2025/7/27 年間第17主日 Youtube配信ミサ、お説教

「イエスはある所で祈っておられた。」主イエスとともにエルサレムへの道、死と復活への道を歩んでいる私たちは、今日、主とともに祈るように招かれています。日々祈り続けるよう励まされています。そして、主は私たちに、一つの祈りを教えてくださいます。もう一つの「主の祈り」です。私たちは教会で、ともに祈る時、マタイ福音書で示されている主の祈りをとなえます。しかし、ルカが伝える祈りをとなえてはいけないということではありません。主の祈りとして唱えることができます。特に個人の祈りとして、自由にとなえることができます。

ルカが伝える主の祈りは、「父よ」という呼びかけで始まります。私たちは、主イエスご自身が祈られる時と同じく、「父よ」と呼びかけて、祈り始めてよいのです。「父よ」という言葉は、「私たちを愛してくださる方よ、私たちが愛している方よ」という意味です。神に「父よ」と語りかける時、私たちは、神の子として、神の愛に包まれて祈っていることになります。私たちに対する神の愛に応えていることになります。神の愛に応えて、私たちも、互いに愛し合いたいと願うことになります。「父」という言葉を口にしたくない人は、他の言葉でもかまいません。自分を大切にしてくれる人、自分が大切に思っている人を表す言葉ならば、その言葉を使って呼びかけたら良いと思います。

そして、「御名が崇められますように」という言葉が続きます。神の御名とは、神がどのような方であるかを表すものです。神は、すべての人とともにおられる方です。すべてのいのちとともに生きておられる方です。いつでも、どこでも、愛であられ続ける方です。私たちは、神の、こうしたあり方が崇められますよう祈ります。そして、この祈りをささげる時、私たちは、地上のすべてものが聖なるものであることを思い起こします。神が大切にされる、すべてのいのちは、聖なるいのちなのです。神がおられる時間と空間は、聖なる時と所なのです。

この後に、「御国が来ますように」という祈りがささげられます。今、この地上では、さまざまな暴力によって、多くのいのちが傷つき、生きる喜びを、生きること自体を奪われています。すべてのいのちが、平和に生きるための時間と空間が、強欲な者たちによって奪われています。強欲な者たちは、自分たちの暴力を、秩序の維持、国益の名のもとに、正義であると主張しています。そして、苦しめられている人びとの、生きるための抵抗をテロや暴力と決めつけています。「御国が来ますように」という祈りは、こうした現実にしっかりと向き合って、ささげる祈りなのではないでしょうか。そして、すべてのいのちが生きる喜びを感じる時間と空間が、この地上に来ることを、心から願う祈りではないでしょうか。私たちが、あらゆる暴力から解放されることを願う祈りではないでしょうか。

神の国が来るために、私たちも、日々働かなくてはなりません。暴力によって、まわりの人を自分の思い通りにするのではなく、愛によって、ともに生きていくようにしなければなりません。やりたくないことでも、しなければならない時があります。聞きたくないことに、耳を傾けなければならない時があります。行きたくない所にも、行かなければならない時があります。大切にしていたものを、思いきって、手放さなければならない時もあります。こうした働きのために、日々の糧が必要です。だから、私たちは、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ります。この祈りをささげることによって、私たちは、日々の糧が神から与えられていることを忘れず、感謝を怠りません。そして、神から与えられる糧を皆で分かち合うことができます。神の国が来ることを願って分かち合う糧が、神の国が来ていることを体験させる糧になります。神の国のために働く時、神の国が来ていることになります。

そして、主イエスは、私たちに、「赦し」を願うよう励まされます。神の赦しとは、今日の第二朗読の使徒パウロの言葉で表すならば、「神はキリストと共に生かしてくださった」ということです。赦しとは、「罪に死んでいた」私たちが生かされるということです。そして、私たちも、互いに赦し合うよう励まされています。私たちは、神の赦しによって与えられたいのちを分かち合うことで、ともに生きていくことができます。赦し合うことなど不可能だという「誘惑に遇わせないでください」と祈りながら、赦し、赦し合いという希望を抱いて歩んでいくことができます。今週も、主の祈りをささげながら、希望の巡礼者の歩みを続けていきたいと思います。神の国を目指す希望の巡礼者の歩みこそ、神の国が来ていることの証しとなるのです。

