8月16日/年間第20主日

 [説教] 

昨日で、今年の平和旬間は終わりました。しかし、私たちの真の平和をめざす歩みは、今日からも続いていきます。平和旬間で新たにされた平和への熱い思いをもって、新たな歩みが始まっています。今日の集会祈願で、私たち教会は、神を「深く愛する心をお与えください」と祈りました。神を深く愛する心とは、平和を大切にする心です。平和を大切にすることで、すべてのいのちを大切にする心です。 

今日の福音は、「カナンの女」の、主イエスを深く愛する心を示しています。この女性は、自分の娘がいやされることを願っています。主の弟子たちは、自分たちの共同体のメンバーではないということから、彼女を「追い払」おうとします。彼女の心からの、救いを求める必死の祈りは、弟子たちには、うるさい雑音でしかありません。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」という祈りは、心からささげられるならば、尊い、美しい祈りです。この祈りを、世界中のすべての人がささげたら、この世界は平和になります。自分を超える方の憐れみがなければ、弱く、貧しい自分は生きていけない。そういう謙虚な思いをもって、すべての人が、「憐れんでください」と心から祈る時こそが、世界の平和が実現している時なのです。この女性は、この平和を求める祈りを、何度も繰り返しているのです。大きな声でささげているのです。平和旬間を過ごすことで平和への思いを深めた私たちは、この女性の祈りに加わりたいと思います。言語や文化の違い、宗教や国籍の違い、所属する共同体の違いがあっても、ともに祈りたいと思います。そして、こうした違いを恵みとして感謝し、違いを学ぶことによって、私たちの祈りを豊かにし、深めたいと思います。違いを学び合い、ともに豊かになっていくことが、真の平和なのです。「憐れんでください」という祈りを大切にすることで、神を深く愛したいと思います。 

福音書は、カナンの女性の祈りを、弟子たちばかりでなく、主イエスも拒否されたかのように伝えています。私たちも皆、同じ経験をします。特に、世界平和のために祈る時、どうして聞いていただけないのだろうと思ってしまいます。そんな時、私たちは問いかけたいと思います。私たちは、私たちの祈りを聞いてくださるから、神を愛するのだろうか。それとも、神を愛しているから、何があっても、まったく聞いていただけないと思えても、祈り続けるのだろうか。カナンの女性は、あきらめずに祈り続けます。「主よ、ごもっともです」と言いながら、祈りを止めません。「しかし」と言って、新たな祈りの言葉を口にします。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」この祈りは、神の愛を信じる、信仰宣言です。神の愛は、すべてのいのちにおよびますという、賛美の祈りです。そして、すべてのいのちが大切にされているということを、世界中の人が信じることができる時、真の平和が実現するのです。私たちの賛美は、神の愛への賛美、真の平和への賛美です。心から、この賛美をささげることが、神の深く愛することなのです。カナンの女性のように、何があっても、神を愛し続けましょう、神の愛を信じ続けることで、世界の平和が実現することを信じ続けることで、神を深く愛しましょう。愛とは、愛を信じることなのです。平和とは、平和を信じることなのです。 

レオ十四世教皇は、今年の「世界平和の日」のメッセージで、次のように述べています。「平和を遠い理想と考えるとき、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行っても、つまずきを覚えなくなります。」私たちは今日、この言葉を真剣に受け止めたいと思います。私たちは、世界の平和など実現不可能な理想だと考える時、身近なところの平和も実現できなくなります。イエスの弟子たちがカナンの女性を追い払ったように、自分のすぐ近くにいる人の、平和への願いを聞くことができなくなるからです。しかし、世界の平和を本当に願う時、身近な人の平和を大切にするようになります。自分と考え方の違う人、自分が嫌いな人を大切にします。世界平和を実現したければ、まず、自分が平和になることです。まわりが平和でないから、平和が実現しないのではないのです。自分が平和でないから、世界が平和でないのです。だれかを追い払うことで、真の平和は実現しないのです。愛されている者として、皆が、ともに生きることでしか、世界の平和は実現しないのです。もちろん、世界平和の実現は、やさしいことではありませんが、始めることができます。身近なところから始めることができるのです。 

主イエスは、カナンの女性に言われます。「あなたの願いどおりになるように。」世界の平和という願いの実現には、時間がかかります。しかし、いつか願いどおりになります。というより、少しずつ願い通りになることが、その道のりが、私たちの日々の歩みこそが、平和なのかもしれません。平和とは、到達点ではなく、歩み全体なのかもしれません。カナンの女性の娘はいやされて、女性の新たな歩みが始まります。私たちも、カナンの女性の新たな歩みを、ともに歩みたいと思います。

「主よ、憐れんでください」と叫び、神を深く愛しながら、真の平和の道を歩んでいきたいと思います。 


8月15日/聖母マリアの被昇天

 [説教] 

「1945 年8月9日、米軍機が投下した一発の原子爆弾は一瞬にして長崎のまちを破壊し、その年の終わりまでに人口の3分の2にあたる15万もの人々が死傷しました。13歳で被爆した故・𠮷田勝二さんは、地獄のような惨状をこう語っています。 

爆心地の方に向かうと黒焦げで炭化した人、目が飛び出ている人、内臓が飛び出した人、手足がない人たちが右往左往していた。浦上川にたどり着くと、ここも焼けただれた多くの人が、油と血と汚れた水、その水を飲みながら次々に亡くなっていった。私は、全身血だらけ、皮膚は剥がれ体の下の方にだらりとぶら下がっていた。顔も皮膚は付いていたものの、どす黒く焼け焦げていた。 

 吉 田さんの顔には生涯消えることのない大きな火傷の痕が残り、周囲からの視線に苦しみ続けました。辛うじて死を免れた人々も、心身に深い傷を負い、放射線の影響でがんなどが発症することへの不安と恐怖を一生抱え続けています。… 

一つの地球に暮らす『地球市民』の皆さん。平和な世界をつくるために、私たちにはできることがあります。『平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと。』これは𠮷田さんが被爆体験を語るとき、いつも伝えていた言葉です。相手の立場や苦しみに心を寄せ、分かり合おうと努力することは、対立や衝突を避けるための大事な一歩となります。それが人と人、国と国、それぞれの場面で信頼を育み友好関係を築く礎になるのです。𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。… 

被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきます。…」 

これは、今年の長崎平和宣言の一部です。 

今日は、聖母マリアの被昇天の祭日であり、平和旬間の最終日です。私たちも今日、天の栄光に上げられた聖母マリアとともに、心を一つにして、平和を宣言します。そして、キリストの平和を、日々出会う人と分かち合っていきます。口先だけでなく、毎日の行いを通して分かち合っていきます。 

今日の福音は、聖母の平和宣言です。平和宣言はまず、この世界が平和ではないと宣言します。自分こそ正しいと「思い上が」り、だれかを悪と決めつけ、攻撃している者がいます。攻撃することで平和が実現すると「思い上がる者」がいます。「権力ある者」は、人々のいのち、生活を守るため、人々の幸福に奉仕するという使命を忘れています。そして、権力が、人々を苦しめる手段、暴力となっています。多くの人が、権力者の「座」の下で苦しんでいます。多くの人が、人間として幸福に生きる権利を奪われています。この世界では、「飢えた人」で満ちています。「富める者」のお金は、さらなる金儲けのための投資や、自分の地位を守るための武器購入に向けられ、飢えた人を満たすことには向けられません。力のない人は、自分が幸せに生きる権利を要求することを許されず、沈黙を強いられています。聖母は、この世界が平和ではないと宣言しているのです。 

そして、天の平和が宣言されます。天では、神のみが、「力ある方」です。だれも、自分が正しいなどと主張せず、神の「憐れみ」によって生かされいること忘れず、「神を喜びたたえます。」自分を守るために、武装する必要はなく、弱く、貧しいままで良いのです。自分の弱さや貧しさを認める人こそが、「良い物で満た」されます。自分の力を誇ろうとする者は、いつまでも満たされることはありません。神のみが、すべてのいのちを生かす力を持っておられ、私たちは、力や富を持つ必要がなく、ただ、祈り続ければ良いのです。聖母マリアのように、すべての人が、神の憐れみによって、「代々に限りなく」、生きますようにと、ひたすら祈り続ければ良いのです。すべてのいのちの幸せを、願い続ければ良いのです。天の平和とは、祈り続けることができるという平和なのです。 

天の平和に上げられるということは、地上の苦しみと関係がなくなるということではありません。天に上げられた聖母マリアこそ、地上で苦しむ人の声、被爆者の声に、いつも耳を傾けています。天にいるということは、地上のすべての苦しみがわかるということです。「からだも」、天に上げられた聖母は、その栄光のからだをもって、地上のあらゆる苦しみを感じているのです。聖母のみ心とは、「平和の原点」である、「人間(ひと)の痛みがわかる心」なのです。そして、聖母の「魂」には、吉田さんの被爆体験が、すべての人の苦しみの体験が刻まれているのです。私たちも、聖母のように、魂にしっかりと刻みつけましょう。そして、「被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきま」しょう。「𠮷田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。」神からいただいた、からだと魂をもって、天の平和を地上に実現していきましょう。 


8月9日/年間第19主日

 [説教] 

