確認した上で、なぜ、神の家である聖堂で商売をしてはならないのかを考えてみたいと思います。
     商売とは、商品とされたものを売ることです。そして、商品となったものは、お金を払わないと、自分が所有するものにすることができません。私たちのまわりは、さまざまな商品であふれています。かつては商品でなかったものが、商品となっています。例えば、水がそうです。主イエスは、商品に囲まれて生きている私たちに、はっきりと言っておられるのです。「商品にしてはいけないものがある」と。
    神にささげられたものは、神に属するものです。主は、神に属するものを商品とすることを、厳しく禁止しておられるのです。ですから、聖堂は商品ではありません。聖堂の中にあるものも、商品ではありません。聖堂に集まる人びとも、絶対に商品となってはならないのです。
今日の第二朗読で、使徒パウロは、はっきりと宣言されています。「神の神殿は聖なるもの…です。あなたがたはその神殿なのです。」パウロが言っているように、私たち一人一人も、聖なる神殿であり、神にに属するものとされているのです。私たちは皆、聖なるものなのです。私たちのうちに、「神の霊が…住んで」おられるのです。 

 

2025/10/26 年間第30主日 お説教

 

[10月26日/年間30主日]


[お説教]
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 
主イエスは今日、この祈りこそが正しい祈りであると宣言しておられます。 

私たちは皆、罪人です。 
私たちはよく、「私のような罪人など、神の前で祈る資格などない」と思うことがあります。主イエスは今日、そんな思いを抱く必要はないと言っておられるのです。 
私たちは、罪人だからこそ、神に呼ばれているのです。罪人だからこそ、神に近づき、熱心に祈るのです。だから、私たちは、ミサやことばの祭儀の時、まず、「父の子と聖霊のみ名によって」と宣言し、神に近づきます。近づくだけでなく、三位一体の神の愛の交わりの中に加わります。 
神のみ名とは、神の愛、神の愛の交わりなのです。 
愛の交わりは、すべての人に開かれた交わりなのです。 
私たちは、愛の交わりに入ることを拒否できます。しかし、神は、愛の交わりに入って来る人を追い出すことはできないのです。 
愛の交わりは、だれかが追い出された時に、愛の交わりでなくなるのです。愛の交わりには、鍵のかかる扉はないのです。扉そのものがないのです。
 
今日の福音のたとえ話に、「徴税人」が登場しています。 
徴税人は、「罪人」と見なされていました。この徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」、この祈りをささげました。徴税人は、神に近づくことができませんでした。天に向かって祈ることができませんでした。しかし、はっきりと、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことができたのです。胸を打ちながら、つまり、心の底から言葉を絞り出すように、祈ることができたのです。 
徴税人が祈ることができたのは、彼がすでに、神の愛の交わりの中に入っていたからです。神は、私たちが遠くにいれば、すぐ近くに来てくださいます。私たちが目を上げなければ、私たちより低いところに来てくださいます。「神様」と呼びかければ、私たちの、一番近くに来てくださいます。そこは、私たちの叫びが生じる心の中です。 
祈りを聞いてくださる神が、私たち一人一人の心の中で、私たちとともに祈ってくださるのです。ですから、私たちは、「主よ、いつくしみをわたしたちに」と祈る時、神の愛の交わりの中で、祈っていることになるのです。 
 
たとえ話のもう一人の登場人物である「ファリサイ派の人」は、祈っていません。 
自分が罪人であることを認めず、ほかの人と違うことを強調しているからです。 
まわりの人を罪人だと決めつけ、自分だけが正しいと思い込んでいるからです。 
私たちは、まわりの人と同じ罪人だと、謙虚に認める時、祈ることができるのです。 
さらに、このファリサイ派の人と徴税人の二人は、「祈るために神殿に上った」のです。
ファリサイ派の人は、徴税人とともに祈るべきでした。徴税人のために祈るべきでした。
しかし、このファリサイ派の人は徴税人を、祈りの場から排除したのです。徴税人を遠くに追いやり、目を上げさせなかったのは、ファリサイ派の人なのです。 
自分が心地よく祈るために、ほかの人が祈ろうとするのを妨げること、それは罪です。
私たちも、同じ罪を犯していないでしょうか。祈りに、上手下手はありません。優劣もありません。 
心からの祈りは、すべて、尊い、美しい祈りです。ですから、すべての祈りを大切にしたいと思います。すべての祈りに感謝しながら、ともに祈りたいと思います。祈り合いたいと思います。ともに祈る、罪人の共同体となって歩み続けたいと思います。 