2025/7/13 年間第15主日 お説教

 

[7月13日/年間第15主日]

[お説教]

 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」この言葉は、私たちを励ます、希望の言葉です。そして、私たちが、この励ましに応えて、御言葉を行う時、行おうとする時、私たちは、本当に生きていることになるのです。「永遠の命を受け継ぐこと」になるのです。「命が得られる」のです。

 

今日の福音で、主イエスが語られる、たとえ話は、私たちがよく知っている話です。主は、このたとえ話によって、「半殺しに」された人を助けたサマリア人のように、日々出会う人の隣人になりなさいと励ましておられます。すべての人の隣人となることで、幸せに生きなさいと励ましておられます。

 

このたとえ話に登場するサマリア人は、幸せなサマリア人です。最も大切なものを見つけ、その大切なものを守るために、迷うことなく、行動することができたからです。最も大切なものを守るために、自分の持ちものをささげることができたからです。

 

「追いはぎに襲われた人」は、「半殺しに」されていました。「半殺し」にされた人を見ただけでは、その人が生きているかどうかがわかりません。たとえ話に登場する、「ある祭司」と「レビ人」は、半殺しにされた人が、もう死んでいるのかもしれないと思ったのではないでしょうか。そして、自分も襲われて、この人のようになりたくないと恐れたのではないでしょうか。二人は、半殺しにされた人を見て、「道の向こう側」に行ってしまいました。二人は、死を恐れ、死を避けようとするあまり、いのちという、最も大切なものを見失いました。死という絶望に支配され、いのちという希望を持つことができませんでした。いのちの「向こう側」に行ってしまったのです。

 

サマリア人は、どうだったでしょうか。サマリア人は、半殺しにされた人を、「見て憐れに思」ったのです。まだ生きていると思ったのです。憐れに思うとは、苦しんでいるいのちを発見することです。最も大切なものを見い出すことです。他人の苦しみや悲しみを、自分の痛みや苦しみのように感じることです。感じて、ともに生きてほしいと、強く願うことです。願うだけでなく、いのちに近づき、触れることです。いのちのために、自分ができることは何でも、すること、しようとすることです。そして、ともに生きたいという希望を分かち合うことです。向こう側に行ってしまった二人は、憐れに思うことができませんでした。痛みや苦しみを、ともに感じることができませんでした。ともに生きたいという希望を持つことができませんでした。

 

さらに、祭司とレビ人は、死体やけが人の血に触れると汚れるという律法を思い出し、清めの儀式のために時間をかけたくないと思ったかもしれません。二人は、忙しかったのかもしれません。さまざまな務めがあり、多くの求めに応じなければならなかったのかもしれません。傷ついた人に関わる余裕がなかったのかもしれません。サマリア人は、傷ついた人を助けるために、たっぷりと時間をかけました。

 

今日、主の御言葉に心を傾けている私たちは、憐れに思って、足を止めたサマリア人のようになりたいと願っています。サマリア人のようになれたら、幸せだと思っています。実際、サマリア人のように、傷ついたいのちを助けたこともあります。そのために、大切な時間を費やしたこともあります。それと同時に、道の向こう側に行ってしまった祭司やレビ人のような行動をしたこともあります。憐れに思いながらも、恐くて、余裕がなくて、見て見ぬふりをして、逃げてしまったこともあります。私たちは、サマリア人であり、祭司やレビ人なのです。今日のたとえ話の中で、サマリア人も、祭司やレビ人も、同じ道を歩んでいます。この道こそ、すべての人が隣人になっていく道だと言えます。隣人になって、ともに生きることができるという希望の道だと言えます。希望の巡礼者である私たちは、サマリア人のように幸せになることができると信じて、歩み続けたいと思います。善い、幸いなサマリア人という希望を持って、隣人になっていく道を歩んでいきたいと思います。隣人になるという「永遠の命を受け継ぐ」道を歩んでいきたいと思います。今日は祭司やレビ人になってしまったが、明日は、サマリア人になろう、きっとサマリア人なれるという希望を持って、ともに歩んでいきたいと思います。