平和旬間を過ごしている私たちは今日、洛東ブロック共同体として、平和祈願ミサをささげています。今日の集会祈願で、私たちは皆、聖霊によって神の子どもとされていることを確かめました。そして、約束された永遠のいのちに導かれることを、共同体として、心を一つにして願っています。平和とは、すべての人が、神の子どもとして、大切にされていることです。大切にされていることを忘れないことです。すべての人が、互いに大切にし合うことで、いつまでも、ともに生きることです。すでにこの世を去った人々のことは、私たちの記憶や祈りの中で思い起こされ、大切にされます。そうすることで、この人々は、今も、私たちとともに生きていることになります。そして、私たちは、これから生まれてくるいのちのことを考えて、今を生きることになります。今の私たちさえ生きることができれば良いという思いを捨て、未来の人々も生きることができるように、私たち以上に幸せに生きることができるように、ともに祈り、ともに努力します。こうして、過去のいのち、今のいのち、これから生まれてくるいのちが、ともに生きるようになります。ともに生き続けることで、永遠のいのちに導かれます。永遠のいのちとは、自分だけが永遠に生きることではありません。すべてのいのちが、ともに、永遠に生きることなのです。そして、この、ともに生きることこそが、真の平和なのです。 

今日の福音は、主イエスが、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」と伝えています。主は、群衆を大切にしました。群衆が生きるようになるために、ともに、平和に生きるようになるために、群衆に、ご自分のすべてを与え尽くされました。すべてを与え尽くす愛を与えられました。群衆を愛した愛だけでなく、群衆が互いに愛し合う愛です。私たちは、この愛を与えられる時、本当に平和に生きることができます。主は、祈ることによって、御父と愛を分かち合われました。私たちが祈りをささげる時、神は、この愛を分かち合ってくださいます。私たちは、この世界に平和をお与えくださいと祈るだけではありません。私たちが、この世界で日々出会う、いのちを愛することができますようにと祈るのです。愛によって、世界平和を実現できますようにと祈るのです。祈っているだけでは平和は実現しないと、よく言われます。確かにそうです。しかし、祈りがなければ、真の平和は訪れないのです。そして、宗教の違いを超えて、だれもが、安心して祈れることこそが平和なのです。 

今日の第一朗読は、神と出会うエリヤについて伝えています。エリヤは、「激しい風…地震…火」の中に、神を見いだすことはできないのです。「静かにささやく声を聞」いて神がおられることを知るのです。神は、大きな出来事の中ではなく、日々の小さな出来事の中におられるのです。そして、小さな出来事の中で働いておられる神に気づき、礼拝をささげることが、真の礼拝となるのです。この神から、真の平和が与えられます。ですから、平和とは、小さな出来事を大切にすることだと言えます。日々の小さな愛の行いに気づき、感謝できることが、平和なのです。ささやくような声であっても、平和を祈り求めていれば、平和は訪れるのです。小さな暴力だと思えても、暴力を見過ごさないことが平和なのです。平和を求める声に、声にならない声を聞き逃さないことが、平和を築いていくことなのです。声の小さい人が犠牲になり、声の大きい人の思い通りになっている限り、絶対に、平和は実現しないのです。「静かにささやく声」こそが、真の平和なのです。この声がだれにでも聞こえるようになる時、真の平和が実現しているのです。 

そして、主イエスは今日、「恐れることはない」と言ってくださいます。平和とは、恐れがなくなることです。恐れがなくなり、武器がいらなくなることです。他人に、恐れを抱かないことです。恐れを抱かせないことです。6日の広島平和記念式典の、こども代表による「平和への誓い」で次のように述べられていました。「私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。 平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。 」今日、平和祈願ミサをささげている私たちも、恐れずに行動する責任があります。相手を恐れる前に、相手の気持ちを想像し、意見の違いがあれば、理解し、学び合いたいと思います。平和への思いを語り合い、聴き合いたいと思います。相手を恐れるのではなく、ともに平和をめざしていく仲間として大切にしたいと思います。主は今日、私たち一人一人に、「安心しなさい」という言葉をかけてくださっています。私たちも、互いに、「安心しなさい」という言葉をかけ合いましょう。私たちが、「安心しなさい」という言葉をかけ合う時、そこに、私たちの平和キリストがおられるのです。


6月28日/年間第13主日

 [説教]


「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」使徒パウロの、この信仰宣言は、洗礼の秘跡の意味を明らかにしています。私たちは今日、使徒パウロとともに、この信仰を宣言して、福音宣教の歩みを続けるいく決意を新たにしたいと思います。

今日の福音で、主イエスははっきりと、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言っておられます。私たちはそれぞれ、自分が担わなければならない十字架が与えられています。十字架とは、避けたい苦しみです。自分の思い通りにならないことです。理不尽に思えることです。そして、自分の十字架は、他の人の十字架よりも、重く、大きく感じしまうことがよくあります。この十字架を担うことが、キリストと共に死ぬことなのです。この十字架を担って、生きていくことが、キリストと共に生きることなのです。洗礼を受けた人は、この十字架を担って、毎日を生きていくことができるのです。十字架を担って生きていくことに、意味を見いだすことができるのです。私たちは、洗礼によって、十字架を担って生きていくことこそが、本当に生きることであると思えるようになったのです。

私たちの苦しみで、一番大きな苦しみとは、「愛する」ことです。愛とは苦しみです。自分が好きな人だけを愛すれば良いならば、愛は苦しみではないでしょう。しかし、主イエスは今日、私たちに、自分が嫌いな人を愛することを求めておられます。嫌いな人を好きになる必要はありません。大嫌いでしかたがなく、いなくなってほしいと思っても良いから、愛するのです。喧嘩をしても、あいさつをしないほど仲が悪くても良いから、愛するのです。自分が嫌いな人は、その人を愛そうとする時、重い十字架となります。主は、ご自分を嫌い、憎む人を愛されました。だから、十字架につけられました。そして、主は、今も、十字架上におられます。すべてのいのちを愛し続けておられるからです。この十字架を担う力が、洗礼の恵みによって与えられているのです。私たちは、日々出会う人を愛するために、洗礼を受けました。キリストと共に、愛という十字架を担って生きていくために、洗礼を受けました。

ここで、注意しなければならないことは、誰かの言いなりになることが、愛ではないということです。暴力に耐え忍ぶことが、愛ではないのです。誰かを自分の思い通りにするということは、どのような形であれ、暴力です。暴力を振るう人に対しては、暴力をやめさせることが愛です。もしやめさせることができなければ、暴力から逃げることが、最大の愛です。愛とは、相手の幸せを願うことです。暴力を振るわずに生きていけることが、一番の幸せです。嫌われてたくないという理由で暴力を許すことは、愛などではありません。嫌われても、暴力を止めることが愛なのです。私たちは、暴力に耐え忍ぶために洗礼を受けたのではありません。暴力を振るうこと、暴力を振るわれることから解放されるために、洗礼を受けたのです。

主イエスは、「自分の命を得ようとする者は。それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っておられます。主のためにいのちを失うということは、自分の思い通りに生きようとするのではなく、まわりの人の思いを大切にしながら生きていくことではないでしょうか。お互いの思いを大切にしながら、ともに生きていくということではないでしょうか。主イエスは、すべてのいのちを愛しておられます。だから、私たちも、主とともに、すべてのいのちを愛することで、互いに愛し合うことで、すべてのいのちが、いのちを得ることができるということではないでしょうか。洗礼を受ける人は、いのちを得ます。それは、愛し合って生きるためのいのちです。愛し合おうとする時、必ずと言っていいほど、苦しみがともないます。この苦しみこそが、キリストとともに死ぬことであり、キリストとともに生きることなのです。生きているからこそ、苦しみがあるのです。

そして、洗礼の秘跡は、私たちをいつも、感謝の心で満たす秘跡です。主イエスは今日、洗礼を受けた私たち一人一人に、自分が「小さな者」であるという気づきを与えてくださいます。洗礼を受けた私たちは、まわりの人に支えられて生きている、「小さな者」となったのです。神とまわりの人の愛を信じて、安心して、「小さな者」のままで生きていける者となったのです。「冷たい水一杯」という言葉が表す、まわりの人の愛に気づいて、感謝できる者となったのです。洗礼の水は、神の愛です。「冷たい水一杯」は、まわりの人の愛です。「小さな者」とは、たくさんの愛に気づくことができる者です。たくさんの愛に生かされている、「小さな者」であることに感謝しながら、愛という十字架を担って、ともに生きていきましょう。

6月21日/年間第12主日

 [説教]


私たちは今日、主イエスに呼ばれて、ここに集まっています。こうして集まるということが、時間と場所をともにし、心を一つにして祈ることが、福音そのものなのです。福音を宣教していることになるのです。だから、今日も、力強く福音を宣べ伝えたいと思います。

主イエスは今日、私たち一人一人に、言われます。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」私たちは、この世界の中で、こうして集まり、ともに祈ることで、すでに、力強く、主の「仲間であると言い表」しているのです。「言い広め」ているのです。私たちは、教会の中にばかりいないで、社会の中で福音を宣べ伝えるよう励まされています。教会の中で祈っているだけでは、福音宣教にならないと言われることもあります。しかし、忘れてはならないことは、私たち教会は、社会の中で生きているということです。私たち教会が社会の中で生きていて、いつも、人々を温かく迎える時、私たち教会が福音となっているのです。私たちは、こうして集まり続けることで、だれでも歓迎し続けることで、この世界の中で福音となっているのです。私たちが、福音となっているのです。