私たちは今、希望の巡礼の旅を続けています。 
祈りがあるところに、希望があります。 
自分が罪人であることを認めることは、希望の始まりです。 
私たちは、自分が罪人であることを認める時、自分がわかるようになります。自分が立っている位置がわかるようになります。自分がこれから進むべき道が見えてきます。
希望の道です。日々新たになっていく道です。より良い未来へと通じる道です。 
永遠のいのちへと続く道です。 
自分が正しいと思い込む時、私たちの歩みは止まります。 
今の自分がすべてとなります。希望とは、日々歩み続けることです。 
神から憐れみを受けて、新たに生まれ変わることです。日々、生まれ変わることです。 
私たちは、希望の巡礼者として、この希望の道を、ともに歩んでいるのです。 
「神様、罪人のわたしたちを憐れんでください」と祈りながら、ともに歩んでいきましょう。
そして、本当の意味で、正しい者とされて、主が迎えてくださる「家に帰」りましょう。 


2025/10/19 年間第29主日 ことばの祭儀、お説教

 

主イエスは今日、私たちに、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを」思い起こさせてくださいます。 
私たちが、気を落とさずに祈り続ける時、そこに神の国が来ているのです。どのような悲惨な状況であっても、そこに祈る人がいる限り、神の国が始まっているのです。 
希望の国としての神の国が実現しているのです。そして、今日は、「世界宣教の日」です。
この日のための教皇メッセージの中で、教皇フランシスコは、次のように述べています。
 
「祈ることによって、神がわたしたちの内にともされた希望の炎を燃やし続けることができます。それは大きな炎となって、祈りに促された具体的な行動や姿勢によっても、周りにいるすべての人を照らし温めることができるでしょう。」
 
しかし、私たちは、ただ祈れば良いということではありません。 
今日のたとえ話に登場する「やもめ」は、熱心に祈っています。 
「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願っています。この祈りは、やもめの個人的な願いではありません。 
聖書に現れる「やもめ」は、社会の中で弱い立場に置かれた人を表しています。 
ですから、やもめを「守る」ということは、正義を実現するということです。やもめを苦しめる相手を「裁く」ということは、あらゆる不正を許さないということです。 
そう考える時、やもめの祈りは、社会の不正を取り除き、正義の実現を求める祈りということになります。私たちも、個人的な願いだけでなく、この世界に、真の正義が実現することを願うように求められているのです。 

たとえ話の「不正な裁判官」は、やもめの訴えに耳を傾けなければ、「さんざんな目に遭わ」されることに気づきます。 
さんざんな目とは、やもめがもたらす災難ではありません。やもめの願いである正義が実現していないことによる災難です。 
私たちが正義の実現を求めるのは、貧しい人や苦しんでいる人がかわいそうだからではありません。不正がはびこっている社会の中で、自分の幸せだけを考えていることこそが、最も不幸なことだからです。正義を求める心を失っていることこそが、取り除かなければならない貧困なのです。 
 
真の正義が実現しなければ、だれも幸せになれないのです。不正に満ちた、この世界で、不正に加担しなければ生きていけないと思わされていることこそが、「さんざんな目に遭わ」されているということなのです。 
だから、私たちは、正義が実現していないことによる貧しさが、この世界からなくなるように、気を落とさずに、祈り続けるように励まされているのです。真の正義がもたらす豊かさを求めるように、主イエスは今日、私たちを励ましておられるのです。 

真の豊かさ、それは、生きとし生けるものすべてが幸せであって欲しいと、心から願える心を持っていることです。自分が貧しくなっても、まわりの人が支えてくれるという安心感です。自分も、まわりの人を支えていると思えるということです。自分が支えてもらう時、何も疑わず、心から感謝できるということです。そして、安心して貧しくなることができるということです。私たちは皆、貧しくなっていきます。貧しくなることで、支え合うようになります。皆で貧しくなっていくことが、支え合いの豊かさとなっていきますように、気を落とさずに絶えず祈りたいと思います。 

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見い出すだろうか。」 
主イエスが残された、今日の福音の最後の言葉です。私たちは今、何を信じるように求められているのでしょうか。主を信じるとは、主の福音を信じるとは、どういうことなのでしょうか。ここで、先々週に発表された、教皇レオ十四世の使徒的勧告『わたしはあなたを愛した』の一節を分かち合いたいと思います。 

「主への愛は、貧しい人々への愛と一つです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイ26章11節)と語られるイエスはまた、弟子たちにこう約束されます。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)。私たちはさらに、主の次の言葉も思い出します。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイ25章40節)。これは単なる人間的な優しさのことではなく、啓示の一つなのです。―へりくだった人々、力のない人々と関わることこそ、歴史の主と出会う根本的な道なのです。貧しい人々の中で、主は今も、私たちに語りかけ続けておられます。」 

主イエスは今日、私たちが、この「啓示」を信じて、この地上で生きていくよう招いておられるのではないでしょうか。 
主が示された愛を信じ、生きることで、「世界宣教の日」である今日、私たちに与えられている、使徒パウロの励ましに応えたいと思います。 

「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」

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8月16日/年間第20主日

 [説教]  昨日で、今年の平和旬間は終わりました。しかし、私たちの真の平和をめざす歩みは、今日からも続いていきます。平和旬間で新たにされた平和への熱い思いをもって、新たな歩みが始まっています。今日の集会祈願で、私たち教会は、神を「深く愛する心をお与えください」と祈りました。神を...

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