 

2025/7/6 年間第14主日 お説教

 [7月6日/年間第14主日]

[お説教]

今日の福音が伝えている「七十二人」は、ここに集まっている私たちのことです。私たちは、この七十二人に加わり、福音を宣べ伝えるように、福音宣教の 喜びを体験するように招かれているのです。 前教皇フランシスコが、『福音の喜び』という文書の中で、はっきり言っている ように、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。」 主イエスに呼ばれて集まっている私たちは皆、「宣教する弟子」なのです。

 

宣教する弟子である私たちは、「収穫の主」に祈り続ける弟子です。「収穫のために働き手を送ってくださるように」、熱心に祈り続ける弟子です。私たちにとって、収穫とは、すべての人が救われることであり、ほんとうの幸いが、すべてのいのちに訪れることです。私たちは、祈ることで、この幸いが 神から与えられる恵みであることを忘れません。そして、祈りによって、自分の力だけでは、救いの福音を宣べ伝えることはできないことを、謙虚に認めます。謙虚に認めて、ともに宣教している仲間に感謝します。仲間が増えることを、心から願います。祈りがなければ、福音宣教はできません。祈ることから、福音宣教は始まるのです。

 

主イエスは、宣教の旅には、「財布も袋も履き物も持って行くな」と命じておられます。また、「途中でだれにも挨拶するな」と言っておられます。 これらの言葉は、大切なことを見失うなという意味ではないでしょうか。大切でないことに気をとられ、時間をとられて、何が大切かわからなくならないように注意しなさいという意味ではないでしょうか。大切なことは、福音が伝わるということなのです。皆が福音を知って、幸せになるということなのです。あまりに多くのものを持ちすぎて、最も大切な福音を、どこかに置き忘れていないでしょうか。まわりのことを気にしすぎて、空気を読みすぎて、福音が聞こえなくなっていないでしょうか。

 

それでは、私たちが宣べ伝える福音とは、何でしょうか。 それは、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音です。 神の国が近づいているということは、だれもが愛されていることを、心から信じることができ、安心して愛し合うことができる時が近づいているということです。

この福音を分かち合うことが、福音を宣べ伝えるということなのです。言葉だけではありません。神の国が近づいたという体験を分かち合うのです。小さな愛の行いを続けていくことで、神の国が、すでに、少しずつ、実現していることを証しするのです。

 

今日の福音では、主イエスが、七十二人に、「その町の病人をいや」すよう命じておられます。病人のいやしとは、神の愛を求めている人と、愛を分かち合うことです。自分は愛されていないと絶望している人と、愛されている喜び、愛することができるという希望を分かち合うことです。自分が神から愛されている、その愛によって、愛を求めている人を愛することです。神からいただいたいのちを、誰かのために生きることで、その人とともに、神のいのちを生きることです。ともに神のいのちを生きることで、福音の喜びを分かち合うことなのです。

 

さらに、今日の福音では、宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合える人のところに留まり、そこでの交わりを大切にするように説かれています。 「そこで出される物を食べ、また飲みなさい」という言葉は、交わりを大切にしなさいという意味ではないでしょうか。 キリストの平和に満たされた交わりこそ、福音宣教する者を支えるものです。宣教する弟子は、キリストの平和を分かち合う人々の交わりから、この世界に派 遣されていきます。そして、福音宣教とは、キリストの平和に満たされた交わりが広がっていくことでもあるのです。神の国とは、キリストの平和を分かち合う交わりでもあるのです。

 

もう一つ、忘れてはならないことがあります。私たちが宣教するところには、後から、主イエスも来られるということです。 福音記者ルカが、七十二人について、「御自分が行くつもりのすべての町や村に 二人ずつ先に遣わされた」と伝えている通りです。 私たちが宣教したところには、後から、主御自分が来てくださるのです。私たちは、主が、後から、来られるという希望を宣べ伝えながら、希望の巡礼者 としての歩みを続けたいと思います。

 