今の社会は、安心して生きることが難しいところとなっています。「人々を恐れ」ながら生きなければならないところとなっています。教会は、社会の中で生きていますが、だれもが、恐れずに、安心していることができるところです。洗礼を受けているかどうかに関係なく、教会に来る人はだれでも、主イエスの温かい愛に包まれます。主は今日、「あなたがたの髪の毛までも一本数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、私たちに、語りかけてくださいます。このみことばを信じて、互いに大切にし合う時、私たち教会は、福音となっているのです。

私たちは今日、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という福音を、主イエスから、「耳打ちされ」ています。私たちは、この福音を、「屋根の上で言い広め」るよう求められています。「すべてのいのちは大切である」と言い広めるように求められています。特に、弱い立場に置かれたいのちを大切にすることは、私たち教会の義務です。女性が神からいただいたいのちを感謝して、その小さないのちを安心して、喜んで、この世界に迎えることができるようにすることは、私たち教会の最も大切な使命です。そのために、この世界に、いかなる暴力もあってはならないのです。いのちを傷つけることは、もちろん暴力です。しかし、それだけではありません。それ以上に、いのちを傷つけなければ生きていけないように、だれかを追い詰めることも暴力です。自分は正しいと主張し、だれかを悪と決めつけ、まわりといっしょになって責めることも、時として大きな暴力になるのです。戦争や貧困だけでなく、過度の、不要な競争、あらゆる形の虐待やハラスメントなども、決して許されない暴力なのです。暴力はいかなるものであれ、決して許されないのです。もし私たちの中に暴力があるとしたら、私たちは、主から、はっきりと宣告されることになるでしょう。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天に父の前で、その人を知らないと言う。」暴力は、福音の否定です。主を知らないと言って、主の愛を拒否することです。私たちが取り組まなければならないことは、暴力のない社会です。暴力を振るわなくても生きていける社会です。暴力を振るっている人を責めるのではなく、どうしたら暴力に頼らずに生きていける社会にしていくかを、皆で、真剣に考え、祈ることです。暴力を振るってしまう人の苦しみを理解し、暴力のない社会を、ともに築いていくことです。一人一人が抱えている傷がいやされ、すべての人が、恐れることなく、安心して生きていける社会に、共同体になっていくことです。

使徒パウロは今日、宣言しています。「恵みの賜物は罪とは比較になりません。」神の愛は、人間の罪と比較にならないほど、大きく、深いということです。私たちは今日、この福音に、喜んで、そして、謙虚に耳を傾けたいと思います。私たちは、罪人の集まりであることを謙虚に認めたいと思います。その上で、私たちは皆、神に愛されていることを喜びたいと思います。そして、神の愛によって、この世界から、あらゆる暴力がなくなることを信じて、祈りたいと思います。主イエスの仲間であることを、ともに祈り続けることで、言い広めていきたいと思います。さらに、忘れてはならないことは、ともに祈っている限り、どこにいても、離れ離れになっていても、私たちは、主の仲間です。神の愛に生かされている共同体です。教会という福音です。この世界の中で、福音となって、ともに歩んでいきましょう。さまざまな理由で教会に来ることができない人ととも、祈りでつながり合い、ともに福音を宣べ伝えましょう。

6月14日/年間第11主日

[説教]


私たちは今、「年間」という時を過ごしています。この期間は、私たち、主イエスから派遣されて、毎日の生活の中で福音を宣べ伝える時です。

私たちが宣べ伝える福音は、「天の国は近づいた」というよい知らせです。「天の国」とは、場所ではありません。生きている喜びです。神に生かされている喜びです。まわりのいのちと共にに生きている喜びです。神とまわりのいのちに支えられて生かされていることに感謝できる喜びです。ここに集まっている私たちは今日、この喜びが、「近づい」ていることを宣べ伝えるよう励まされているのです。「近づい」ているとは、天の国が始まっているということです。そして、まだ完成していないということです。私たちの喜びは、まだ本物ではないということです。多くの人が、喜びを感じていないということです。喜びでないことを喜びと思い込んで、その場限りの満足を得ているということです。

今日の福音は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と伝えています。飼い主のいない羊は、どこに向かえばよいかわからなくなります。危険や危機が来ても気づきません。そして、動けなくなります。私たちも、飼い主のいない羊になっていないでしょうか。生きている意味を見い出しているでしょうか。将来のことなど考えたくない。今さえよければいい。自分の幸せを考えるのが精一杯で、まわりの人のことなど考える余裕などない。今のままでいいから、変わりたくない。こうした思いが起こるのが悪いということではありません。こうした思いが起こる時、私たちは、「弱り果て、打ちひしがれている」自分に気づきたいと思います。そして、強がらず、弱音を吐きたいと思います。祈りとは、賛美と感謝だけではなく、神に、安心して弱音を吐くことです。弱音を吐き終わった後の賛美と感謝こそ、本当の祈りなのです。神に弱音を吐くだけでなく、互いに弱音を吐き合いたいと思います。教会は、安心して、弱いままでいることができるところです。強くなければいられないとしたら、そこは教会ではありません。

人間は強くないのです。弱い自分を認めて、神に祈るしかないのです。弱り果て、打ちひしがれている私たちが祈る時、主イエスは、「深く憐れ」んでくださるのです。そして、弱く、貧しい私たちが、共に祈る時、互いを深く憐れむことができるのです。互いの幸せを、心から願うことができるのです。共に祈る仲間に感謝することができ、共に生きるようになるのです。弱い自分のままで、安心して、神に祈り、まわりの仲間と共に祈ることができる。祈りながら、共に生きることができる。これこそが、生きる喜びであり、生きる意味ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。

主イエスは、弱く、さまざまな限界を抱えている私たちを、「呼び寄せ」、福音宣教のために、派遣されます。私たちは、派遣される時、「汚れた霊に対する権能」を授けられます。この権能は、祈りの力です。祈りこそ、悪に対する力です。悪霊が望んでいることは、私たちが祈らなくなることです。私たちが祈っている限り、誰も、私たちを神から引き離すことはできません。福音宣教とは、この祈りの力を、日々出会う人と分かち合うことです。祈りの力を分かち合って、共に祈るようになることです。共に祈る喜びを分かち合うことです。そして、主は、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます。こうした業をを行われるのは主ご自身です。私たちはこうした苦しんでいる人のために祈ります。他にできることがあっても、まず祈ります。苦しんでいる人とともに祈ります。この祈りの力を「ただで受けたのだから」、喜んで分かち合います。ここに、天の国が実現しています。

主イエスは使徒たちに、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。福音宣教のために、遠くに行く必要はありません。まず、近くにいる人と、「天の国は近づいた」という福音を分かち合いましょう。近くにいる「弱り果て、打ちひしがれている」人と分かち合いましょう。この分かち合いは、その人のために祈ることから始まります。祈りとは、主の「深く憐れ」む心をもって、苦しむ人と共に苦しむことです。共に苦しむということは、共に生きているということです。そんな共に生きることの広がりが、少しずつ大きくなっていくことが、主が言われる「収穫」ではないでしょうか。天の国ではないでしょうか。主は、「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫の主に願いなさい」と言っておられます。収穫の主に願いながら、「天の国は近づいた」と宣べ伝えていきましょう。

6月7日/キリストの聖体

 [説教]


5月31日に、三位一体の愛をともに祝った私たちは、今日、まことの神であり、まことの人間であるイエスの愛を祝っています。「キリストの聖体」とは、主イエスのすべてであり、主の愛そのものなのです。復活し、今、私たちとともに、私たちとともにおられる主ご自身なのです。

主イエスは今日の福音で、ご自分のことを、「天から降って来た生きたパン」であると宣言しておられます。「生きたパン」とは、この世界に来て、私たちとともに生きておられる主ご自身なのです。そして、私たちを、すべてのいのちを愛し続け、生かし続けるために、ご自身のすべてを与え続けておられるのです。「キリストの聖体」とは、与え続けられる、与え尽くされるキリストのことです。

主イエスは、私たちに、ご自分の「肉と血」を与え続けておられます。主の肉とは、私たちの肉体と同じ肉体です。この肉体をもって、主は、人々のもとに出向き、人々とともに歩かれました。この肉体をもって、人々に触れ、人々の痛みを感じ、人々を癒されました。この肉体をもって、一人一人の声を、ていねいに聞き、この肉体が出る声で、愛の福音を分かち合われました。この肉体をもって、人々ととともに食べ、すべてのいのちが救われている喜びを分かち合われました。この肉体をもって、十字架の上で苦しまれたのです。主の「血」とは、この苦しみそのものなのです。すべてのいのちが救われるために流され続けている血なのです。そして、この肉体が復活したことで、主は今も、苦しんでいるいのちとともに苦しんでおられるのです。苦しみをともにしながら、すべてのいのちの復活という希望を分かち合いながら、私たちとともに歩んでおられるのです。「キリストの聖体」とは、私たちの悲しみや喜びを感じておられる、笑い、泣いておられるキリストのことです。

使徒パウロは今日、はっきりと言っています。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」私たちが聖体をいただく時、皆、同じ愛をいただいています。私たちは、聖体をいただいた後、それぞれの生活をします。この世界に中で、散り散りになって生きます。私たちは散り散りになって生きていますが、キリストの愛という、同じ愛を生きているのです。散り散りになるからこそ、愛は広がっていくのです。さまざまな生き方をするからこそ、愛は豊かになっていくのです。「キリストの聖体」とは、キリストの愛を分かち合っている私たちのことです。私たちは、散り散りになって、さまざまな愛を生きる時、「キリストの聖体」となるのです。