2025/6/29 聖ペトロ聖パウロ使徒 お説教

[6月29日/使徒聖ペトロ聖パウロ使徒]


[お説教]

私たちは今日、使徒ペトロとパウロの殉教をたたえるために、共同体として集まっています。殉教とは、英雄的な死を遂げるということではありません。福音のためにすべてをささげ、生き抜くということです。自分の力ではなく、神の恵みによって、生き抜き、福音のために、いのちをささげるということです。

殉教者が受ける恵みについて、使徒パウロは、次のように述べています。「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」主がともにおられるから、どのような時も福音を宣べ伝えることができるということが、殉教者を支える恵みなのです。福音は、苦難の中でこそ広がっていくからこそ、福音なのです。困難の中にある人に、生きる希望を与えるからこそ福音なのです。だから、福音を宣べ伝える者は、必ず困難を経験するのです。本当に、福音を宣べ伝える者は、誠実に宣べ伝えようとする者は、人間の力の限界を知ることになるのです。自分が無力な人間であることを実感する時、恵みが働くのです。限界を感じながらも、あきらめずに、希望を持ち続ける時、神の恵みに満たされるのです。

人間には限界があるから、努力をする必要はないということではありません。パウロは、あらゆる努力をしました。「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」ですから、神の恵みを体験することができたのです。人間である自分ができる努力をしているからこそ、神の恵みが豊かに与えられるということを、パウロは、「義の栄冠」と呼んでいるのです。殉教者は、義の栄冠を受けた者なのです。

さらに、パウロは、はっきりと、義の栄冠が、「だれにでも授け」られると宣言しています。私たちにも、同じ義の栄冠が授けられるのです。ですから、もっと努力をしなければならないということではありません。ここに集まっている皆様は、毎日、努力しています。福音の通りに生きようと、福音が勧める愛を実行しようと努力しています。だから、苦しくなります。苦しくなって、自分の限界を感じるから、祈ります。祈りながら、福音が示す生き方をしようと努力し続ける時、皆様も、そして、私も、パウロのように、決められた道を走り続けているのです。ですから、最後には、義の栄冠が与えられるのです。義の栄冠は、私たちの希望なのです。希望の巡礼者である私たちは、義の栄冠が与えられという希望を持って、この世界で、福音を証ししながら歩み続けるのです。

今日の福音で、主イエスは、使徒ペトロに対して、力強く宣言しておられます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる。陰府の力もこれに対抗できない。」私たちは今、希望の道を歩んでいます。この道を下から支えているのが、ペトロを始めとする使徒たちの信仰、希望、愛なのです。私たち教会は、使徒たちという、しっかりとした「岩」の上を、日々歩んでいる巡礼者なのです。使徒というしっかりとした道があるから、安心して、ともに歩み続けることができるのです。

前教皇フランシスコは、2015年、ペトロを始めとする使徒たちについて、次のように述べました。

「教会は、神の民が主キリストに向かう歴史の旅路を『共に歩む』ことに他ならないのです…その中では、誰も他の人の『上に』立つことなどできないということも理解できます。むしろ教会の中では、旅路において兄弟姉妹に仕えるため、人は自らを『低く』する必要があるのです。イエスは教会を設立された時、使徒団をその頂点に据えられました。使徒団の中でもペトロは、信仰において兄弟たちを『力づけ』なければならない…『岩』…でした。しかしこの教会は、逆さまのピラミッドのように、その頂点が一番下に来るのです。権威を行使する人々が『奉仕者』と呼ばれるのはそのためです。つまり、そのことばの原義によれば、彼らはすべての人の中で、もっとも小さな者たちなのです。」

希望の巡礼者である私たちは、この言葉を、もう一度、しっかりと味わいたいと思います。私たちも、使徒の生き方を受け継ぎ、小さな者として、この世界の中で、奉仕者として歩み続けたいと思います。私たちが奉仕者として生きている時、この世界の中で、「生ける神の子」イエスがおられること、福音が実現していることを証しできるのです。この世界に、希望をもたらすことができるのです。

2025/6/27 イエスのみ心 お説教

[6月27日/イエスのみ心]


[お説教]

  「イエスよ、わたしの心を、あなたのみ心に似たものにしてください。」

この祈りは、前教皇フランシスコが、祖母から教えられた祈りとして、紹介してくださった祈りです。

私たちは、今、この祈りを、熱心にささげるように求められています。

 

イエスのみ心とは、イエスの心臓のことです。

いのちが苦しんでいるのを知った時、その苦しみを感じる心臓です。

傷ついているいのちの痛みを感じる心臓です。

感じるだけでなく、いっしょに傷つく心臓です。

そして、すべてのいのちを愛する時、このみ心が熱くなるのです。炎が燃え上がるよう熱くなるのです。イエスのみ心とは、イエスの、生きている愛のことなのです。

 

私たちも皆、心臓が与えられています。

生きているとは、心臓が動いていることです。だから、心臓を大切にします。

しかし、私たちの心臓は、本当に動いているでしょうか。まわりのいのちが苦しんでいるのを知って、たくさんの人が傷つき苦しんでいるのを知って、心臓に痛みを感じているでしょうか。今日の世界の状況は、私たちの心臓に激痛をもたらすような状況です。

 

そして、私たちの心臓は、熱くなっているでしょうか。熱い思いをもって、まわりのいのちを愛しているでしょうか。熱い思いをもって、まわりの人と関わろうとしているでしょう か。

自分の心臓だけを守ることだけに必死になって、まわりの人も皆、心臓を持っていることを忘れていないでしょうか。自分の身を守ることだけに必死になって、まわりの人の心臓が傷ついていても、その痛みを感じないようにしていないでしょうか。

 

ここで、イエスのみ心の祭日である今日、私たち教会が、特に今、考え、取り組まなければならないことをお伝えしたいと思います。

教会は今、性虐待やハラスメントといった暴力のない教会をめざしています。

虐待やハラスメントといった暴力は、それを受けた人に大きな傷を残します。

その傷の痛みは、多くの場合、生涯続きます。

 

力を持っている者が、力を持たない、抵抗できない人に及ぼす暴力は、取り返しのつかない傷をもたらし、暴力を受けた人は、生きることが困難になります。心臓が止まり そうになります。愛を感じることができない心臓になってしまうことがあります。

私たち教会は、今、この傷の痛みを感じるように求められています。

自分の心臓だけを守るために、暴力を振るわないということではありません。

自分の身を守るために、暴力に加担しないということではありません。

私たち教会の皆が、安心して、愛の炎を燃え立たせることができる心臓を持ち続けることができるために、あらゆる暴力から解放されたいのです。そして、教会という枠を越えて、日々出会う人と、愛の炎を分かち合っていきたいのです。

 

「イエスよ、わたしの心を、あなたのみ心に似たものにしてください。」

この祈りを、これから、ささげ続けたいと思います。

私たち教会の心が、熱い愛に満たされることを願ってささげ続けたいと思います。

そして、私たちの心臓の熱が、冷めている心臓を温めることができるように、私たちの心臓の愛の炎を、ますます燃え立たせたいと思います。

この世界では、たくさんの心臓が、冷めてしまっています。多くの人は、心臓が冷めていても、生きていけると思い込んでいます。

私たち教会は、そうは思っていません。心臓は、熱く燃えている時、本当に生きている。熱く燃えて、愛という血液を送り出す時、生きている。そう確信しています。

 

イエスよ、私の心を、私たち教会の心を、世界中の人々の心を、あなたの、熱い愛の炎に燃えている、み心に似たものにしてください。

暴力を引き起こす心ではなく、苦しみや痛みを、深く感じている、あなたのみ心そのものに変えてください。

 

2025/6/22 キリストの聖体 お説教

 [6月22日/キリストの聖体]

[お説教]

私たちは先週、三位一体と呼ばれる、愛の交わりを祝い、この深い交わりの中で生か されている喜びを分かち合いました。

今日、私たちは、「キリストの聖体」という、この世界で実現している愛を祝っています。そして、キリストのいのちを分かち合う私たちも、キリストの聖体であることを思い 起こしています。私たちは、キリストの聖体となって、この世界の中で、真の愛を宣べ伝えるよう招かれているのです。

 