今日の第一朗読は、荒れ野の旅の終わりに、モーセが民に告げた言葉を伝えています。その中に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。確かに、私たちは、みことばがなければ生きていけません。しかし、みことばを聞くだけで、口にするだけでは、みことばを生きていることにはなりません。みことばは、私たち一人一人の肉体を突き動かす時、愛の福音となります。心地よい言葉、綺麗な言葉が、みことばなのではありません。肉体をもって行われる愛こそが、本当のみことばなのです。肉体を動かすことができなくても、動かすことができないからこそ、必死になって愛している姿、全身全霊を込めた愛こそが、生きたみことばなのです。「キリストの聖体」は、肉体をもって生きるみことばなのです。すぐに答える人工知能ではないのです。間違いながらも、必死になって。愛を生きようとする、私たち一人一人なのです。皆が愛し合って生きていける世界を目指して、答えを探し求めて生きている私たちが、迷いながら、ともに歩んでいる私たちが、「キリストの聖体」なのです。これからも、「キリストの聖体」として、ともに歩んでいきましょう。

5月31日/三位一体の主日

 [説教]


今日は、神のいのちを祝う日です。そして、こうして集まっている私たちが、このいのちをいただいていることを喜ぶ日です。いただいている、この尊いいのちをあたりまえだと思わず、感謝する日です。

今日の福音は、神のいのちについて、次のように宣言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神のいのちとは、神が世を愛しておられるということです。世とは、神の愛を受け入れることができない、神の愛をわかろうとしない、この世界です。今の世界の現実です。だからこそ、神は、世を愛されるのです。神は、この世界を愛することしかできないのです。世が神を拒否すればするほど、神の愛は大きくなっていくのです。そして、神の愛は、独り子を与える愛です。独り子とは、神のいのちそのものです。神の独り子イエスは、そのいのちを、愛の拒絶そのものである十字架の上で、与え尽くされます。与えられるから、与えるのではないのです。与えられないからこそ、限りなく与えるのです。それが、神の愛であり、神のいのちなのです。こうした愛といのちは、私たちの理解や能力を超えています。ですから、神秘なのです。

神の愛といのちを信じる時、私たちは、「永遠の命を得る」ことになります。いのちを信じるとは、生きたいと願うことです。愛を信じるとは、愛したいと願うことです。神の「独り子を信じる」とは、主イエスのように、生きたい、愛したいと願うことです。願いながら、毎日を生きることです。「永遠の命」とは、地上の生活を終わった後のいのちではなく、今から、毎日、ずっと生きていくいのちなのです。神のように、独り子イエスのように、愛したいと思いながら、生きていくいのちなのです。神の愛は永遠ですから、私たちも、神の愛を生きたいと願う限り、永遠に生きることになるのです。私たちは天国に行きたいと思っています。それは、神に愛されたいからではありません。私たちは、地上にいる間に、神に完全に愛されています。私たちは、天国に行き、ずっと愛し続けたいのです。この地上で経験している、さまざまな限界を超えて、天国で思い切り愛したいのです。神と隣人を愛したいのです。

今日私たちが礼拝している、三位一体の神は、私たちを愛しておられる神です。私たちが信じる神は、私たちを愛しておられるから、三位一体なのです。今日の第二朗読で、使徒パウロは、彼が愛している姉妹兄弟たちに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と挨拶しています。この挨拶は、ここに集まっている私たちにも向けられています。この挨拶は、三位一体の愛が、すべての人とともにあるように願う祈りです。「聖霊の交わり」という言葉が示しているように、私たちは、愛されるだけでなく、三位一体の愛に加わるように招かれています。父と子と聖霊が愛し合っておられるように、私たちも、互いに愛し合うように励まされています。私たちが教会が、この世界の中にあって、三位一体の愛をまわりの人と分かち合いながら、生きていくように励まされています。

今日の福音で警告されているように、私たちは、神の愛を信じなければ、必ず滅びます。私たちは、愛を失えば、滅びます。愛し合えなければ、滅びることになります。私たちは、愛がなくても、お金や権力を持っていれば、生きることができると思ってしまうことがあります。しかし、そう思えるのは、今生きているからです。そして、神とまわりのいのちに愛されているから、今生きているのです。生きているから、愛を否定することができるのです。三位一体の神は、私たちを、いつでも、どこでも、今までも、これからも、ずっと愛するために、私たちとともにおられます。この三位一体の愛を信じて、この愛が生きていることを、ともに歩んでいきたいと思います。私たちがこの愛を信じている限り、この愛を宣べ伝える限り、この世界は、決して滅びることはないのです。「主の御名」、「神の独り子の名」、「愛」という御名が大切にされるかぎり、神の愛は、私たちの愛は、ずっと生き続けるのです。

5月24日/聖霊降臨の主日

[説教] 

聖霊降臨の主日である今日、私たち教会は、教会の誕生日を祝うために、こうして集まっています。そして、教会にいのちを与え続けている聖霊が、これからも、教会を超えて、あらゆるいのちを生かし続けてくださるように、心を一つにして願い求めています。

「聖霊を世界にあまねく注いでください」と祈っています。 


今日の第一朗読である、「使徒たちの宣教」は、聖霊降臨の出来事を伝えていますが、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ということばで始まっています。聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが「ほかの国々の言葉で語りだす」ことだけではありません。「一同が一つになって集まる」ことこそが、聖霊の、最も大切な働きなのです。私たちが、さまざまな違いを超えて、こうして集まる時、聖霊が力強く働いているのです。 


そして、私たちは今日、ただ集まっているのではありません。 

「イエスは主である」と宣言するために集まっています。 

使徒パウロがはっきりと言っているように、「聖霊によらなければ」、この信仰宣言はできないのです。 

私たちは、毎日の生活の中で、何度も、「アーメン」と言います。この言葉は、イエスが主であることへの、心からの同意の言葉なのです。この言葉が言えることこそ、聖霊の働きなのです。「アーメン」という言葉が出る時、聖霊降臨という救いの出来事が起こっているのです。 

聖霊降臨の主日である今日、私たちは、「アーメン」と言えることに感謝しましょう。 

さまざまな理由で、この言葉を声に出せないこともあります。私たちは、たとえ声に出せなくても、心の中で、喜んで叫ぶことができます。心の中だからこそ、まわりを気にせず、喜んで、叫ぶことができます。この叫びこそ、聖霊降臨なのです。 

聖霊降臨は、特別な出来事ではないのです。主イエスを信じている、だれもが、いつでも、どこでも、体験している出来事なのです。 

「アーメン」と言えることこそが、奇跡なのです。 


今日の第一朗読は、聖霊降臨の出来事に居あわせた人々の、次の言葉で終わって

います。 

「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 

聖霊降臨とは、主イエスの弟子たちが、神の救いの業を語り始めることです。 

私たち、キリストの弟子たちが福音を宣べ伝える時、聖霊が働いているのです。 

 

そして、この福音を聞く人がいるのです。福音を、救いのことばとして、喜んで受け入れる人がいるのです。人が福音を聞く時も、聖霊が働いています。 

使徒たちの宣教は、「わたしたちの言葉で聞こうとは」と伝えています。聖霊は、人々が受け入れやすい方法で、福音を語ります。主の弟子たちに、福音を語らせます。 

主の弟子である私たちは、聖霊が語らせるままに、福音を宣べ伝えたいと思います。そのために、聖霊の助けを願いたいと思います。 

福音宣教のために聖霊の助けを祈り求めている時、私たちは、聖霊降臨を体験して

いるのです。祈れることこそが、聖霊の働きなのです。願いがかなえられることではありません。願いがかなえられなくても、祈り続けられることが、聖霊の、最も力強い働きなのです。 


福音宣教は、個人で行うことではありません。共同体が行うことです。 

使徒パウロは今日、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」

と述べています。私たち一人一人が、聖霊の助けを求めて、福音宣教を続ける時、一人一人の行いは違っていても、対立しているように見えても、私たちは、共同体として、福音を宣べ伝えていることになります。 

だから、聖霊の働きを信じて、互いに感謝し合いましょう。感謝し合えることは、聖霊の働きなのです。私たちを聖なるものとする、愛の霊の働きです。 


今日の福音で、弟子たちは、復活された主イエスから、聖霊を与えられます。 

私たちは、主から、「聖霊を受ける」時、この世界の罪を「赦す」ことができます。 

私たちは、聖霊の働きを受けて、この世界が、いのちを傷つける悪から解放されるように祈ります。いのちを傷つける悪こそが、罪です。すべてのいのちが罪から解放され、ともに生きることができるよう、祈り続けます。あきらめずに祈り続けます。 

祈るだけでなく、すべてのいのちがともに生きる道を探し求めます。聖霊にうながされて、精一杯努力します。 

「あなたがたに平和があるように」という福音を分かち合いながら、すべてのいのちが生きることができる平和の実現をめざして、ともに歩んでいきます。 

キリストの平和を、この世界で分かち合いながら、ともに歩む時、私たち教会は、生きています。教会は、誕生し続けます。 

復活された主の愛を信じて、日々、聖霊降臨の恵みによって、ともに歩んでいきましょう。 


5月17日/主の昇天

 [説教] 


「主の昇天」の祭日である今日、私たちは、復活された主イエスが、神の右の座に着かれ、すべてのいのちを治めていることを祝っています。 

私たちは今日、まことの神である主イエスを、心を込めて、ともに礼拝しています。 


使徒言行録が伝えている通り、主イエスは、「天に上げられ」ました。 

弟子たちは、ただ、「天を見つめてい」ました。私たちも今日、天を見つめたいと思います。

私たちは、地上のことに心を奪われて、天を見つめることができなくなっています。 天を見つめるためには、足を止めなければなりません。スマホやコンピュータの画面から目を離さなければなりません。だれかの悪口を言うのをやめなければなりません。忙しい日常から、一時でも離れなければなりません。そして、外に出なければなりません。天を見つめて、神の右の座におられる主を探し求める時、私たちは祈っていることになり、心にキリストの平和が訪れるのです。 


そして、主イエスが、神の右の座に着いて治めておられるということは、御父と御子が一つになって、すべてのいのちを愛しておられるということです。 

神は、地上から離れたところで、私たちを愛しておられるのです。私たちが、この地上でどのように生きているかに関係なく、私たちを愛しておられるのです。 

天からの愛は、無条件の愛なのです。私たちは、この無条件の愛を信じているでしょうか。こんな私を、神が愛されるはずがない。私たちはよく、神の愛を信じられなくなります。そんな時は、外に出て、天を見つめたいと思います。天を見つめながら、すべてのいのちを、無条件で愛しておられる神に感謝をささげたいと思います。神の愛への信仰を深めたいと思います。地上の私たちの愛が不完全であることを、謙虚に認め、天の神の愛に、すべてをゆだねたいと思います。 


今日の福音は、弟子たちが、「ガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」と伝えています。 

山は、神と人とが出会うところです。山は、キリストの弟子となった私たちが、まことの神であるキリストと出会うところです。そこで、私たちは、主のみことばと主のいのちを分かち合います。今、こうして祝っているミサが、私たちが登る山です。 

 

ミサは、主イエスが招いてくださる礼拝です。私たちがこうして集まっていることは、 あたりまえのことではありません。共同体が集まれることは、大きな恵みです。共同体が集まって、主を礼拝することは、私たちにとって、主の昇天の体験です。日常生活から離れたところで主に出会うことこそが、主の昇天です。 

そして、弟子たちの中には、「疑う者もいた」と伝えられています。 

私たちは、神を信じることができなくなる時があります。自分の信仰に自信を失い、教会に行けなくなる時があります。今日の福音は、そんな時も、主に会いに来るように、そんな時こそ、共同体の集まりに加わるように励ましています。 

地上で生きている私たちは、完全な信仰を持つことなどできません。だから、主のもとに来て、信仰を深めていただくのです。不完全な信仰しか持てないからこそ、主のもとに集まること、これこそが、主の昇天という恵みではないでしょうか。 


そして、主の昇天とは、主イエスの福音宣教の歩みを、主の弟子である私たちが続けていくことであると言えます。主の昇天とは、福音宣教が続いていくことなのです。 

主は今日、こうして集まっている私たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。私たちは、毎日の生活の中で、神の愛で、まわりの人を愛したいと願っています。すべての人が、神の愛の中で生きることができるように努力しています。 

主の弟子である私たちは、すべてのいのちが、神の愛の中に浸され、幸せになるようにと祈りながら、毎日を生きています。 

こうした私たちの生き方が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音の実現となりますように、ともに祈りましょう。 

今月は、聖母月です。聖母マリアが、私たちとともに祈ってくださいますよう、心から願いましょう。 

「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」


5月10日/復活節第6主日

 [説教] 

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」 


主イエスは、主の復活を祝うために集まっている私たちに、この福音を分かち合ってくださいます。主は復活し、生きておられます。だから、私たちも生きることになるのです。

私たちも、復活することになるのです。主に復活されたように、私たちも、復活したのです。 


復活を信じている私たちにとって、生きるとは、愛することです。主イエスを愛し、互いに愛し合うことです。 

私たちには、「真理の霊」が与えられています。「真理」とは、愛です。 

真理とは、私たちを支える「確かなもの、信頼に値するもの」ですが、まさに、愛こそ、確かな、信頼に値するものです。主が言っておられるように、この愛そのものである霊が、私たちと「ともにおり」、私たちの「内にいる」のです。この愛の霊が生きていて、働いておられるのです。この霊の動きに従って生きる時、私たちは、本当に生きていることになるのです。そして、本当に生きることこそが、真理なのです。本当に生きることこそが、主の復活であり、私たちの復活なのです。ただ生きるだけではなく、愛するのです。 

愛し合うことで、ともに生きるのです。 


主は今日、はっきりと言われます。 

「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」 

主はここで、今の世界について述べておられるのです。 

今、多くの人が、自分だけを愛するか、自分が好きな人だけを愛することで、幸福になろうとしています。偽りの愛によって、幸福を求めています。 

しかし、真の愛は、「愛」という真理は、自分だけでは成り立ちません。好きな人だけでなく、嫌いな人とともに生きることで成り立ちます。日々出会う人と、顔と顔を会わせて、声に出して話すことで、会話することで成り立ちます。会話することで、お互いを知り合うことで成り立ちます。自分の思いだけでなく、相手の思いも大切にすることで成り立ちます。自分が好きになれない思いを理解し、大切にしようと努力することで成り立ちます。

私の思いを語り、あなたの思いに耳を傾け、私たちの思いを共有していくことで成り立ちます。自分の思いが変えられていくことで成り立ちます。そして、真理の霊が働くように心から願い求めて、ともに祈り続けることで、私たちの愛は確かなものとなっていきます。

こうして、主のみことばが実現します。 

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におりわたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」 

主が言われるように、愛の内に生きていることが、私たちに分かるのです。 


今日は、世界広報の日です。 

今年の教皇メッセージのテーマは、「人間の声と顔を守る」です。人工知能について述べられています。 

私たちの日々の生活は、人工知能システムなしでは成り立たなくなりつつあります。 

人工知能は、多くの場合、私たちが求める情報を、即座に示します。私たちが好む答えを出すようになっています。それも、すぐに出すことが期待されています。そして、基本的に私たちの思いを肯定します。 

人工知能を使っていると、時間をかけること、ともに悩むこと、みんなで考えることが、苦労して何かを作りあげることが、意味のない無駄なことだと思えるようになることがあります。しかし、愛するとは、すぐに答えを出すことではありません。愛すれば愛するほど、答えが分からなくなることもあります。答えを出さず、沈黙を保つことこそが、愛である時もあります。自分が否定されても、それでも愛し続けることで、本当の愛となっていきます。 


愛は、無駄だと思うことに時間をかけることです。ともに悩むことこそが、愛です。結果がどうであれ、みんなで苦労したことに感謝することが、愛です。失敗した時こそ、愛が必要な時、愛を深める時です。そして、何もできないと思う時、必死になって祈ることが、最も大きな愛です。 

復活されたキリストは今日、ここに集まっている私たちに、この愛の掟を守ることで、 毎日を生きていくよう励ましておられます。この愛の掟を大切にして、聖霊降臨までの二週間を歩んでいきましょう。一人一人の顔と声を、一人一人の愛を大切にして、ともに歩んでいきましょう。ともに歩みながら、愛を深めていきましょう。愛を深めていく私たちの姿が、復活のキリストの姿をあらわすものとなりますよう祈りましょう。 


5月3日/復活節第5主日

 [説教] 

復活節は、私たち一人一人が、洗礼によって、神の子どもとされていることを祝い、感謝する時です。

そして、洗礼の恵みによって、私たちは、神の愛を受けた共同体として、ともに歩むことができます。

復活節は、共同体の歩みが新たになる時、愛の共同体の復活の時なのです。 


今日の福音は、受難を前にした主イエスと弟子たちとの、愛に満ちた会話を伝えています。 

主は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と、弟子たちに告げられます。「わたしの父の家」とは、教会のことだと言えます。 

教会は、たくさんの人が、ともに生きるところなのです。神の愛、キリストの愛を信じる人ならばだれでも、ともに生きることができるところなのです。 

主はさらに、「あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われます。主が今、教会におられ、神の愛を信じている私たちを迎えてくださるのです。そして、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」というみことばが実現するのです。 


私たちは今、主イエスに迎えられて、互いに愛し合いながら、ともに生きることで、教会という共同体になるように招かれているのです。教会になっていくことこそが、洗礼の恵みなのです。 

私たちは、主によって集められ、この世界で生きている教会、地上を旅する教会です。 

地上を旅する私たちは、さまざまな問題を抱えています。地上の教会では、愛し合うどころか、傷つけ合いが起こっています。この世界で生きている教会は、この世界が抱える問題で苦しんでいます。教会が迫害されているだけではなく、教会の中で迫害が起こっています。 

教会の中で傷つき、教会の交わりに加わることができなくなっている人が多くいます。 


しかし、地上の教会だけが、教会ではありません。教会は、天上の教会と地上の教会が、祈りによってつながり、一つの教会となっています。 

天上の教会では、すべての人が神の愛で満たされ、互いに愛し合っています。さらに、天上の教会の姉妹兄弟たちは、地上の教会である私たちを愛し、私たちのために、絶えることなく、祈っています。そして、私たちも、地上の生活を終えた後、天上の教会の交わりに、愛の交わり、祈りの交わりに加わることになります。 