今日の福音は、主イエスが、群衆の心を、愛で満たされる物語です。

この物語は、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、 一二籠もあった」という言葉で結ばれています。

この言葉は、何を伝えているのでしょうか。

主がパンを増やされたという奇跡でしょうか。

確かに、パンは増えたかもしれません。しかし、この物語のどこにも、「増やした」という言葉がありません。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ た」と伝えられているだけです。

 

賛美の祈りは、パンが神から与えられた恵みであることを、私たちに思い起こさせます。すべては、神からの恵みなのです。

パンが裂かれることで、神の恵みは、独り占めできず、必ず、分かち合うものであることが示されています。裂かれれば裂かれるほど、神の恵みが大きくなっていくのです。 パンが小さくなっていけばいくほど、愛は大きくなっていくのです。

「パンの屑」こそ、私たちに対する神の愛の大きさ、分かち合うことで大きくなっていく、 私たちの愛を表しているのです。パンの屑は、限りなく分かち合われ続ける愛なので す。パンの屑の一つ一つには、無限の愛が込められているのです。神の愛と私たち の愛が、一つになって、込められているのです。

この愛が込められたパンの屑、無限の愛そのものであるパンの屑こそが、まさに、 キリストの聖体なのです。群衆は、この愛で、心が満たされるのです。 残ったパンの屑は、群衆の愛を表しています。群衆の愛は、自分たちの中で終わる、 閉ざされた愛ではなく、すべての人と分かち合われる、開かれた愛となっています。

 

そして、群衆にパンを配る弟子たちは、今日、こうして集まっている、私たちの姿です。私たちは、主イエスから渡された愛を、毎日の生活の中で出会う人に配る使命を 受けています。

キリストの聖体をいただいた私たちは、まわりの人を愛することで、聖体を配ります。

キリストの愛で、まわりの人を愛することが、愛を配ることなのです。私たちの愛は、パンの屑のように、小さい愛、時として気づかれない愛です。しかし、間違いなく、キリストの愛です。そして、「パンの屑」のような、私たち一人一人の小さな愛も、「集めると、一二籠」になります。一二籠を満たす、この愛こそ、キリストの聖体なのです。 共同体として、一つになって、キリストのように愛している、愛そうとしている私たちこそ、キリストの聖体なのです。

 

私たちは、キリストの聖体です。私たちは、キリストの愛を知っています。そして、 キリストの愛が、教会という枠を越えて広がっていることを知っています。

今日の福音は、主イエスが「神の国について語」られたと伝えています。

神の国は、教会共同体を越えて広がっています。神の国では、すべてのいのちが神の愛によって生きています。すべてのいのちが、互いのいのちを大切にし合っています。弱い立場に置かれたいのちが、小さないのちが、一番大切にされています。

どんな小さな愛も、見過ごされることなく、喜ばれ、感謝されています。キリストの聖体である私たちは、神の国を知っています。神の国が来ていることを知っています。

ここに、あそこに、神の国が来ているという福音を宣言することができます。パンの屑のような小さな愛を、必死になって生きている人を見い出すことができます。

何があってもあきらめずに、愛そうとしている人を励ますことができます

 

そして、今年、キリストの聖体である私たちは、希望の巡礼者として歩んでいます。

使徒パウロは、聖体が、キリストの死であると説いています。

キリストは、人間の自己中心的な思いが引き起こす暴力の犠牲となって、十字架上で亡くなられました。しかし、この死こそ、神の愛そのものでした。そして、主は復活され、十字架上の死によってもたらされた愛は、今、生きています。

キリストの愛は、永遠です。キリストの聖体は、永遠の愛であり、私たちの希望です。

キリストの愛という希望を証しする、キリストの聖体として、希望の巡礼の道を歩んでいきましょう。


2025/6/15 三位一体の主日 お説教

[6月15日/三位一体の主日]

[お説教]

 今日は、愛の祭日です。「三位一体」とは、愛そのものだからです。 愛こそ、神のいのち、私たちのいのちだからです。私たちは今日、三位一体という愛 に賛美と感謝をささげるために、こうして集まっています。愛といういのちを分かち合う ために、共同体として、集まっています。