天上の教会にも、「住む所がたくさんある」のです。だから、この地上でさまざまな苦難があっても、「心を騒がせる」ことなく、愛である神を信じて、生きていくことができるのです。 


私たちは、洗礼の恵みによって、天上の教会に行くことができます。 

だからといって、地上の教会が今のままで良い、地上の教会を放っておいて、天上の教会に一日も早く行くことができるよう祈っていれば良いということではありません。 

天上の教会をめざして旅をするということは、地上の教会が、天上の教会に近づいていくということです。私たちが洗礼を受けたのは、私たち、この地上を歩みながら、失敗や過ちを繰り返しながらでも、少しずつでも、天上の教会に近づいていくためです。地上の教会で生きながら、愛を深め、天上の教会とともに祈るためです。さまざまな暴力によって、傷つけ合いが起こっている世界の中で、癒しの共同体、ケアの共同体になっていくためです。 

傷つき、苦しんでいる人ともに、この世界を旅するために、私たちは洗礼の恵みをいただいています。 


そして、主イエスは、私たち地上の教会が歩む道を示されます。 

主は、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。 

主イエスの歩まれる道こそ、私たちが歩む道です。天上の教会へと続く道です。この世界に、神の愛をもたらす道です。 

この道は、十字架の苦しみを通ることで、まことのいのちをいただく道です。まことのいのちとは、互いに愛し合うということです。 

私たちは、互いに愛し合えるようになるために、苦しまなければなりません。イエス・キリストを通るということは、愛のためにともに苦しむということです。 

キリストという道を通ることで、教会になっていきましょう。 

日々、愛の共同体の復活の喜びを分かち合っていきましょう。


4月26日/復活節第4主日

 [説教] 

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 


主イエスは、このいのちの福音を、受難の前に語られました。 

この福音は、すでに実現しています。主は、十字架上で、私たちのために、ご自分のいのちをささげ尽くされました。そして、復活によって、私たちに、豊かにいのちを分かち合ってくださいました。今も、分かち合っておられます。 

主は、私たちにいのちを与え続いてくださる、「良い牧者」なのです。 


私たちは、復活されたキリストからいただいたいのちによって、今、生きています。 

豊かにいのちをいただいているから、生き続けることができます。私たちは、羊のように、弱い存在です。一人で生きていくことはできません。羊が良い牧者にケアされて生きることができるように、私たちも、主にケアされることで、毎日を生きることができます。 

私たちのいのちは、主によってケアされているだけではありません。まわり人によってケアされています。私たちは、互いにケアし合うことによって、生き続けることができるのです。 

皆が幸せに生きるためにどうすれば良いかを、ともに悩みながら、ともに生きていくことが、ケアし合うということです。誰も傷つくことなく、ともに生きていける社会を実現するために、ケアをし合うことが必要なのです。 

主は、私たちを、いつもケアしてくださる、「良い牧者」なのです。 


今日は、「世界召命祈願の日」です。 

今日の第二朗読で、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」と述べられています。 

召命とは、主イエスから受けたいのちを生きることだと言えます。主が、私たちのために生きてくださったように、今も生きておられるように、生きることだと言えます。 

主は、善を行っておられる、「良い牧者」なのです。 

私たちの生き方には、さまざまな生き方があります。どの生き方も、善を行おうとしている限り、すばらしい生き方です。善の行い方もさまざまですから、生き方もさまざまになって当然です。私たちは、さまざま生き方とさまざまな善によって、互いにケアし合うことができます。 

しかし、善を行うことは、難しく、苦しいことです。善を行おうとしても、できない状況に置かれている人もいます。善を行って、傷ついた人もいます。私たちは、だれもが安心して善を行おうことができるよう、支え合いたいと思います。 

 

私たちが主からいのちをいただいたのは、私たちが召されたのは、そのためです。皆が喜んで善を行うことができるために、ケアし合うことが、私たちの召命なのです。 

私たちも、ケアし合う、「良い牧者」となるよう召されているのです。 


そして、私たちは、祈るために召されています。私たちの、第一の召命は、祈ることだと言えます。祈りながら生きることこそ、私たちの、共通の召命ではないでしょうか。 

今日の福音で、羊は、羊飼いの「声を知っているので、ついて行く」と言われています。

祈りとは、「良い牧者」である主の声を「聞き分ける」ことではないでしょうか。主の声を聞き分けながら、毎日を生きることが、祈りの生活ではないでしょうか。主の声を聞き分けるために、忙しい毎日の生活の中で、ゆっくりとした、静かな時間を過ごすようにしたいと思います。この世界に溢れている、さまざまな情報を遮断して、主の声に心を傾けたいと思います。 

今年の世界召命祈願の日の教皇メッセージで、アウグスティヌスの言葉が引用されています。

アウグスティヌスは、主が「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にまします」と告白し、さらに、「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる」と説いています。 

私たちの中の最も深いところに主が生きていて、私たちに語りかけておられます。 

ですから、主の声に心の耳を傾けたいと思います。そして、この世界で、主に「ついて行」きたいと思います。 


今、この世界では、声による傷つけ合いが起こっています。深く傷ついて、声を出せない人もいます。 

主の声を聞き分けている私たちは、まわりの人の声も聞き分けたいと思います。私たちの召命は、主イエスの声を聞き分け、同じ心で、まわりの人の声を聞き分けることではでないでしょうか。特に、声にならない声を聞き取ることではないでしょうか。 

まわりの人の声を聞き分け、まわりの人と、主から受けたいのちを分かち合うことで、 召命の恵みを生きていきましょう。 

耳を傾け合うことで、復活のいのちを分かち合うことで、ケアし合うという召命を生きていきましょう。


4月19日/復活節第3主日

 [説教] 

主イエスは、復活し、私たちとともに歩んでおられます。復活とは、ともに歩むことなのです。ただ生きているということではなく、ともに生きていくことなのです。私たちは今、「シノドス」の歩みを続けていますが、シノドスとは、「ともに歩む」ことであり、復活の歩みなのです。 


今日の福音は、私たちとともに歩んでくださる、復活のキリストを伝えています。

福音にはまず、二人の弟子が登場します。二人の弟子が主イエスに期待していたことは、自分たちの毎日の生活が、さまざまな苦しみや心配などから解放されて、すべてのことが、自分たちの思い通りになり、悩みがなくなることであったということです。自分たちの望みをすべてかなえてくださる救い主を期待していたということです。しかし、「十字架につけ」られたイエスによって、二人の期待と望みは打ち砕かれました。だから、二人は、「イエスは生きておられる」という福音を聞いても、喜びを感じることができませんでした。二人にとって、主が生きておられることよりも、すべてが自分たちの望み通りになることの方が大切だったのです。こうした二人の姿は、私たちの現実を表していると言えます。私たちも、主の復活を信じますと宣言していても、自分の毎日が思い通りにいかなければ、「暗い顔をして立ち止ま」ることが多いです。 


そんな二人に、そんな私たちにこそ、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。主のことを忘れず、思い続ける限り、主について語り合う限り、主が来て、ともに歩んでくださいます。ともに生きてくださいます。

主を信じられないとこぼしたとしても、主に失望したとしても、主に怒りをぶつけたとしても、主は必ず、ともにいてくださいます。ともにいて、私たちに語りかけてくださいます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、励ましてくださいます。 

私たちも、主とともに歩む時、苦しみを受けて、復活のいのちを受けるのです。

私たちが、毎日が思うようにいかない時、さまざまな苦しみを経験する時、主がともに苦しんでくださり、私たちは、主とともに復活するのです。 

復活とは、いのちが新たにされることです。日々の生き方が変わることです。

今までの、慣れた生き方ができなくなることです。 

 

変化には、苦しみがともないます。自分は変わろうとせず、まわりに変わることを求めることは、単なる暴力です。復活とは、変化の苦しみを分かち合いながら、ともに新たになり、ともに生きていくことなのです。 


主イエスと聖書のみことばを分かち合った二人は、主と食事をともにしました。

主は、二人のために、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな」りました。パンを与えられた二人は、ともにおられる方が、復活のキリストだと「分か」ります。主の姿は見えなくなりますが、主が生きておられることが分かります。そして、主が分かち合ってくださった、あのみことばが分かります。主と分かち合っていた時に、心が燃えていたことを思い起こします。

そして、復活の主と出会ったこと、主が分かち合ってくださったことを、仲間と分かち合うために、「エルサレムに戻」ります。同じ道を通ることになります。

しかし、希望を失い、重い足取りで歩んできた道は、喜びと希望に満ちた旅路、復活のいのちに駆り立てられて歩む道となります。私たちも、復活の主から、パンをいただきます。復活のいのちそのものである聖体です。主が裂いてくださることで、皆で分かち合うパンです。聖体は、復活のいのちの分かち合いです。

教会の中だけでの分かち合いではありません。私たちは、教会から出て、日々出会う人々と、復活のいのちを分かち合うために、聖体といういのちをいただきます。

 

私たちは、いのちのみことばといのちのパンをいただいています。みことばと聖体に生かされて、ともに生きていく力をいただいています。苦しみを分かち合いながら、すべてのいのちが復活することを信じて、ともに歩む力をいただいています。 

この力に支えられて、「シノドス」という復活の道、ともに歩む道を進んでいきましょう。 


4月12日/復活節第2主日・神のいつくしみの主日

 [説教]

主イエスは、復活し、今生きておられます。生きておられる主のからだは、深く傷ついています。私たちは今、主の復活を祝っていますが、主を深く傷つけた受難の出来事も続いているのです。