今日の福音で、主イエスは言っておられます。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」 父である神が持っておられるものとは、何でしょうか。神は、たくさんのものを持ってお られるのでしょうか。 御父が持っておられるものは、愛だけです。愛が、持ちもののすべてです。 私たちは、つくられたものすべてが、神のものであることを信じています。それは、 神がすべてのものを思い通りにされるということではありません。 神は、つくられたものすべてを愛しておられるということなのです。 神は、愛することしかおできになりません。  


御子イエスも、同じ愛を持っておられます。御子の愛は、御父の愛と、まったく同じな のです。御父と御子は、一体なのです。一体となって、愛し続けられるのです。 御子も、愛することしかおできになりません。だから、十字架につけられても、愛し続 けられたのです。この愛が変わることなく、今も続いているからこそ、今も、十字架に つけられているのです。苦しんでいるいのちがある限り、一人でも苦しんでいる限り、 十字架の上で、ともに苦しみ続けられるのです。教会に置かれている十字架は、 御父と御子が一体となって、私たちを愛しておられることを告げ知らせているのです。  


そして、聖霊は、私たちのうちに、私たち一人一人のうちに、こうして集まっている共同 体のうちに生きておられます。聖霊は、御父と御子の「ものを受けて」おられます。 「神の愛」そのものを受けて、私たちに、神の愛を告げられます。御父と御子が一体と なって、私たちを愛しておられることを悟らせてくださいます。愛が最も大切であること を思い起こさせてくださいます。そして、私たちが、愛することができるように導いてく ださいます。三位一体の神が愛するように愛したいと願うように、私たちを駆り立てて くださいます。


もちろん、私たちの愛は、三位一体の愛と同じ愛ではありません。私たちの愛は、 不完全です。私たちの不完全な愛ゆえに、この世界は、苦難に満ちたものとなってい ます。 皆が、本当に愛し合えたら、戦争も、あらゆる暴力も、貧困や環境破壊もなくなるの に。そう思いながら、苦しい毎日を過ごしています。いのちが傷つく出来事を知り、 悲しみを感じています。無力な愛に、怒りさえ感じています。愛することなど無理だと、 あきらめてしまうことがあります。愛することで傷つくことを恐れて、愛から逃げてしま うことがあります。 


しかし、私たちは、愛することなしに、人間として生きていくことはできません。不完全 な愛は、たとえ不完全でも、間違いなく愛です。むしろ、不完全だからこそ、愛であると 言えます。自分の愛は不完全だと認めるからこそ、愛であり続けるとさえ言えます。 自分の愛が完全だと思う時、必ずと言って良いほど、相手の愛が不完全に思えてき ます。自分の愛を完全なものにしようとして、愛の範囲を狭くしてしまうことがありま す。自分の気に入った人だけを大切にして、他の人のことには無関心になってしまう ことがあります。 だから、愛は不完全で良いのではないでしょうか。自分の愛は不完全だと認め、愛を 深め、広げていきたいと望む。これこそ、三位一体の神からいただいている愛、開か れた愛ではないでしょうか。愛を閉ざすことで、苦難から逃れるのではなく、苦しくて も、開かれた、不完全な愛を生きていく。これこそ、愛ではないでしょうか。


父と子と聖霊は、完全な愛で、愛し合っておられます。 しかし、三位一体の愛は、完結した、閉ざされた愛ではありません。すべての人に、 すべてのいのちに向けられている、開かれた愛です。 すべてのいのちが、この愛に応えて、真に喜ぶ時、神の愛は完成します。 私たちの愛も、三位一体の愛に包まれ、満たされて、完成します。これこそ、私たちの 希望です。そして、この「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 三位一体という愛を信じて、開かれた愛の道を、ともに歩んでいきましょう。 希望の巡礼者として、歩んでいきましょう。 


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6月28日/年間第13主日

 [説教] 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」使徒パウロの、この信仰宣言は、洗礼の秘跡の意味を明らかにしています。私たちは今日、使徒パウロとともに、この信仰を宣言して、福音宣教の歩みを続けるいく決意を新たにしたいと思います。 ...

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