深い傷を負っている主イエスは、弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われます。この言葉は、今日、ここに集まっている私たちにも、向けられています。深く傷ついた主が、今も、平和を与え続けておられるのです。主から与えられる平和とは、どのような平和でしょうか。主が与えてくださる平和、それは、「罪のゆるし」です。

罪のゆるしとは、罪を見過ごすということではありません。罪をなかったことにするということでもありません。むしろ、罪をしっかり見つめることから始まります。主イエスが負っている傷は、私たちの罪の大きさ、深さを表しています。主を傷つけたのは、あの時のユダヤ人だけではありません。主の弟子たちも、ここに集まっている私たちも、主を傷つけています。福音記者ヨハネは、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と伝えています。弟子たちは、自分たちの罪を見つめたくなかったのではないでしょうか。主を傷つけたのはユダヤ人であって、自分たちではないと思い込みたかったのではないでしょうか。罪人のユダヤ人を恐れていたのではなく、罪人である自分を認めたくなかったのではないでしょうか。主は、そんな弟子たちの中に、今ここにいる私たちの中に入り込み、弟子たちの、私たちの恐れを取り除き、弟子たちに、私たちに平和を与えてくださいます。
平和とは、罪のゆるしとは、罪を忘れることではありません。罪をなかったことにして、前向きになることではありません。罪をしっかりと受け止めて、だれもが罪を犯さなくても生きていけるにようにすることです。罪を犯さなくても、だれかを傷つけなくても生きていけるようになることが、主の平和であり、罪のゆるしであり、復活なのです。

今の世界は、平和ではありません。罪の負わせ合いが起こっているからです。自分の正しさを主張し、まわりのだれかを罪人にしていることが、あまりにも多いからです。だれかを悪者にして、自分は正しいと思い込むことでしか生き残れない世界となっているからです。私たち教会は、この世界の中で生きています。この世界の中で、私たちは、罪のゆるしを祈っています。ミサや寝る前の祈りなどで、次のように祈っています。「聖母マリアすべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。」こうした祈りを、皆で心から祈る時、この世界に、罪のゆるしがもたらされ、平和が実現しています。罪深い私が、まわりの人とともに祈ることで、罪深い私たちとなり、罪のゆるしを分かち合うことができるのです。この分かち合いこそが、聖霊の働きであり、復活なのです。

主イエスが弟子たちに、私たちに、見せ、触れさせてくださる傷は、私たちに罪を見つめる勇気を与えます。私たちに、傷の痛みを感じさせます。傷つけ合わなくても生きていける、ともに生きていける世界を求めて祈るよう駆り立てます。今日の第一朗読の使徒言行録は、最初の共同体が、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と伝えています。使徒の教えとは、主の傷によって与えられた罪のゆるしへの招きです。相互の交わりがもたれ、パンが裂かれていることは、罪がゆるされ、ともに生きているということです。そして、聖霊に導かれた祈りは、罪人である私たち皆がゆるされることを願う祈りです。私たちも今日、熱心に、罪のゆるしを分かち合っています。罪のゆるしのみことば、罪のゆるしのパンを分かち合っています。そして、主は、私たちを、この世界で、まわりの人々と罪のゆるしを分かち合うために、「遣わ」されます。私たちは、復活のいのちをいただいています。罪に傷ついた世界に、罪のゆるしという平和をもたらすことができます。使徒ペトロが言っているように、私たちは、「新たに生まれ…死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」ています。罪に頼らなくても、皆が、ともに生きていける世界が、必ず実現するという希望に満たされています。この生き生きとした希望に支えられて、復活された主とともに、罪のゆるしの福音を宣べ伝えましょう。

4月5日/復活の主日・日中のミサ

 [説教]

復活祭が始まりました。私たちは、5月24日の聖霊降臨の主日までの五十日間、主イエスの復活を喜び、ともに祝います。


私たちはまず、主イエスの復活について、次のことを確認したいと思います。すべての福音が伝えているように、主イエスの復活を最初に体験したのは、女性たちだったということです。彼女たちは、主を深く愛していました。主の十字架上の死は、彼女たちに絶望をもたらしたのではなく、主への確固とした愛をもたらしました。だから、彼女たちは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」、主の墓を訪れたのです。彼女たちにとって、権力を持つ男性たちに無残に殺された主は、敗者ではなく、愛する主なのです。私たちは今日、彼女たちの深い愛から学びたいと思います。そして、この女性たちが、他の弟子たちに、復活の出来事を伝えたのです。女性たちの主への深い愛が、主の復活の福音を広げていきます。


今日の福音で、マグダラのマリアは、二人の男性の弟子に伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」このメッセージは、主が墓におられないから、いっしょに探しましょうという招きのメッセージです。しかし、二人の男性は、主が墓の中におられないことを確認しただけです。彼らは、墓まで走りますが、その後は走らなくなり、家に帰ってしまいます。私たちも今日、主が墓の中におられないことを知りました。私たちは、どうすればよいでしょうか。どこに行けばよいでしょうか。何をすればよいでしょうか。主が復活されたということ、墓におられないということは、私たちへの問いかけとなるのです。私たちは、これからどう生きていくかという問いかけとなるのです。この問いかけへの答えを探して歩み続けることが、私たちの復活なのではないでしょうか。復活とは、生き返ることではありません。生きていることの意味を問いかけながら、毎日を生きていくことなのです。


そして、主の復活は、時間がかかる出来事でした。福音記者ヨハネは伝えています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてあった。」主は、目覚めて、すぐに墓の外に出ていかれたわけではありません。起き上がり、一歩を踏み出すために、体を包み、顔を覆っていた布を解かなければなりませんでした。ですから、歩き始めるまでに、時間がかかったことでしょう。さらに、墓の出口は、石でふさがれていました。この世界への入口が、ふさがれていたのです。この石を取りのけるためにも、時間がかかったはずです。私たちの復活も、同じように時間がかかります。私たちも、さまざまな布で包まれて、動けなくなっています。顔を覆われて、見えなくなっています。行きたいところがあっても、大きな石が立ちふさがって、歩みを進めることができません。しかし、私たちは、こうした布や石をここちよいものとして感じていないでしょうか。動けないこと、まわりが見えないこと、進むことができないことに、安住していないでしょうか。私たちの復活とは、たとえ時間がかかっても、墓から出ることなのではないでしょうか。墓は、じっとしていればよいところです。だれかに傷つけられることもありません。だれかを愛そうとして傷つくこともありません。しかし、墓の中では、まわりの人とともに生きることはできません。だから、私たちは、墓から出たいのです。墓から出て、主イエスと出会い、まわりの人とともに生きたいのです。そして、生きている喜び、復活の喜びを、皆で分かち合いたいのです。


時間がかかっても、墓から出ましょう。そして、復活された主を探す旅を始めましょう。ともに旅をしながら、生きている喜びを、復活の喜びを分かち合いましょう。私たちが復活の喜びを分かち合う時、その分かち合いに、復活された主が加わってくださるのです。主イエスは、復活して、今、生きておられるのです。


4月4日/復活の主日・復活の聖なる徹夜祭

 [説教]

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」最初二人の女性に委ねられた福音、復活の福音は、復活の聖なる徹夜祭を祝っている私たちにも、告げ知らされました。


私たちは今、ガリラヤに行くよう招かれています。ガリラヤに行き、復活された主イエスとともに、福音を宣べ伝えるよう励まされています。


使徒パウロは、ローマの教会への手紙の中で、次のように述べています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」今夜、ともに復活を祝っている私たちも、「復活させられた」のです。「新しい命に生きる」ようになったのです。


私たちが、新しい命に生きる時、福音を宣べ伝えることになります。ガリラヤとは、私たちが、新しい命に生きるところなのです。私たちが新しい命に生きる時、そこに、ガリラヤがあるのです。


新しい命とは、使徒パウロがはっきりと言っているように、「罪から解放されている」命です。私たちは、罪から解放される時、本当の意味で生きるようになります。本当の意味で生きるとは、だれにも頼らず生きるということではありません。だれかと競争して、生き残ることではありません。私たちは、だれかに支えられているから生きることができると悟る時、本当に生きていることになります。自分もだれかを支えているのだと思える時、まわりの人とともに生きていきたいと望む時、新しい命に生きることになります。いのちとは、交わりなのです。神との交わり、まわりの人との交わりこそが、いのちそのものなのです。いのちは、交わりの中で、新たになり続けるのです。交わりは、開かれていることで、新たになり続けることができます。開かれ、新たになり続ける交わりこそが、復活のいのちなのです。


そう感じる時、ガリラヤとは、いのちの交わりであると言えます。いのちが交わりながら、新たになっていくところ、そこが、ガリラヤなのです。復活の喜びのうちに、いのちの交わりを生きていきたいと思います。私たちのガリラヤで、まことのいのちであり、愛の交わりである、復活された主イエスに出会いたいと思います。あの方は、閉ざされた墓にはおられません。開かれた交わり、復活のいのちであるガリラヤにおられるのです。


4月3日/聖金曜日・主の受難

[説教]

私たちは今日、主イエスの受難の朗読に参加して、「十字架につけろ」と叫びました。


私たちの叫びは、そのまま実現しました。主イエスは、十字架につけられ、十字架にとどまり、十字架上で亡くなられました。


主イエスは、すべての人を愛されたからこそ、十字架につけられました。私たちは、主がすべての人を愛されることを拒否しました。あの人ではなく、私を、私だけを愛してほしい。すべての人ではなく、私だけを愛してほしい。そんな思いが、「十字架につけろ」という叫びとなったのです。


主イエスは、十字架にとどまり、すべての人への愛を貫かれました。十字架上で亡くなることで、すべてのいのちへの愛を完成されました。今、私たちに残された愛は、すべての人、すべてのいのちを愛する愛だけです。それ以外の愛は、愛と呼ぶことができなくなったのです。


主の受難の出来事は、今も続いています。十字架につけられている人がいます。主イエスのように愛そうとする人は、主イエスのように、苦しみます。すべての人を愛そうとする人は、すべての人から拒否されます。特定の人、特定の集団、特定の国を愛する人が、多くの人に好まれます。私たちは、自分が好まない人を十字架につけてくれる人を好んでいるのです。この世界は、私たちの好き嫌いが、人のいのちを左右するところとなっています。すべてのいのちは大切にされなければならないことは、だれでもわかっています。しかし、好き嫌いという理由だけで、多くのいのちが否定されているのです。


主は、すべてのいのちが復活して、生きるようになるために、十字架につけられ、亡くなられました。そして、すべてのいのちは、無条件で愛され、生きるようになりました。先月29日の受難の朗読で、福音記者マタイが伝えているように、主が亡くなられた時、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「聖なる者たちの体」とは、愛を生きる体のことです。ですから、主が十字架上で亡くなられた時は、愛の復活の時でもあったのです。そして、今日の受難の朗読で、福音記者ヨハネが伝えているように、愛は、「成し遂げられた」のです。主によって成し遂げられた愛を生きる時、生きようとする時、私たちが救われていることになるのです。すべてのいのちが、愛という救いを得ているのです。


私たちは、今日で、「十字架につけろ」という思いを捨てたいと思います。だれかを十字架につけることで、好き嫌いという偽りの愛を求めることをやめて、皆で、主イエスが十字架上で完成された愛を分かち合いたいと思います。今、愛を感じ、皆で分かち合うことができなくても、愛の復活を信じたいと思います。そして、受難の主日で読まれたマタイによる受難の朗読に登場する百人隊長たちのように、「本当に、この人は神の子だった」と、信仰を宣言したいと思います。今日読まれたヨハネ福音書に登場する「愛する弟子」のように、聖母マリアの祈りに支えられて、愛の共同体となっていきたいと思います。

4月2日/主の晩餐の夕べのミサ

 [説教]

私たちは今晩、主イエスが、ご自分のすべてを与え尽くされたことを思い起こします。聖体が、私たちを「愛して、この上なく愛し」ておられる主であるということを、共同体として、ともに体験します。


私たちをこの上なく愛しておられる主は、私たちの「足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふ」いてくださる主です。私たちの前にひざまずき、私たちの疲れた足をていねいに洗い、優しくふいてくださる主です。想像してみましょう。私たちの下におられる主を想像してみましょう。


ペトロは、彼の足を洗おうとされる主に、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。主は、答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」主は、ペトロに、そして、ここに集まっている私たちに、足を洗うことに込められた愛を、そのまま受け取りなさいと言っておられるのです。私たちは、自分が幼い時、だれかに洗ってもらったはずです。そして、最後は、きれいに洗ってもらい、ていねいにふいてもらうことを望んでいます。私たちは、だれかに洗ってもらえたから、この世界で生きることができるようになったのです。だれかに洗ってもらえるから、安心して、この世界を去ることができるのです。私たちは、生きるにしても死ぬにしても、私たちの足を洗ってくれる愛、だれかの愛を必要としているのです。キリストのからだである聖体は、私たちだれもが必要としている愛です。聖体は、私たちの足を洗ってくださるキリストです。今晩、聖体という愛を信じて、そのままいただきたいと思います。


そして、主イエスは、私たちに、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言われます。私たちも今晩、足を洗い合う聖体となるよう招かれています。お互いの愛を必要としていることを素直に認めて、キリストの愛を分かち合う共同体となるように招かれています。私たち教会は、愛であるキリストのからだです。互いに足を洗い合いたいと思います。この世界の中で、人々の足を洗い続けたいと思います。主から受けた愛という水は、たらいに満ちています。人々の前にひざまずき、この水で、人々の疲れた心を洗わせてもらうましょう。足を洗い続けるキリストのからだとして、ともに歩んでいきましょう。


3月22日/四旬節第5主日

[説教]

私たちは今、洗礼の恵みを分かち合いながら、四旬節の歩みを続けています。 

洗礼は、神のいのちの恵みです。私たちは、洗礼によって、神のいのちを与えられて、主キリストのように生きるようになります。イエスのように、まわりの人のために祈り、まわりの人といのちのみことばを分かち合い、まわりの人に大切にされていることに感謝しながら、自分もまわりの人を大切にするようになります。 

一人で生きるのではなく、神とともに、まわりの人とともに生きるようになります。 


今日の福音は、主イエスが、死んだラザロを生き返らせる物語です。 

この物語で大切なことは、ラザロのために多くの人が関わったということです。 

ラザロは、多くの人のケアを受けて、再び生きるようになったということです。 

ラザロのまわりの人々も、主に出会い、主を信じることで、生きるようになったということです。 


この物語は、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という祈りから始まります。

この言葉は、単なるメッセージではありません。心からの祈りです。主の愛を信じている者の願いです。主に助けを求める、切実な祈りです。 

そして、この祈りは、ラザロの姉妹だけの祈りではありません。ラザロと二人の姉妹のために、この言葉を主に伝える人がいるのです。この人は、ともに祈る人なのです。

私たちも、ともに祈るために洗礼の恵みをいただきました。洗礼を受けた人は、まわりの人々の苦しみを自分の苦しみとして感じ、人々の願いを知り、自分の願いとして、一緒に祈るのです。私たちは、まわりの人々の苦しみに関心を持ち、人々の苦しみを感じていれば、必ず祈りたくなるはずです。祈りたいという思いこそ、神からの恵みであり、本当の祈りの始まりなのです。義務感や習慣から唱えられる祈りよりも、深い祈りなのです。 


主イエスに願う人は、主から、いのちのみことばを与えられます。今日の福音で、主がお与えになるみことばは、次のみことばです。 

「あなたの兄弟は復活する。…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 

このみことばは、マルタの願いに応えたものです。 


マルタの願いとは、ラザロが死なないことでした。生きていてくれさえすれば良いという願いであったと言えます。こうした願いに、主は、復活であり、いのちである方を信じる人は、「生きる」と宣言されます。 

死は終わりではなく、復活の始まりであり、復活を信じることが、復活の始まりであると宣言されます。死ぬか死なないかではなく、生きるのです。今の命が続くのではなく、新たないのちが与え続けられるのです。 

洗礼を受ける人は、このみことばを信じて、洗礼を受けます。そして、洗礼の恵みによって、このいのちをいただき、生き続けることができます。さらに、このみことばを、まわりの人と分かち合います。 

復活とは、自分ひとりで生きていくことではありません。まわりの人と、すべてのいのちと、ともに生きていくことなのです。だから、「決して死ぬことはない」のです。 

復活といういのちは、分かち合ういのちなのです。いのちのみことばを信じる人は、 いのちを分かち合えるようになるのです。洗礼とは、いのちの分かち合いであり、分かち合うことで、いのちが豊かになっていく恵みなのです。 


今日の福音で、ラザロは、主イエスの呼びかけに応えて、「手と足を布で巻かれたまま出て来」ます。「顔は覆いで包まれたまま」です。ラザロは生き返りますが、まわりの人の助けがなければ、生きていくことができません。最初の一歩もふみ出すことができないのです。 

洗礼の恵みも同じことです。洗礼によって、新たないのちをいただき、生きるということは、まわりの人にケアしてもらいながら生きるということなのです。まわりの人とケアし合いながら生きるということなのです。まわりの人にケアされて生きていることに気づき、感謝できることこそが、最も大きい、洗礼の恵みなのです。そして、この恵みによって、私たちは、キリストのように、まわりの人に仕えるようになるのです。 


洗礼を受けた私たちは、祈り合い、分かち合い、仕え合いながら、神の国の完成を目指しています。弱さや限界を認め合い、ケアし合いながら、生きています。私たちは今日の福音で、「涙を流された」主イエスに出会いました。私たちは、洗礼の恵みを受けて、顔を包んでいた「覆い」を取り去ってもらいました。おかげで、まわりがよく見えるようになりました。私たちの心の中では、愛の泉から、豊かな愛が湧き出ています。

私たちのまわりには、生きる意味、生きる希望を見出せない人が、生きる力を奪われている人が、たくさんいます。洗礼を受けた私たちは、今日、愛の目で、こうした人々のことを知り、愛の泉から湧き出て来た涙を流し、苦しみをともにしたいと思います。

キリストとともに、苦しみや痛みを抱えた人とともに、十字架の道を歩んでいきたいと思います。そして、愛の涙を流しながら、聖週間を迎えたいと思います。


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8月16日/年間第20主日

 [説教]  昨日で、今年の平和旬間は終わりました。しかし、私たちの真の平和をめざす歩みは、今日からも続いていきます。平和旬間で新たにされた平和への熱い思いをもって、新たな歩みが始まっています。今日の集会祈願で、私たち教会は、神を「深く愛する心をお与えください」と祈りました。神を...

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